◆ 関東大震災の時も、永井荷風はやっぱり永井荷風だった話 

 

「関東大震災百年 文豪たちの九月一日」という本を手に取りました。

 

 

様々な文豪たちが見て、感じて、書いた関東大震災に関する煌めく文章を集めた

アンソロジー。

 

竹久夢二が震災直後の東京を取材し、都新聞に書いた記事もほんの一部収録されています。

(10/11のブログに書いたあれ↓)

 

 

 

室生犀星の文章の中にはこんな一行:「銃声と警鐘絶え間なし」。

 

当日京都にいた志賀直哉は、以下のように書いています:

9月1日、午後、電柱に貼られた号外で関東地方の震害を知る。東海道汽船不通とあるに、その朝特急で帰京の途に就いた父の上が気にかかる。

 

そして、汽車を乗り継いで、東京を目指します。

あいにく震災翌日は日曜日。銀行でお金を引き出せず、友人に借金をして。

父のことが気がかりであり、麻布にある邸宅が心配だったから。

途上、家族を案じて東京を目指す青年に出会います:

 

妻と子供2人を残してきたという若い人が、家は深川の海に近く、地震、火事、津波、こう重なっては希望の持ちようがないと、眼を潤ませ、青い顔をしていた。直ぐ遠く立ち退いてくれればいいが、あの辺をうろうろしてたんじゃあとても助かりっこありません、と言っていた。この人の不安から押しつぶされていく気持ちが変に立体的に自分の胸に来た。

 

 

小山内薫は知人たちの様子を描きます。

例えば、「黙阿弥家の愛児流失」の話など。

 

さらに小山内は永井荷風の様子についても記しており、

ちょうど3日前にブログに書いた「偏奇館」

(永井荷風の旧居。現在六本木一丁目にあり、看板でしのぶことができる)にも触れています。

嗚呼、やっぱり永井荷風は永井荷風だなぁ。

ひとりだけ、挙動に切迫感がなく、妙に浮いています:

荷風君は独棲の人である。

家は焼けもせず、潰れもしなかったが、震災後は何処へ遊びに行くところもなく、話をする相手もなかった。

そこで楽しんで夜警に出た。夜警に出て、誰彼となく話した。

そのうちに、中洲を焼け出されて、吉村せい子女史とその門下の令嬢たちが逃げてきた。

偏奇館は俄かに俄かに美しくなってきた。

 

 

 

本書、実はまだ読んでいる途中。

初めから順を追って読もうと思ったけど、二段組・540ページの「極楽征夷大将軍」を

やっと読み終えたばかり。

少々一息つきたいので、まずは気を引いた箇所からあっとランダムに読んでいる。

落ち着いたら、冒頭からちゃんと読もう。

 

 

↓写真は、共立女子大のすぐそばにある雉橋。

前にもこの写真出した記憶があるけど、関東大震災100年ということで改めて。

雉子橋由来(看板から):
家康が挑戦からの施設をもてなすための雉をこの付近の鳥小屋で飼育したことから、

この名がついた。
1629年に江戸城外郭門のひとつである雉橋門が築造され、橋が架けられた。

橋は1903年に鉄橋に改架された。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災したため、1926年(大正15年)に

新たに架けられたのが現在の橋。

 

ただし、橋に刻まれた年号は大正15年ではなく大正14年10月になっています。

竣工と開通の時間差かな?