莉乃に見送られて、再び雲に乗って道を辿っていると、視界の中に天上から吊るされた竜と思われるのが監視下に啼いていた。
近づいて事情を訊くと、それは西海龍王の子だという。子竜は口惜しげに訴えた。
「父は叔母の子供達を父を失った不憫な者として、なにかにつけて甘やかしたりしています。それをよいことにあの方は我が家の宝である白珠を盗み出そうとして、火をつけました。私はそれに気づき、彼を叩きのめし、宝珠を取り返したのですが、あいつは全てを私のせいにしたのです……。悲しいことに、父は私の言うことなんかよりも、甥の言葉を信じ、天帝に訴えたのです。私は弁解をする暇も与えてもらえず、こうして宙吊りにされ、間もなく死刑になるとこなのです」
必死に服の袖にすがりつく竜の目はとても澄んでいて、清らかであった。
それに耳を澄まして聞いた観世音菩薩は、優しく頷いたあと、子竜を山中の谷川のほとりへと連れて行った。
「いつの日か、この道に天竺へ取経の旅に向かう僧が通りかかるでありましょう。お主はその僧の弟子となり、馬となって天竺へのお供をするがよい。その旅を全うすれば、天帝もお許しくだされるであろう」
子竜は嬉し泣きに泣きながら頭を下げた。
「そのお方がいつやってきますか」
「そう遠いことではないでしょう。そのときまで心静かにそのときを待ってお出でなさい」
「ありがとうございます。この恩は一生忘れません」
伏し拝む子竜と別れて、観世音菩薩は雲へと戻った。そのいく手には岩山が見える。
忽ち近づいて来た岩山は、その周囲が美しい瑞光に包まれていた。
何故ならば、その山上にはかつて釈迦如来が封印の意味で貼り付けた六字のお札があるからで、山の名は五行山。
観世音菩薩が麓の地へ下り立たれると、待っていたように年老いた山神が姿を現し、丁寧に礼拝した。
「菩薩様、お待ちしておりました」
「長年、ご苦労なことですね。美穂に変わりはありませんか?」
山神が答える前に、五行山の中から甲高い声が響いてきた。
「観音様? その声は観音様だな?」
観世音菩薩の表情は慈母のように優しくなった。
「美穂や、元気でしたか?」
とたんに、山の中の声は大きくなった。
「元気なわけないじゃん! こんな岩山の下敷きにされて五百年も経つんだよ? オイラも山神もここから開放してくれよ」
岩の割れ目から、身動きが出来ない猿の獣が小さな首を精一杯動かしていた。
「美穂や、もしかして故郷が恋しくなったのか?」
「そんなんじゃないよ。この五百年間ずっと考えてたことがあるんだ」
「何を考えた?」
「観音様が怒らないなら言うけど……怒るよ、きっと」
「よいから、言ってごらん」
「オイラが天上界でしたことはそんなに悪いことだったかな?」
「悪くないと思ってるのですか?」
「ううん、少しは悪いと思ってるよ。でも五百年もこんなとこに閉じ込められるほどのことなのか? 五百年ですよ? 普通の人間ならとおの昔に死んでるんだよ? それに、オイラはこの先もずっとこのままなのか?」
語尾に僅かに不安をのぞかせた美穂の目に、うっすら涙が溜まっているように見えた。
観世音菩薩は山神が運んできた椅子に腰を下ろし、懐から細長い浄瓶を取り出すと、山神に訊いた。
「美穂は五百年間、何を食べ、何を飲んできましたか?」
山神は口をひん曲げて一拍置くと、口を開いた。
「釈迦如来様には美穂を五行山に閉じ込められた際に、花果山から私奴をお呼びよせになり、こうおっしゃられました。『飢えたなら鉄の玉を、乾いたなら銅の汁を与えよ』と。ですから私はこう読みました。鉄の玉とは胡桃、栗、なぞの硬い実、銅の知るとはこの近くを流れる川はみな土が赤く、茶色に濁っております故、その川の水かと思い、飲ませてきました」
一息に言った山神を、観世音菩薩は満足気な微笑を浮かべて浄瓶を大切そうに差し出した。
「菩薩様のお情けじゃ。おいしい水をいただいたよ」
美穂はそれを受け取ろうとして山神に言った。
「オイラはいいよ。山神が飲めよ」
「何を言う。折角菩薩様がお前に下さったものなのに」
「だから水はオイラのものだろ? オイラがそれをどうしようとオイラの勝手さ」
狼狽する山神に、観世音菩薩は労わるように眺め言った。
「その浄瓶の水は尽きることはない。美穂の言うとおりにしたあげなさい」
「観音様」
山神は浄瓶をささげたまま、膝まづいた。
「美穂は五百年前、天上界をさわがせた暴れ者。大罪人でございます。ですが、本性はまことに優しい子でございます。悲しいかな、礼をわきまえず、分別を心得ておりませぬ。とはいえ、それは美穂の罪ではないと思います。ただ、美穂にそれを教える者がいなかっただけだけです。どうか、観音様、美穂をお許しくださるよう、釈迦如来様にお願いしていただけませんでしょうか?」
山神の頬に流れる涙を見て、観世音菩薩はそっと呟いた。
「このたび、釈迦如来は、お前にお経を求めて天竺まで出かけていく僧のお供になることを望んでいる。お前はその僧を師と仰ぎ、共をして天竺へ参れ。僧を守り助けて共にお経を東方へもたらす役目を務めれば、如来様の御心にもかない、お前は助かるかもしれないぞ」
しばらくの間、美穂は岩の割れ目から外を見つめていた。その目は深い悲しみと投げやりな気持ちがないまぜに浮かんでいる。やがて口を開いた。
「その坊さんおお供をするとういことは、ここから出してくれるんだよね?」
「うむ。だが、それはお前の師となる者がそのお札を剥がしてからだがな」
「いいよ。天竺でもどこでも行ってやるよ。こんなとこで一生を終えるのは真っ平だ。手足が自由に動かせるのなら、坊さんのお供でのなんでもやってやるさ」
「天竺までの道のりは遠いぞ。もしかして命を落とす出来事があるやもしれぬ」
「知らないよそんなの」
「必ず、参るな?」
「オイラは嘘はつかねえ」
山神がおそるおそる観世音菩薩に近づき、美穂を一瞥してから観世音菩薩を見つめた。
「ただ今の言葉がまことならば、美穂にとっては二度とない機会でしょう。どうぞ、こんなやつですが、取経の旅のお供をさせてやってください」
観世音菩薩は大きく頷いた。
「では、これより長安へ参る。ご苦労じゃがもう少しの間。美穂を頼みますよ」
「はい」
五行山に背を向けて観世音菩薩が雲に乗って東の空へと飛び立った。山神はそれが見えなくなるまで、ずっとひれ伏せたまま動かなかった。
長安は人で溢れていた。
そこで見つけたのが、仁藤萌乃、幼いときから仏門に入り、修行を極め、千経万典を読破したという僧であった。