ダヴィンチ












1452年~1519年
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo Da Vinci)

「‘絵画‘は物言わぬ‘詩‘であり、‘詩‘はめしいの‘絵画‘であって、どちらも自分の能力のなしうる限り自然を模倣してゆく。」


<年表>


1452年 4月15日イタリア、アンキアーノ村で生まれる
1457年 ヴィンチ村に移住
1466年頃 ヴェロッキオ(本業は彫刻家)の工房へ入門
1472年 フィレンツェで画家組合であるサン・ルーカ同心会に登録される
1482年 1499年の間ミラノ公イル・モーロに仕える(~1499年)この頃自分の工房を開く
1499年 イル・モーロ公が、ルイ12世率いるフランス軍が侵攻したことで逃走
1500年 弟子サライ、友人のルカ・パチョーリと共にマントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェへと転々と移住
1502年 教皇軍総指揮官チェーザレのもとで軍事顧問兼技術者として働く(8ヶ月間)
1506年 スイスの傭兵がフランス軍を追い払った後、マクシミリアン・スフォルツァが治めていたミラノに戻る
1515年 フランソワ1世の即位の際、ボローニャで行なわれたフランス王とローマ教皇レオ10世の和平交渉の結決役に任命される
1516年 フランソワ一世の招きによりフランスへと移住
1519年 5月2日死去

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1452年4月15日イタリア、アンキアーノ村生まれ。5歳の時、ヴィンチ村に移住。


彼の名前の「ヴィンチ」とは「ヴィンチ家出身の」という意味である。


イタリアのルネサンス期を代表する天才として知られている。画家のほかに、彫刻家、建築家、科学者としても有名な万能人であったという。


1466年頃ヴェロッキオ(本業は彫刻家)の工房へ入門、そこで頭角をあわらし、以後は活動拠点をフィレンツェ


ミラノを何度か往復させながらローマへ向かう。


この工房では、ボッティチェリ等の芸術家と学びを共にした。


1472年にフィレンツェで画家組合であるサン・ルーカ同心会に登録される


1482年から1499年の間ミラノ公イル・モーロに仕えながら自らの工房を開いた。


1499年、ダヴィンチが仕えていたイル・モーロが、ルイ12世率いるフランス軍が侵攻したことで逃走し、ミラノは陥落する。


ダヴィンチ はミラノに残るものの、作品制作に支障が出ることから、のちにミラノを離れる。


1500年、ダヴィンチはこの年、弟子のサライと、友人のルカ・パチョーリとともにマントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェへと転々と移住した。


1502年からは教皇軍総指揮官チェーザレのもとで軍事顧問兼技術者として働く。(8ヶ月間)


1506年、スイスの傭兵がフランス軍を追い払った後、マクシミリアン・スフォルツァが治めていたミラノに戻る。


卓越した遠近法の技術はもちろんのこと、完璧主義者であった彼自身が考案した技法の


「スフマート」といわれるぼかし技法を用いた作品は、以降の画家に多大な影響を与えた。


そして、彼は作品の構想を練るのに多くの時間を費やし、下書きのスケッチを何枚も描き、


実際の絵画制作にも数年間の時間をかけたといわれている。


1515年、フランソワ1世の即位の際、ボローニャで行なわれたフランス王とローマ教皇レオ10世の和平交渉の結決役に任命される。


晩年の1516年からは、フランソワ一世の招きによりフランスへと移住。

1519年5月2日死去。



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<作品一覧>

白貂を抱く貴婦人
モナリザ

最後の晩餐

Madonna Litta

Madonna with the Carnation(カーネーションを持つ聖母)

Portrait of Ginevra de'Benci(ジネヴェラ=ベンチの肖像)

St. John the Baptist(洗礼者聖ヨハネ)

The Leda and the Swan(レダと白鳥)

Virgin and Child(聖アンナと聖母子



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