時計の針が5時を回ろうとしているとき、明日香の眠っている部屋の戸がゆっくりと音を立てずに開かれた。

そっと忍び寄る足に、彩佳は気がついていない。窓の外は、高速道路を走る車のヘッドライトが煌びやかに流れていた。


明日香の右手には、先ほど彩佳を殺そうとしていたナイフが握られている。息を殺して、ソファに眠っている彩佳をジッと見下ろした。

頭の中で色んなことを想定した。眠ることなんか出来るはずもなく、ただ恐怖に怯えきっていた。


右手のナイフをゆっくりと持ち上げる。何度目の呼吸だろうか、大きく息を吸ったあと、持ち上げたナイフを彩佳に向かって振り下ろしていた。


「―――――っ!!」


左腕の肩付近を、毛布越しに刺された彩佳が驚きと痛みで飛び起きた。思考がついてこないのか、明日香を見るめは泳いでいる。


「な、ななな、なに!?」


噴出した血を抑えるべく、右手で傷口をしっかりと覆った。明日香の表情は今にも泣きそうで、とても寂しそうに見えた。

彩佳が再び明日香を押さえつける。そうすればそうするほど、明日香は興奮して暴れようとした。

ナイフを握った右手に噛み付いた彩佳が、それをすかさず奪い取ったのは、明日香が小さく声を出して泣いたからだった。


「はあ、はあ、はあ……泣くくらいなら、こんなことしないでよ」


奪い取ったナイフを指先で摘み取ってから、プランと胸元でぶら下げた。膝を着いて俯いている明日香を一瞥すると、さらに続けた。


「わたしを殺すことが任務なのは判ってる。わたしを殺さないと、あなたの命が危ないことも判ってる。だから、それは最終日まで待ってくれないかな?って、さっき言ったよね? 二人が生き残れる方法を探そうって。もし、見つからなかったら、そのときは、わたしの命はあなたにあげる。それじゃダメ? あと4日だけでいいんだ」


一気にそう言った。明日香は相変わらず俯いたまま何を考えてるのか判らない。左手は涙を拭っているのだろうか、顔を覆っていた。


「とにかく、ちょっと早いけど今日は、あなたの家に行きましょう」

「……え?」

「着替えとか、色々入用があるでしょ? 4日間一緒に生活するんだから。それとも、やっぱりわたしを殺す?」


一度顔を上げたかと思えば、再び俯いたまま何も答えなくなった。明日香なりに考えてるのだろう。

ここで彩佳を殺せば、任務成功で明日香の命は助かる。4日後に殺しても同じこと。だけど、彩佳が逃げない可能性がないことはない。ならばいっそのこと、ここで始末するほうが一番早い。


顔を上げた明日香が彩佳の持っているナイフに目を向けた。そして、手を差し伸ばす。その表情は人形のように無機質な笑顔で、彩佳を恐怖に導くには十分すぎるほどだった。


「そう。話しても無理ってことね」


何も言わない明日香の右手は彩佳の顔の目の前まで到達していた。今度は彩佳がナイフを振り回す番だった。一瞬だけ怯んだ明日香を体当たりで突き飛ばし、玄関まで走った。

エレベーターを待つ余裕なんかない。階段を駆け下りる彩佳の背中に明日香の気配を感じる。


道路まで出た彩佳の目の前に、タクシーが見えた。右手を挙げてそれを止める。開いた扉に飛び乗って、自分で勢いよく扉を閉めた。


「どちらま――」

「取り合えず出してください!行き先はあとで決めます」


不思議そうな顔をした運転手が、アクセルを踏み込み車を発進させたとこで、明日香が道路へと飛び出してきた。

悔しそうに足を踏み鳴らす明日香に、彩佳は小さく「ごめんね」と呟いて見せた。


バックミラー越しに運転手が彩佳を見ているのに気づき、行き先を決めてほしいのだろうと思って、口を開きかけたとき、運転手が不敵な笑みを零した。


「行き先は地獄まででよろしかったでしょうか?」

「――は?」


運転手が帽子を取る。長い艶やかな髪がふわりと流れ落ち、右手にキラリと光るナイフをバックミラー越しに見せ付けた。


「な……なんで?」

「プログラム任務遂行者は一人とは限らない。あたしもその一人。でも、まさか自分から飛び乗ってきてくれるなんてね」


ふふ。そう笑った運転手の顔はすごく嬉しそうに見えた。運転主席に顔写真と名前が書いてあるのに、目についた。

秋元才加。力強い目をした顔写真は、少しだけ笑ってるように見えた。