カンディンスキー











1866年~1944年
ワリシー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)



<年表>

1866年 12月4日モスクワに生まれる
1886年 モスクワ大学に入学(法律、経済を学ぶ)
1892年 法学試験に合格
1893年 モスクワ大学法学部の助手となる
1896年 モスクワで開催されたフランス美術展にて、モネの「積みわら」を見て画家の道に進むことを決意
1900年 ミュンヘンアカデミーに入学し、本格的に芸術を学ぶ
1910年 最初の抽象画作品を制作
1912年 友人らと共に、絵画、楽譜、版画など様々な芸術を載せた総合的な芸術年鑑である「青騎士」年鑑を発刊
1916年 アンドレエフスキーと結婚
1917年 造形芸術局の演劇、映画部長と造形芸術誌の編集長を兼任
1920年 モスクワ大学芸術学教授に就任
1922年 バウハウスに赴任。その後デッサウ市への移住。
1933年  ナチスが勢力を伸ばしてきた為、スイスを経由してパリへと逃れる
ナチス・ドイツによってバウハウスが閉鎖される。この頃までドイツの芸術の発展に尽くした。
1935年  連作「連続 Succession」を発表
1939年 フランス国籍取得
1944年 12月13日死去

----------------------------------------------------------------------------

1866年12月4日モスクワ生まれのロシア人。抽象画の先駆者とされる人物だが、その他にも舞台芸術家、評論家、としても活躍した。実家はお茶などを扱う商売人家庭で裕福な暮らしをしていたが、1871年両親が離婚。
1886年カンディンスキーはモスクワ大学へ入学。法律、経済を学ぶ傍ら、自然科学、人類学、民族誌の調査隊メンバーとして、ロシア北部ヴォログダ地方を訪れる。
1892年に法学試験に合格。1893年にはモスクワ大学法学部の助手となる。
その後モスクワ市内の印刷工場で美術主任となる。
1896年にカンディンスキーにとって大きな転機が訪れる。
モスクワで開催されたフランス美術展でモネの「積みわら」を見たとき、ここに抽象画の原点を発見し、画家の道を歩むことに決め、ミュンヘンに移住。ここでアントン・アズベの画塾に入り、本格的に絵画について学び始める。
1900年ミュンヘンアカデミーに入学。そこで「ファーランクス」という展覧会を自主的に開催するための集まりを結成。
1916年ニーナ・アンドレイフスカヤという女性と結婚し、モスクワに戻る。
1917年以降、造形芸術局の演劇、映画部長と造形芸術誌の編集長を兼任するようになり、様々な方面で活躍。
1922年共産党の縛りが強くなるモスクワを去り、ドイツに戻りバウハウスの校長を務める。しかし、その頃ドイツ国内ではナチスが勢力を拡大してきた為、スイスを経由してパリへと逃れた。
1939年にはフランス国籍を取得するものの、翌年にはドイツがフランス領内に侵攻してきた。カンディンスキーはこのドイツの占領下で個展を開催するなどして、ドイツの占領体制に抵抗し続けた。この頃にはドイツ国内でカンディンスキーの作品は完全に批判の対象となっており、1937年ミュンヘンで行われた「退廃美術展」に出品された彼の作品は批判の対象になった。
フランスで1944年12月13日死去。

----------------------------------------------------------------------------

<作品一覧>

Colorful Life


Composition VI


Composition VII


Composition VIII


Flood Improvisation


Improvisation 31


Improvisation 35


In Gray


Moscow I


Munich Shwabing


Riding Couple


Riegsee the Village Church


Squares with Concentric Circles


Yellow-Red-Blue



カンディンスキーの肉筆複製画を販売中!
カンディンスキーの作品を多数取り扱っています。
あなたのお部屋にも名画を飾りませんか?

絵画、名画、複製画なら「アート名画館」へ!