マンション前の

小さな公園










 



















誰もいない深夜



いるのは俺だけ







ひとりぼっちの



俺ひとり

















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俺は「お一人様」が怖くない

「ひとり」は
俺に寄り添う影法師の様なものだ




何度も書いているが
俺は小学5年生で大阪から四国へ
子供用ワイド周遊券を使って「ひとり旅」に出た

行くあても計画もない
ただ気分次第でその日の行動を決めた
泊まる所も決めず夜汽車を宿代わりにした
だがそれもあくまで予定で
予定の汽車に乗り遅れ
待合室の事を「ステーションホテル」とウソブいて
そこのベンチで横になった事も度々あった



そんな子供だったから
「ひとり」
は怖くないのだね







だからといって「ひとり偏愛家」ではないよ

仲間たちとワイワイ騒ぐのも大好きだし
常に友だちや彼女がそばにいた

現に今も「ひとり暮らし」だが
まわりに友も女もいるからな

なので「ひとり」で暮らしているけど
淋しさは感じない




つまり俺は「ひとり」だけれど
本当の意味での「孤独」ではない






この「ひとり」と「孤独」の違いは大きい

誰とも心を通わせる事なく
外的にも内的にも「ひとりぼっち」な状態

繋がりがあっても
インターネット内の「誰とも知れない中の人」だけ

それは真実の繋がりと言えるのだろうか?



 
俺はそれを「繋がり」とは言わず
それは「孤独」だと考える

だが「それでも誰かと繋がっている」事は
最後のセーフティネットだとも考えているのです

様々な要因で現実の社会で生きる場をなくし
インターネットの中でしか
存在出来ない人も多数いるからですね



人は承認されて初めて
「自己の存在」
を確認出来るという考えもあるので
たとえインターネット内の
「誰とも知れない中の人」
であっても自己の存在を認めてくれる人がいて
承認欲求を満たしてくれるのなら
その場所に「自己保存」したいと考えるのは
当然の成り行きだと俺も考える



だからインターネットという
現実世界ではない、仮想世界、仮想空間?
(何と訳せばいいのか俺にはよく分からない)
そのものの存在意義は認めているし
有意義で大切なものと考えているのです





孤独、孤立、ひとりぼっち

それはヒトという社会性のある動物にとって
「自己の存在が曖昧」
になってしまう悲しく、そして危険な状態だと
「お一人様」が怖くない俺は思うのです







だから上記本文中にある
「ひとりぼっち」は現在の俺には当てはまらない
創作意図に合わせているだけですよ

俺もかつては一時
孤独な時期もありましたけどね



なので現在の俺は
「ひとりぼっち」の気持ちは理解できるけど
今は現実社会でも
「ひとりぼっち」の状態ではないのです

だから「この内容のブログ」を
書いてみました




このブログが少しでも
「誰かの何かの足し」
になれば幸いです








おやすみなさい

良い夢を






注)

「淫靡で卑猥な薔薇」シリーズは
隔日で最終ブログに掲載します

ご理解の程、何卒宜しくお願い致します