2013年、ブリヂストン美術館で開かれたカイユボット展では、

画家が描いたパリの都市生活・風景を数多く目にしました。

なるほど、展覧会の正式タイトルを「カイユボット展 都市の印象派 日本初の回顧展」

とした理由もうなずけます。

 

アパルトマンの窓から眺めた街路樹、今クレディリヨネ銀行があるあたりの四辻、

家の壁を塗るペンキ職人、サンラザール駅を見下ろす橋に佇む人たち

など、さりげない日常生活の数々が、いかにも都会的な洗練された筆致で

描かれていました。

 

それらの中には印象派展に出展された作品もあります。

ふと考えると、第1回印象派展の開催は1874年。

ナポレオン3世の命でセーヌ県知事オスマンがパリ大改造に着手したのが1850年代。

印象派展が開催される前の1870年頃にはパリの街並みはほぼ整備されていました。

だからこそ、こうしたパリの市民生活が”絵になった”と考えられます。

 

1850年初頭以前のパリはといえば、狭い路地だらけの道には汚物のにおいが立ち込め、

煤けた状態。

アーティスティックな被写体とはなりえないありさまだったから、

実際、改造前のパリを描いた”芸術的絵画”はほとんどありません。

 

それを改めて実感したのは、2017年の練馬区独立70周年記念展 

「19世紀パリ時間旅行―失われた街を求めて」でのこと。

フランス文学者の鹿島茂先生が精力を傾けてパリの街で集めに集めた

オスマン改造前の風景作品は、エッチングやダゲレオタイプなどの写真技術を用いた”記録的”な作品がほとんどで、鑑賞用と考えられる芸術的位置づけのものはほとんどありませんでした。

 

1870年頃までにはとりあえずシャンゼリゼ大通りなど今の景観ができあがりパリの街は大変身。

かくして画家たちも活気に満ちた都市の様子を描き始めます。

 

1850-70年代に行われたこうした大変革は、絵画作品のみならず、文学作品でも認識できます。

バルザックの「La Comédie humaine(人間喜劇)」のパリの描写には、

Boue(泥)という言葉が頻出するのです。

泥でぬかるんだ陽の当たらない、すえた臭いの裏路地の数々・・・

1850年没のバルザックが体感したパリの街です。

 

ところが主に1900年初頭に作家活動を展開したプルーストの作品になると、

パリの描写が一転。

主人公とジルベルトが遊ぶシーンなどをはじめとして、

馬車のカツカツカツ、、という音が響き渡り、馬車が行きかいます。

こうした描写から、道路が舗装され、2台がすれ違うだけの広い道路として整備されたことが浮かび上がります。

音の描写からも、パリ大改造が実感できるのです。

 

***

 

以下写真はアーティゾン美術館。

例のピアノのコンサートを聞いた際のもの。

閉館後のナイトミュージアムのイベントだったので、時間的には短いながらも人のいない静かな環境下での鑑賞でした。

 


 

2013年のカイユボット展の際は、ブリヂストン美術館所蔵ではなかった「イエールの平原」↓。

その後縁があったのでしょう、ブリヂストン美術館、現アーティゾン美術館が手に入れました。

イエールはカイユボット一家の別荘があった場所で、たしかボートを漕ぐ絵などは、この別荘周年で描かれたのではなかったかと思います。

ゴーガンのいじめにあい、画壇という狭い世界が嫌になり、距離を置いたカイユボット。

絵の主題も、パリの風物からやがて身近な家族が中心になり、

イエールで休暇を過ごす家族の姿をよく描いていました。

 

 

 

オスマン大改造の後に生まれたユトリロのパリの風景。

とはいえ彼の場合は絵葉書から絵をおこしているので、活気には欠け、

いわゆるStaticな仕上がりです。

 

 

 

今回、初の試みだと思いますが、小出楢重のアトリエ再現もありました。

もともとアトリエがあったのは兵庫県芦屋市。設計は笹川慎一。
老朽化で1987年取り壊されたものの、1990年に実測図面をもとに芦屋市立美術博物館の前庭に復元されたとのこと。

かつてブリヂストン美術館には結構入り浸ったので、小出楢重の絵はよく目にしました。

その際、一つ気づいたのは、彼のサインがフランス語のスペリングだったこと。


「帽子をかぶった自画像」ではKoidéとなっていて、「Koide」の最後の「で」にアクセント、いわゆるアクサンテギュー「é」をつけています。

「Koide」だとフランス語では「コイド」と読まれてしまうので。


「横たわる裸身」に至ってはさらにフランス語に忠実になり、Koidéの「い」にトレマをつけて「ï」にして、Koïdé と綴っていました。

二重母音「oi」の場合、2番目の母音をトレマにするのがフランス語の習わしなので。

 

 

 

 

「帽子をかぶった自画像」