東京大空襲、あの夜と朝 を語る、 | 美術家 村岡信明 

美術家 村岡信明 

漂漂として 漠として  遠い異国で過ごす 孤独な時の流れ
これを 私は旅漂と呼んでいる

東京大襲を語りつぐ、15、犠牲者 追悼碑の前で、1

あの

~~~~ 1945310日、東京大空襲に生残った人間の証言 ~~~~

 

私は、東京大空襲の夜、炎のなかをかいくぐり、最後に 深川の清澄庭園で生き残った人間です。

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あの夜の大空襲は、アメリカ軍によって綿密に計画されたホロコースト 大量殺りくの戦略爆撃でした。東京を四つに分けて、その周辺からナパーム焼夷弾と黄燐(おうりん)焼夷弾で爆撃は開始されました。                 

空襲が始まると、木と紙で出来ている日本の家屋は、みるみるうちに燃え広がり、空に燃え上がる炎で町も空気も赤く染まっていく中に、清澄庭園の周辺だけが、暗く 黒く残っていました。

当時、空襲のときは “暗い方に逃げろ”と言われていたので、炎に追われた人たちは、暗い方へ、暗い方へ、清澄庭園の方へ集まってきました。

 

清澄庭園の周辺は、持てるだけの荷物を背負って逃げてくる人たち、大八車に家財道具をつんで逃げてくる人達で、ごった返していました。

集まって来た群集に、B29の編隊は焼夷弾を集中的に投下していきました。

周辺は阿鼻叫喚(あびきょうかん)、まさに人間の屠殺場(とさつじょう)でした。

私は、目の前で黄燐焼夷弾の直撃を受けて、狂ったように死んでいく人間を、何人も見ました。

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私たち家族は 清澄庭園の植え込みの中に隠れました。私は植え込みの外から 池の水をかけながら、自分の体にも掛けて家族を見守っていました。

空からは焼夷弾が雨のように落ちてきて、すぐ横にあった大正記念館が燃えだしました。

大正記念館は猛烈な火風に煽られて燃え上がり、燃え下がり、炎は芝生の上を這うように迫ってきて、突然、私は炎に包まれました。

“ずぶ濡れの服を着て、熱い炎に包まれた自分”を まだ覚えています。

風向きが変わって、炎は渦を巻きながら別の方に移って行ったので、私は助かりました。

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夜が明けると、東京の空は、火の粉の混ざった どす黒い煙で覆われていました。黒い煙の中に 真っ赤な太陽が昇ってきた時、母が

「ホラ、太陽も泣いている」

と言った言葉と、あの時の光景は、一生忘れることはありません。

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2018315()、死との記憶、 村 岡 信 明

1945310日、午前0時~2時頃まで、アメリカ軍の空襲で10万人以上が焼き殺された。