ロートレック














1864年-1901年 後期印象派
アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)


<年表>


1864年 南フランスのアルビで伯爵家の長男として誕生(幼少期ロートレックは転んで足の骨を骨折し、成長が止まってしまったため、父親からは馬にも乗ることもできない世継ぎとして失望される。)
1882年 パリにて、当初はレオン・ボナの画塾で学ぶ
1883年 レオン・ボナの画塾がまもなくして閉鎖。モンマルトルにあるフェルナン・コルモンの画塾に移る
1887年 ムーラン・ルージュというダンスホールがパリで人気を博し始め、ダンスホールや酒場を渡り歩いて酒を飲み、踊り子や客を観察し、異色の人物画を描くようになる。
1901年 37歳酒などの不摂生のため死去




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通称「小さな怪物さん」と呼ばれるロートレック。


1864年、南フランスのアルビの北の郊外、ルボスク城の城主、トゥールーズ=ロートレック伯爵家の長男として生まれる。


この伯爵家は、代々の当主が画家顔負けの絵を描くことで知られ、ロートレックもまた幼い頃から馬や人物のスケッチに才能を発揮していた。


幼少期可愛がられていたロートレックだが、父のアルフォンス伯爵は息子に貴族になることを期待して


いたものの、ロートレックは転んで足の骨を骨折し、その後、成長が止まってしまった。


こうなると父親は馬に乗ることもできない世継ぎに落胆し、失望する。


この件で不幸のどん底に落とされたロートレックは、やがて画家の道へ進むことを決心する。


1882年にパリに出て、当初はレオン・ボナの画塾で学んだが、まもなくして画塾が閉鎖されたため、


モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移り、以後は晩年まで同地で活動するようになった。


それまでの西洋絵画になかった型破りで大胆な構図と鮮やかな色彩、ユーモラスで生き生きとした人物画、


アカデミックな伝統を破壊する作品を描いた。


日本文化を取り入れた作品や、浮世絵でよく見る手法も用いた。


1887年、この頃、ムーラン・ルージュというダンスホールがパリで人気を博し始め、


ロートレックもダンスホールや酒場を渡り歩いて酒を飲み、踊り子や客を観察し、異色の人物画を描くようになる。


女性を描き始めるうちに、もっと派手で目立つ女性に目を向けていくようになった。


そして娼婦を描くために娼家での4年間に50点以上の油絵と、数百枚のデッサンを残している。


ロートレックはポスターの名作も描き上げ、ポスターを芸術の域にまで高めたことも有名。


時には娼婦同士のケンカの仲裁に入ったり、時にはラブレターの代筆をすることもあった。


1901年、37歳酒などの不摂生のため死去。



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<作品一覧>

ムーラン・ルージュにて 洗濯女

赤毛の女(化粧)

ジュスティーヌ・ディール嬢

・ムーラン・ド・ラ・ギャレットにて

ムーラン・ルージュの踊り

ムーラン・ド・ラ・ギャレットにて

ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ

踊るジャンヌ・アヴリル

ムーラン・ルージュにて、カドリール踊り

黒いボアの女

ベッド

女道化師シャ・ユ・カオ

朝食をとるロートレックの母

エミール・ベルナールの肖像

新聞を読むデジレ・ディオー

・ルイ・パスカル



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