盛岡いーはとーぶアベニューを後にして向かった先は、

石川啄木が新婚時代に9か月間住んでいた家でした。

 

小石川で啄木終焉の地を見たことがあります。

生活苦にあえいだ様子が生々しく記された手紙なども展示されていました。

それだけに、新婚当時、武家屋敷で暮らしていたとはなんとも意外。

行ってみると、確かに立派、、、ですが中の説明を読んで納得。

このうち3間(8畳、4畳半、2畳)を借り受けていたとのこと。

そこに啄木夫妻、両親、妹・光子の5人が暮らしていました。

 

 

 

啄木一家に割り当てられたのは下のオレンジ部分。

家の裏側に当たります。

黄色とオレンジ部分が公開エリア。

 

 

こちらが裏側。↓

三角のひさしがついた裏玄関を、啄木たちは使用。

その右隣りの部屋と、一番右の縁側のある部屋が一家の居住スペースです。

 


 

 

まず、家の奥にある8畳間を見学。

 

 

縁側の分、広々と感じます。

 

 

ガラスケースの中には妻・節子愛用のお琴。

 

 

次に4畳半。

 

 

 

囲炉裏がある部屋です。

「我が4畳半」の作品のソースになった部屋。

 

 

そして玄関前の2畳の部屋。

上の4畳半とこの部屋にはちょっとした秘密があります。

 

 

 

この火鉢のある2畳間の右手は障子扉になっていて、上の図面からわかるとおり

その先はグレー、つまり非公開エリア。

でも、特別に、受付の方が開けてくださいました。事の次第は:

 

 

 

下の写真、向かって左側にご注目。

啄木らが居住した囲炉裏のある4畳半と、火鉢のある2畳の部屋は何か違う・・・

そう、その2部屋だけは天井が低いのです。

その理由の一つは、玄関から入った敵が刀を振り回しにくいように、という意図から。

 

もう一つの理由は、天井裏に隠し部屋が仕込まれているから。
敵が侵入してきた時に逃げられるよう、脱出口につながっているそう。

どこに天井裏につながる入り口があるのだろう、とじろじろ見ていたけれどわからず降参。

受付の方に質問したのです。

 

 

 

すると、2畳の部屋の先の障子扉を特別に開けて見せてくださいました。

物置に使用されているようなのですが、、、

 


 

確かに、この部屋の上部にスペースがあります。

右側の土塀のところに当時は梯子がかかっていて、

そこからよじ登ったそうです。

 

 

花嫁抜きで結婚式を挙げたという啄木。

新妻と合流したのは、挙式の4日後のことでした。

 

 

その他公開エリア。

 

 

釘かくし。

 

 

 

黄色がこの住まい。その後、付近を転々としたようです。

 

 

 

現在武家屋敷は盛岡市内には、ここ1軒のみ。

盛岡市の文化財になっていました。