教育勅語について | 酒とお絵描きの日々/たけなかアトリエ

教育勅語について

どこのニュース見ても、森友学園の話題で囂(かまびす)しいですね。

不正があるなら糾せばいいし、虚偽があれば暴けばいい。

 

ただ、気になるのがこの問題に便乗して一部メディアや人物が教育勅語についても批判的な意見を並べている点です。

さらに安倍政権を批判する材料にも使いたいらしい。


これとかこれとかこれとか。

 

どれもだいたい同じ主張です。

 

・教育勅語は戦後の国会で排除、失効されたので使うべきではない。

・上(天皇)からの価値観の押し付けは受け入れられない。

・天皇のために命を捧げよと言っている。

 

というところが主なところでしょうか。

 

でも、国会で失効決議がされたのは昭和23年で、日本は占領下にありました。

だからと言って決議を否定する訳ではありませんが、状況を鑑みる必要はあると思います。

連合国にとって、二度と西洋列強に刃向かわせないという意思があったことは疑いないところです。

(教育勅語だけは他の詔と違い大臣の副署がない点も意味があると思われますが長くなるので割愛)

 

また天皇からの押し付け、命令だと言いますが、全文を読めばわかる通り『日本古来の道なので、天皇自らもこれを行うので皆も一緒にやりましょう』と言っておられます。

 

日本という国は、皇室と国民が一つの家族のようにして続いてきた国です。

(一般に「人間宣言」と言われる昭和天皇の新日本建設の詔もその点を改めてお言葉にされたものです)

 

そもそも神武天皇の建国の詔からして、国民のためになることを第一とし、世の全てが一つの家族のように。と願われていますし、歴代天皇も皆、民の幸福をこそ祈り願われてきています。

その心は国民のことを「おおみたから」と呼ばれていることでもわかりますし、以下の御製(天皇の詠まれた和歌)を読んでも伝わってきます。

 

仁徳天皇

高き屋に登りてみれば煙立つ 民のかまどはにぎはひにけり

 

桃園天皇

神代より世々にかはらで君と臣の 道すなほなる国はわがくに

 

光格天皇

身のかいは何を祈らず朝な夕な 民安かれと思ふばかりぞ

 

孝明天皇

澄ましえぬ水にわが身は沈むとも にごしはせじなよろづ国民

 

明治天皇

四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさはぐらむ

 

昭和天皇

爆撃にたおれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

身はいかになるともいくさとどめけりただたおれゆく民をおもひて

国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

 

 

「一旦緩急あれば義勇公に報じ」というのは、天皇のために命を捧げよ。ではなく、私たちの国である日本のためにいざという時は勇気を出して皆で国を守ろう。という決意に他なりません。

日本の国柄は天皇を中心とした家族のような国なので皇運というのはそのことを示しています。

自分の国は時に血を流しても自分で守るのは当たり前の国際常識です。

 

天皇はまさに日本国民のお父さんとも言えます。

だからこそ、マッカーサーに面会した際に昭和天皇は戦争の責任は全て自分ひとりにある。自らはどうなっても良いからどうか国民だけは助けてほしい。皆飢えているので支援してほしい。と持てるだけの有価証券を差し出して願われたのだと思います。

 

今、例えば福島から避難してきた子供がいじめられる事件がありますが、こういったことを見るとやはり教育勅語の精神の復活が急務だと思います。

 

学校で教えるのは価値観の押し付けという人もいますが、教育とは押し付けが必要です。正しいことをきちんと教えるのは大人の義務です。

それをやらず小さい頃から権利だ自由だと言ってきたことの弊害はいろんなところに出てきています。

 

教育勅語の精神は明治天皇の押し付けなどという偏った言説は残念でなりません。

これは日本人が長い間大切にしてきた日本人の価値観なのですから。