いつからだったろうか。

宮崎美穂が渡辺麻友の事を『まゆゆ』と呼ぶようになったのは。

幼稚園の頃からもう既に『まゆゆ』と呼ばれていたような気がする。

美穂と出会ってから、もう一五年以上経っている。

けれど、彼女は今でも変わらず麻友のことを『まゆゆ』と呼び続けている。

そう呼ばれるに到る所以は、良く覚えていない。幼稚園に入園する少し前の夏祭りがきっかけだったような気がするが、そこら辺の記憶が酷く曖昧なのだ。

けれどまんざら悪い気はしない。

それは美穂と麻友とを繋ぐ貴重な糸の一本だったし、何だか美穂から特別扱いされているようで呼ばれる度に嬉しかった。
 
ぴゅう、と風が吹き付け、麻友は現実世界に戻された。

十二月は、やっぱり寒い。

高速道路の高架下を潜り抜け、大量の砂利を積載した大型トラックが巻き上げる粉塵と排気ガスを出来るだけ吸わないように息を止めながら、先行する美穂の姿を追う。

学校から歩いて十五分程度経っただろうか。

(何処に連れてく気なんだろ……)

いろいろな可能性を頭の中に浮かべ、消していく。

と、

「こっちだって」

ハッとした。

あろう事か美穂は麻友の後ろにいた。

どうやら考え事をしていた間に麻友は美穂を追い抜いてしまったらしい。慌てて美穂の元へと戻れば美穂は安心したように一息付いて、そのまま低いビル隣の地下飲食店街への階段を下りていった。

(酒でも飲んだりして)

地下街全体が気持ち酒臭い。

美穂がこんな所に出入りしていた事自体驚きだが、当の美穂は居酒屋には目もくれずさっさと進んでいく。どうやら目的は酒ではないらしい。

しばらく古ぼけた飲み屋を両側に進み、やがて最も奥まった所でピタリと止まった。

目的地は、ここらしい。

その胸を把握した麻友は、美穂と並んで目の前の店を見据える。

「ここ?」
「ここ」

小洒落つつも廃れたといった感じの小さな店がある。

お世辞にも綺麗とは言い難い、焦げ茶色のドアに掛かっている看板には、店名らしき文字が書かれている。辛うじて『ク』と『ッ』と『チ』が見て取れるが、朽ちかけの看板からはそれ以上読み取ることが出来ない。

「――スナック?」
「ハ? 喫茶店だよ」

麻友にはどうもいかがわしいスナックに見えて仕方がない。少なくとも学生が寄り道するようなところではないだろう。

「……本当に喫茶店?」
「安心してよ。ここのコーヒーがマジで美味いんだって」

にっかりと笑う美穂。

「ふ~ん」

心臓がうるさい。

馬鹿みたいな動揺を隠すために、意識して麻友は平淡で淡々とした口舌を振るう。

「知る人ぞ知る名店でさ、わたしの親戚のお兄ちゃんがここの常連でそのよしみでわたしも通ってんの」
「へー、お兄ちゃんって、幼稚園の頃よく遊んでくれた、あの人だよね?」
「よく覚えてるね」

あの頃はまだ家の周辺は雑木林と田んぼがたくさん残っていて、灌漑用水を溜めておく綺麗な溜め池まであった。確か、池の名前は『神賀池(かんがいけ)』。人工的に造られた溜め池なのに大層な名前だと幼いながらに思った覚えがある。今ではすっかり田んぼや雑木林は住宅に姿を変え、あの溜め池は埋め立てられてしまっているのだが、あの池は一生忘れることのできない場所だった。――あの時の会話も含め、何もかも。

「ま、とりあえず入るよ?」
「ん」

あの頃に戻れることなら戻りたい。

出来ることなら、本当に。