28日水曜、大学時代のクラス会があった。専攻はフランス文学だったが、集まった11人のうち、文学にかかわる仕事をしているのは、大学に残って教授をしている男と、強いていえば出版で文学も扱ってきた自分との二人だけ。他は、外務省の外郭団体でずっと海外勤務をしていたもの、JALとJTB、つまり旅行業界が二人、電通もいる、あとは、ソニーにいた男、トヨタに勤めたあと結婚して主婦になった女性、それから印刷会社の社長もいる。ほんとに、卒業後てんでばらばらな分野に進み、それぞれ定年になりながら、再契約や転職してみんなまだ働いている。
いろいろな話をするうち、朝日新聞が連載している漱石の「こころ」の話しになった。朝日が「漱石『こころ』100年」と謳ってキャンペーンしているなかの目玉が、ちょうど掲載100年になる今年4月20日のタイミングに合わせた『こころ』の再連載である。漱石が朝日新聞の「小説記者」だったから出来た企画で、その意味は大きいと思っていた。自分は毎回、楽しみに読んでいる。しかし、その集まりのなかで、読んでいるものは二人しかいなかった。少しがっかり。他の学部ならともかく、一応、文学を専攻した同輩たちである。
先日のある少人数の会合でこの話題を出したら、一人、弁護士をしている年配の人が読んでいた。その人も若い時に読んだが、今読むとなんだかまどろっこしいね、と否定的な口ぶりだった。大学の後輩の女性も、若い時読んで、「くら~い」という印象しか持たなかったから・・・・と言っていた。
先週、朝日に寄稿した若い芥川賞作家は、「10代のころ読んだが、あまりぴんとこなかった」「『こころ』の登場人物はみな暗い」と書いていた。この30歳そこそこの作家は、しかし、「いくつか好もしい場面があった」として、ある細部の描写を取り上げ、鮮烈だとほめていた。
おしなべて、自分の周りでは、この再連載に好ましい評価をする人間は少ない。しかし、私は違う。毎回読んでいて、多くの描写から、若い時に読み切れなかった作者の気持ちが、痛いように分かって、新鮮な驚きを感じている。その時代、つまり漱石がこの小説を書いたのは大正3年だから、明治が終わってまだ2年しか経っていないということを考えれば、この小説の表現の新しさ、発表当時のインパクトの強さが想像できる。その若い芥川賞作家のほめ方も、ずれているなあ、と思うのだ。
漱石の近代への意識が、その時代のほとんどの人々の先を行く進んだ意識だったから、彼の孤独、彼の苦悩は深いのだ。若くして欧米に生活した永井荷風もしかり。「近代人の自我」という難しい言い方をしなくても、感じる力があれば、漱石や荷風の苦悩は分かるはずだ。荷風は日本的耽美の世界へ自分の関心を転じることで、心の葛藤から逃れる,というより、時代と社会に強烈な反骨の姿勢を示した。しかし、漱石は、まじめにその苦悩と向き合ってそれを自分の小説のテーマとした。
ほとんど今の小説のプロもアマも、つまるところ、「こころ」の読み方を間違えているとしか思えない。いわば「古典」といえるほど、時代環境の違う小説に接する時は、過去に向かう想像力の翼を思いっきり広げて読む態度が必要なのだ。
批評家の江藤淳が、「文学の衰弱」と言いだしてから、30年以上経つだろうか。日本は世界に誇るべき豊かな言語文化の国だった。万葉集はシェイクスピアの作品に先んじること千年、源氏物語は600年も前に生まれている。いまは、ほとんどの日本人に、そのことの認識すらない。「文学の衰弱」どころか、「文化の衰弱」「日本人の衰弱」に思えてくる。
それにしても、漱石が生きていたら、この再連載と読者たちの反応について何というだろう?
「わぁ・・・やめてくれ~」と、頭をかかえながらそんなことを言いそうな気もするけど・・・・・・。
