1832年~1883年
エドゥアール・マネ(Edouard Manet)
<年表>
1832年 1月23日フランスのパリに生まれる
1848年 16歳の時、画家になりたいと父に申し出たが、一蹴される
1850年 18歳のマネは、再度画家になりたいと父親を説得し、トマ・クチュールに弟子入りする
1861年 サロンに「スペインの歌手」が初入選
1863年 「草上の昼食」が、裸体の女性を描いたことから問題作として物議を呼ぶ
1865年 「オランピア」が、フランスの娼婦を描いたものとして、さらに反感を買う
1860年代 後の印象派となるバティニョール派に先駆者と見なされ、慕われるようになる
1883年、4月30日、51歳にして死去
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1832年1月23日 フランスのパリ生まれ。父親が司法省の高級官僚という裕福な家庭に育った。
厳格な父は、マネにも自分と同じ道に進んでほしいと考えていた。
1848年、16歳の時、画家になりたいと父に申し出たが、一蹴される。その後、船員として働くようになった。
その間も、美術館に通うなどして、絵画技術の習得に励んだ。
1850年、18歳のマネは、再度画家になりたいと父親を説得し、トマ・クチュールに弟子入りする。
しかし、この画塾のアカデミー派の教えを離れ、ルーヴル美術館などが所蔵する古典的絵画に触れ、
それら現代化することを習得。
そこで古典的絵画を尊敬するようになる。
1861年サロンに「スペインの歌手」が初入選。
しかし、1863年のサロンに出品された「草上の昼食」が、正装の男性と裸体の女性を描いたことから問題作として物議を呼んだ。
さらに1865年にサロンに出品した「オランピア」は、フランスの娼婦を描いたもので、さらに反感を買うこととなった。
当時はタブーだった、女神以外の裸婦像を描いたことで、マネの名前は一気に有名になった。
だが、これらの事件によってモネ、ドガ、ルノワール、シスレーなどシャルル・グレールの画塾で学んだ
画家らと、ピサロ、セザンヌ、などアカデミー・シュイスで絵画を学ぶ画家らによって形成される、
後の印象派となるバティニョール派に先駆者と見なされ、慕われるようになる。
しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことから、マネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられる。
彼の絵は、スペインやイタリアの影響を受けているが、明るい色、立体感・遠近感をあまり感じさせない
平面的な絵画を多く残している。
題材としては、現代の生活を描いたものが多い。「印象派」という枠にとらわれることなく、
近代の日常、風俗、静物、歴史、肖像、裸婦、風景など様々な画題を描き、
また当時流行していた日本の浮世絵・版画から太く明確な輪郭線描の影響を受けた。
1883年、4月30日、51歳にして死去。
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<作品一覧>
台の上のしゃくやくの花瓶
ブロンド髪の女性(Blonde Woman with Bare Breasts)
水晶の花瓶に活けたクレマチス(Clematis in a Crystal Vase)
ガラスに活けたライラック(Lilac in a Glass)
花瓶のローズとチューリップ(Rose and Tulips in a Vase)
メロンと桃による静物(Still Life with Melon and Peaches)
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