横山大観

その名は、今でこそ日本画の巨匠として知られているが、その人生は波乱に満ちたものだった。

 

 

測量や地図制作の仕事をする父のもとに生まれた大観。父は建築家の道に進んでほしいと望んでいたし、彼自身ももとは建築家を志していた。しかし、東京美術学校の設立を知り美術の道に進むことを決意。当然父は猛反対。学費を払ってもらえず、挿絵のアルバイトで学費を工面する苦学生となった。

 

しかし、東京美術学校で生涯の師となる岡倉天心に出会う。大観は師から大きな期待をかけられ、社会からも新時代の日本画家として注目されるようになった。才能ある若手として将来を嘱望され、1度目の結婚もし、まさに順調な道を歩み始めたかに見えた。

 

けれど、期待の大きさは強い逆風に変わっていく。大観は、従来の日本画にみられる輪郭をなくし、空気や光の流れまで描こうとした。のちに「朦朧体」と呼ばれようになったその画風は、「まるで幽霊画のようだ」と厳しく批判された。今であればイノベーションとして称えられるかもしれないが、当時はそんな時代ではなかった。期待された分バッシングも大きく、岡倉天心や横山大観の取り組みは次第に勢いを失っていった。この間、一度目の結婚相手も肺を病み他界するなど、大観にとってはつらい時期となった。

 

そんな苦しい時期を抜け出すきっかけとなったのが海外視察だった。1903年にはインドへ、1904年にはアメリカへ渡る。海外ではターナーらが評価を得ていたこともあり、横山大観らの画風は評判になる。日本では理解されなかった表現が、外から見れば新しく魅力的なものだったのだ。また、日本は日清戦争や日露戦争などの大規模な戦争を経験し、列強と肩を並べつつあった時代背景も重なり、大観は日本画が西洋画に劣るものではないこと、誇れるものであることを認識した。この経験は、大観にとって大きな支えとなり、失いかけていた自信を取り戻す転機になった。

 

日本に帰国後2度目の結婚をし、さあもう一度日本で頑張ろうと考えていた矢先、岡倉天心から五浦行きに誘われる。華やかな都を離れての新たな生活は、世間からは都落ちと揶揄され、実際も食料を求めて自ら釣りをしなければならないほどの困窮に陥っていた。栄養不足もあいまって2人目の妻も病で他界。そして1907年、大観をさらに大きな不幸が襲う。父が亡くなり、師であった橋本雅邦も世を去り、さらに五浦の家までも全焼。身近な支えを次々に失い、生活の拠点まで失うという、まさに試練の年だった。まるで天に試されているかのような苦境の中でも、大観は創作を続けた。3度目の結婚をしたのもこの頃だ。

 

その後、朦朧体の弱点を克服したといわれる「流燈」の発表を皮切りに、大観の画業はしだいに大きく花開いていった。1922年にはフランスのサロンへ出展・会員に推薦された。

また大正の終わり~昭和にかけて、軍部政治や戦争の足音が近づく中、大観の描く富士山が人々に受け入れられ、求められるようになった。そして1930年にはローマで開催された日本美術展に作家代表として赴いた。かつて日本国内で激しく批判された画家が、1937年には第1回文化勲章を受章、1947年には文化功労者にも選ばれるなど、国を代表する存在となったのだ。若き日に受けた否定を思えば、これは見事な逆転だったといえる。

 

批判され、迷い、身近な人を失いながらも、海外で感じた誇りや自信を胸に生涯高みを求め続けた末、1958年に89歳で亡くなった。酒好きで知られる大観は、酒代として絵を送った逸話がよく知られるが、決してただの酒飲みだったわけではなく、苦境の中でも自分の表現を貫く執念が彼を導いたのかもしれない。