高僧に成りすました観世音菩薩の説得により、皇帝は萌乃に天竺へ取経の旅に出ることを命じた。
かくして、仁藤萌乃の天竺への旅は始まった。
萌乃一行は暫くの唐国内の旅を続け、多くの人々が往来するのを見届けていた。
七日程が経つと、河州寺という所へと着いた。ここは国境の町で守備軍の司令官が駐屯しているし、福原寺と名づけられた寺もある。萌乃一行はいつもと同じように丁重なもてなしを受けた。
翌朝、まだ夜も明けない中に萌乃が従者二人に声をかけ、驚き呆れる福原寺の僧達に詫びながら早々に出発したのは、連日、行く先々で過分な接待を受けることに、萌乃が心苦しく感じていたからだった。
ひたすら従者をせきたて、馬を進めて行くと、道は次第に狭くなって、しかも登り坂、ふりむいた先には河州衛の町はずれの灯がぽつんと見えていた。
気を取り直して登っていくと道は行き止まりとなっていた。あたりには背の高い草が生い茂り、暗さは増し、萌乃の一行は暗闇の中、大きな穴へと落ちてしまった。
「ここは……?」
気がつくと、萌乃は後ろ手に縛られていた。必死に上体を起こし、二人の従者の存在を探した。
「お? 気がついたか。お前さんの仲間ならとっくに俺の腹ん中よ。はっはっはっは」
岩の上に座ったまま酒を飲んでいる妖怪が嬉しそうに腹を抱えて笑っている。
額が白く、頭も体も黄と茶のまだら模様の衣服に包まれ、見るからに獰猛な顔をしている。
「食べたというのですか?」
「食べたも食べた。虎の穴に落ちたお前さんたちが悪いんだぜ。文句あるなら自分にいいな」
そこで萌乃の頭の中にふと疑問が過ぎった。
「どうしてわたしは食べられなかったのであろうか」
「ああ、俺様は聖僧を食べることができないんでな。だが安心しろ、俺じゃなくても別の奴が食うさ」
命拾いをしたと思ったのは束の間であったことに、萌乃は落胆した。そのとき、虎の穴から白く眩い光が洞窟内を昼間のように照らし出した。
「な、なんだなんだ?」
その光は虎の化け物の目をくらませただけでなく、萌乃の体を包み込むと、虎の穴から脱出させてくれた。
「貴方は?」
「わしは太白金星、お主は三蔵の名を継ぐ者、こんな所で死なれては困るのでな。もう大事はあるまい。気をつけていきなされ」
萌乃は伏してお礼を申し上げた。おそるおそる顔を上げると、そこにはもう誰も居らず、ただ遠くの空に一羽の鶴が飛んでいるのが見えた。
従者の背負っていた荷物はいつのまにか馬の背に括り付けられていた。萌乃はもう一度、鶴の飛んでる方向に手を合わせ、馬の手綱を引き歩き出した。
あまりにも早くお供を失った萌乃は、ひとりぼっちで天竺を目指すこととなってしまった。
それから数日、山の尾根を黙々と登り、頂上に出ると、岩山が見えた。その岩山の山頂には虹色の光が射していて、なんとも神々しい光景に、萌乃は見惚れてしまい、岩山へと向かって下りはじめていた。
人の手で造られたような道を辿ると、まるで萌乃を待っていたかのように、一人の老人が笑顔で立っていた。
「三蔵の真経を求めて天竺へいらっしゃる御僧でございますか?」
急に声を掛けられ、萌乃は礼を返した。
「そのとおりですが、なぜ知ってるのですか?」
「おお、有難や。本当にお出でなさるとは」
私は果花山の山神、ただ今は釈迦如来のおいつけで、この五行山の番人をしています、と名乗った。それを聞いた萌乃はあっけにとられた顔をしている。
山神といわれても、ただの老人にしかみえない姿だったが、それでも萌乃は相手を軽んじることはなかった。
「観世音菩薩様の教えにより、ひたすらお待ち申して居りました」
「なんと?」
「まずは、こちらへお入りください」
老人、いや山神が萌乃を導いた。
松の大樹が枝を伸ばしている脇に竹の柱、竹の壁、そして葉っぱで屋根を作った小屋のような物がある。山神が奥から木の椀に水を注ぐと萌乃に差し出した。
「これは、この前、観世音菩薩様より頂いた浄瓶でございます。あの岩山に閉じ込められている宮崎美穂と申す者のために下されたのでございます。残り物で恐縮ですが、どうぞ召し上がってください」
萌乃は、その椀に注がれた水を眺め見てから口をつけて一気に飲み干した。
「美味しい……」
まさに甘露だった。乾いた喉が潤い、体中の疲れが抜け落ちていく。それを見て山神が言った。
「私の話を聞いてくださいますか?」
萌乃は両手を膝においてから、姿勢を正した。これは心して聞かねばと悟ったからだ。
「どうぞ」
山神は深く頭を下げ、それからゆっくりと顔を上げると目の前の岩山を指差した。
「あの岩山には、五百年前、釈迦如来が天界をさわがす一匹の猿を閉じ込めるために作られたものです」
「五百年前……」
萌乃が驚いた顔で呟く。それを見た山神がさらに続ける。
「三蔵様の記憶の中にもあの子の存在が残されているやもしれません。貴方様は当時、釈迦如来の第二の弟子の生まれ変わりなのだからです」
萌乃はかすかに首を振った。
「いくら山神様のお言葉でも、そのようなことは到底信じられません」
山神はうなずいて、萌乃を外へと連れ出した。
そのとき、五行山がぐらぐらと揺れた。
「山神、早くその坊さんを連れてこいよ」
山神が五行山をふりむいた。
「こら、暴れるでない。今、連れてくる」
萌乃に向かって再度頭を下げる。
「観世音菩薩様に取経の旅に出る僧のお供をすることで、罪を償うと約束をしました。それ以来、美穂は貴方様のお出でをひたすらに待ち続けてきたのです。どうか、美穂を天竺へお連れください」
山神が喋ってる間も、岩の割れ目からは怒鳴り声が響いていた。
「そんなことどうでもいいから、その坊主にオイラをここから出すように頼んでくれ」
萌乃は山神とともに五行山の岩の割れ目に近づいた。暗い中で、目だけ光っている生き物がみえる。
「そなたが美穂か?」
「その通り、斉天大聖、みゃお様だ」
五百年も岩山の下に閉じ込めらていたにも関わらず、元気な声が聞こえて、萌乃は思わず笑ってしまった。
「そなたをそこから助け出すためには、どうしたらいいのだろう?」
「山頂に貼ってあるお札をひぺがしてくれるだけでいいんだ」
五行山を見上げた萌乃の視界には、虹色に光るお札が貼り付けてあった。五行山に三拝九拝して、お札に手を伸ばした。
突如、大声があたりに響いた。
「ひゃっほーい! オイラは宮崎美穂、みゃお様でぇい」
萌乃に軽く会釈するように言い切ると、山神に振り返ってから大声を出した。
「山神の爺さん、どうだい、ちゃんと言えただろう!?」
山神が呆れたように萌乃の前へ出た。
「この通り、生まれっぱなしの有様で、なんのわきまえもございません。どうぞお許しください」
萌乃は山神を制し、美穂を眺めた。目元に愛嬌があるが、なかなかしっかりとした面構えをしている。
「わたしは、仁藤萌乃。唐の皇帝により、三蔵の名を授かったので、今は三蔵を名乗っている。わたしが天竺へ御経を授かりに行く途中というのは知ってるのですね?」
美穂がふんと言う顔をした。
「観音さんが教えてくれたよ。オイラを五行山から解き放ってやる代わりに、お供をして天竺へ行ってこいってさ」
「で、行くのか?」
「観音さんと約束したからね。オイラは約束は守るんだ」
「天竺までは十万八千里の旅ですよ」
「オイラのきん斗雲の術なら十万八千里ぐらい、一っ飛びだい」
山神は慌てて美穂に言い聞かせた。
「天竺に行くのに、雲に乗ってはいかん。これは修行の旅なのだ。第一、お前のお師匠様は雲には乗れぬ、どこまでも歩いてお供をするのだ」
美穂は首を縮めたが、別に驚いた様子はなかった。
「それじゃ、もえのちゃん、出かけようか」
「こら美穂、お師匠様をそんな呼び方なぞ……」
山神が萌乃に頭を下げると、萌乃はにこりと微笑み返した。どうやら、萌乃はこの美穂を気に入ったようだ。