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その庭は、
街で最も日の当たりの良い急な坂道の中程にあった。
庭は蔦の絡まった煉瓦造りの高い塀に囲まれていて、
外から中を窺うことはできなかった。
塀から突き出ている時計台。
その頂きからは、
鉄筋を折り曲げて造られた獣の彫刻が
眼下の通行人をしかめっ面で睨み付けていた。

気付いたら僕は庭を彷徨っていた。
自分がその庭に入り込んだ経緯ははっきりと覚えていた。
蔦と一緒に絡み付いた細い木の幹を足場にして、
屈強な煉瓦造りの壁をよじ登って侵入したのだ。
それでも僕は、
そのような大胆な行動に至るまでの動機と、
ここに侵入するまでの精神的経緯を思い出せなかったので、
さも自分がそこに迷い込んでしまったかのような錯覚に陥っていた。

広大な庭は見渡す限りの植物で溢れていた。
それが庭全体を手狭に感じさせていたのだろう。
品種ごとに区画整理された植込みには、
図鑑などでは見たことはあるが実際には見たことがない植物が、
血気盛んな群衆の挙手のように勢い良く生い茂っていた。

僕の目の前で煉瓦の敷石が埋められた小道が暫く続き、
花壇を巡らした遊歩道のすぐ脇には、
僕の背丈くらいはある草花が群生していた。
その先には鬱蒼とした森が広がり、
土から立ち昇る湿度で視界の奥は霞んでいた。

森を避けて歩いていると、
白いペンキが塗られた鉄骨製のアーチが僕を迎え入れた。
敷石は途切れ、
革靴が細かい砂利に減り込んだ。
僕は何となしに門の表面を指でなぞった。
溶接の跡はなく、
鉄は繊細に折り曲げられて空中にリーフ模様を描いていた。
表面に薄っすらと密生している苔を指ですくって匂いを嗅ぐと、
田園風景にイメージが繋がる湿った土の匂いがした。

門を潜ると、
背の高い草花は途絶えて右手に小さな東屋が現れた。
藍色の瓦が何枚も重ねられた円錐形の屋根を
六本の白亜の柱が支えていた。
腰ほどの高さの白い漆喰の壁が一つの柱間を除いて東屋をぐるっと覆い、
その様相は海の向こうにある大統領府を想わせた。

僕ははっとして息を呑んだ。
僕の視界から、

庭を一周する形で囲んでいると思われた煉瓦造りの塀が
忽然と消えていたのだ。
前方に視界を遮るものは東屋以外には何もなく、
高台は僕が生まれ育った小さな街を眼下に踏みつけて、
その遥か向こうに広がる風景の全体が視界をはみ出て広がっていた。

東屋の入り口から中を覗くと、
正面のベンチに一人の女性が体を横に向けて座り、

高台から一望できる景色を見つめているようだった。
僕が現実感と非現実感の間で揺れながら立ち尽くしていると、
女性は別段驚きもせず顔をこちらに向き直した。
女性は少女だった。
少し切り過ぎた前髪が時々吹く強い風に揺れ、

その襟足が隠れるくらいの内巻の髪は風をその内側に含ませて、
柔らかそうに丸まりながら風に弄ばれていた。

僕は色々と言い訳を考えながら、
幾分か洒落た服装で家を出たことを神様に感謝した。
そう。

僕はあくまで侵入者であり不審者だったのだから。

少女の、じっと見つめられると吸い込まれそうになる大きな瞳は、
はっきりと僕に向けられていた。
僕は集中してあらゆるパターンの言い訳を思い付こうとしたものの、
それは具体的な形になることはなく、
床に落ちた未使用のチョークのように未来を描けないままに砕け散った。

柱を囲う腰の高さほどの塀の上で、

メジロが忙しなく飛び跳ねた。
少女は表情を変えずに少し首を傾げた。
実際に傾げたかどうかは分からなかったが、
少なくとも僕にはそう見えた。
表情は曖昧であるのに、
その意思は明確であるような不思議な雰囲気が少女にはあったのだ。

強い突風が吹き抜けて、
少女の髪が乱れて顔にかかった。
少女は左手指の甲側でそれを勢いよく払い除けた。

「中に入ってもいいですか?」

僕は暫く、
その言葉が自分の口から出たことに気付けないでいた。
正確に時間を刻まない時計のように、
外からは見えないところで何かが決定的にずれてしまっていた。
僕の動機と行動は依然と分裂したままだったのだ。

「・・・・・・」

風に乗って少女の声らしきものが聞こえてきた。
少女の唇はわずかに震えていた。
もしかしたら、
群生した草花の隙間を吹き抜けて鳴った風の音色だったのかもしれない。

それでも、僕は心臓が止まりそうになった。
少女の濡れた厚い唇がわずかに開いた。

その一連の小さな流れは目の前の世界を支配して僕を凍りつかせた。
少女の悪戯心と警戒心が、
風に揺れる鈴の音のように凛とした声色の中で同居しているようだった。


どこかで聞いたことがあるような、
すぐにでも忘れてしまいそうな、
忘れても夢の中で聞こえてきそうな、
捉えどころない空気の震えのように人の心を誘う声。

僕は意を決っして、

前方に遮るものが何もない、
住み慣れた街も見えなければ高い塀もない、
向こう側まで開けた少女のいる空中世界に足を踏み入れた。
するとすぐに、

僕は風の精霊の存在を信じたくなるような、
後ろに控えた、何者かの気配を含んだ心地よい空気の動きに包まれた。

少女は風で乱れた前髪を直しながら再び半身になって、
風の動きの全体が見渡せる広大な景色を眺めはじめた。
風こそが絵筆となって景色を動かすという事実を、
この東屋からは手に取るように把握することができた。
海岸線を列車が走り、
水平線の上を船がゆっくりと滑っていた。
気球は絵筆から放たれた絵具の一滴のように景色に貼り付きながらも、
一定の高さを保ったまま空に浮いていた。
図々しくも、
僕は自分が招かれざる客であることを忘れてしまって、
過去に少女と何事かを約束をして、
それを果たすために遠くからやってきた兄であるような偽りの歴史を
自然と背負っていた。

現実。

僕は入口を除いて壁沿いにぐるっと備え付けられたベンチに座り、
広がる景色をバックにした少女の表情を覗き見た。
丁寧にニスが塗られた、
木目のはっきりとした木製のベンチを拳をつくってノックすると、
高価な木材特有の深い打音が返ってきた。

少女は僕の不審な動作を気にすることもなく、
その顔は風が行き交う景色に向けられ、
整った横顔は風景を縁取っていた。

また強い風が東屋の中を吹き抜けた。
一瞬、
少女の首と耳が露わになった。
際限なく広がる景色の中で、
最も美しい曲線がそこにあった。
屋根を支える柱は額縁となり、
背後に浮かぶ壮大な景色は少女の単なる背景となっていた。
僕には、

少女の首から肩の流麗な曲線を風が喜びながら滑ってゆくのが

はっきりと見て取れた。
風達は格好の跳躍台を見つけたスキー選手のように、
次々と少女の表面を勢いよく滑降して飛び立っていった。

水も空気も
透き通れば透き通るほどに透明に近い青になる。
綿菓子のような雲はその青に浮き、
そのまま透明な水面に映る。

少女と僕の前で広がる世界の殆どは中空にあって、
もはや地上は世界の上下を二人に知らせるためだけにあった。

重力。
僕を唯一現実に繋いでいる力。
風は重力を受け流す。
僕は時々、
今ここが何処であっても、
自分が天井から逆さ吊りにされているような感覚に陥ることがある。
その時はいつも想像している。
僕の足は大きな球体の上に固定されていて、
それは重力のない宙に浮きながらぐるぐると回り出すのだ。

白亜の柱に蔦と一緒に絡む花。
少女の近くには濃い赤色と薄いピンク色の大きな牡丹が咲いていた。
東屋の脇に控えた鬱蒼と茂った観葉植物。
花のあまりにも人工的で生々しい自然美が、
開けた空間の非現実的な現実感を強固にしていった。
少女は風と花に縁どられ、
絵画の中に後退してゆくようだった。

再び突風が吹いて世界は動いた。
少女のドレスは膝までめくりあがり、
少し切りすぎの重い前髪が風にそよいでおでこが露わになった。
一瞬少女が照れたように見えた。
風は再び格好の跳躍台を見つけ、
その勢いを増していった。
少女を囲む赤色とピンク色の大きな花。
少女の唇は、
ちょうどその間の色でもって世界の光を反射しながら風を操り、
今にも何かを話し出しそうな予感に震えていた。


絵 堀江美智子 文章 利根山和光