幾筋もの川が流れゆく世界。
それは、数十、数百、数千、いや、数億以上にものぼる数の川が流れている。
目指す方向は全て同じ。
ただ、形や、大きさは様々。
大きな川が途中で二つに別れて、二本の川になることもあるが、二本の川が一つになるようなことは、未だかつて誰も見たことがない。
そんな数ある一つの川を、じっと眺めている少女の姿があった。
佐伯美香。この世界の住人である。
佇んだまま、一つの川の水面に視線を落として、既に一年以上の月日が経っていた。
月日という概念がこの世界にあるのならばの話なのだが。
水面に映るのは、数人の少女達。
感情の渦巻く川の中で、唯一負の感情が見えない場所。
それが気になって、美香はずっとその少女達を追いかけた。
「まだ、そんなの眺めてるの?」
美香の背後から声を掛けたのは、同じく、この世界の住人。心配そうな素振りを見せるわけでもなく、ごく自然に、台本に書いてある台詞をただ読んだだけのように、当たり前に話しかけた。
その子に表情は一切見当たらない。
「別にあなたには迷惑掛けてないでしょ」
「…………君、なんでそんな顔してるの?」
ジロッと睨み付けた美香の顔は怒っている。その表情はこの世界には無いもの。というより、いつの頃か、美香が生み出されるもっと昔から、この世界には感情という概念が存在していなかった。
全ての人は、生み出された頃から泣くことも、笑うことも、怒ることも、悲しむこともしない。
ただ、そこに存在するだけで、後は、「死」に向かって真っ直ぐ歩み続けるだけだった。
それに対して、誰も疑問を持つことはない。それは美香も同じで、当たり前のように、この世界で生きていた。
そんな美香が、この幾筋もの川に興味を持ったのは、ほんの一年とちょっと前のことだった。
川の中には、別の世界が存在している。昔、誰かに訊かされたような気がする。
美香の住んでる世界と、この川の中の世界。それは同じ時間を流れているらしく、川の底を眺めた先には常に現在が映し出されている。その中の過去と未来を見ることは出来ないと、そう訊かされてた。
過去や未来を見ようだなんて考えたこともなかった美香だったが、ふと見下ろした一つの川に、映し出された数人の少女達に興味を惹かれた。
もしかしたら、それが初めて美香に訪れた感情だったのかもしれない。
上下左右、どこを見渡しても存在するいくつもの川は、その中の人たちの人生によって、毎日変化を施しているらしい。
だが、数億以上の川が存在する世界で、その少しの変化は誰も気づくことはなかった。
数週間が過ぎたとき、水面に映し出される少女達の表情の変化に、美香は思わず両手で自分の顔を触った。
虚ろに開いた瞳を人差し指と親指で大きく開いてみる。閉じた口も大きく開ける。そして、声を出した。
少女達のように、楽しく笑ったつもりだった。
だが、何かが違う。楽しそうという感情が欠落している美香には、それが何なのか全く判らなかった。
考えて、考えて、考えて。だが何も判らない。
この時、感じた感情こそが、苛立ちであった。
それから、さらに数ヶ月が過ぎたとき、美香に大きな変化が訪れた。
少女達の動向を眺めている内に、いつの間にか頬が緩み、喉から笑い声が零れ出ている。
それは小さな、ほんの小さな感情だったが、初めて、楽しいと心から思うようになっていた。
「変? あなたのほうが変だよ」
「…………俺が、変?」
考えているのか考えていないのか判らない表情。それを見て、美香は怒った表情から、今度は悲しそうな顔に表情を変えた。
「そう、変だよ。とっても変。だって、何を考えているのか判らないもの」
男が無表情のまま、その場を去った。遠ざかっていく背中さえ、何も感情が見えてこない。
それは、とても悲しくて、寂しいことだと思った。
再び、川面に視線を移すと、美香の表情は笑顔に戻った。
全ての感情を手に入れ始めた美香が、川面に手を触れる。
それは、その世界に行きたいという感情の表れであり、楽しいという感情を思い切り発することができるその世界に対しての嫉妬でもあった。
可愛さ余って憎さ百倍とはまた違うが、楽しそうに笑顔を交わす少女達を羨ましく思い、それとはまた別の感情が交錯していく。
一年が過ぎたとき、水面がキラキラと銀色に薄く輝いている変化に気がついた。
それは突然光だし、止むことがない。何日間それを眺めていただろうか。
気がついたときには、美香はその光に向かって、足を踏み出していた。
美香が手に入れた感情の全てを出せる場所。
辿り着く場所は、きっとそんな世界だと信じて。
辺りが真っ白な光に包まれる。
――わたしは佐伯美香。みかちぃって呼んで――
おわり