きっかけが何だったかは失念したけれど、2017年、私の中で渋沢栄一ブームが巻き起こり、その年だけで5回ほど飛鳥山の渋沢史料館に足を運びました。

 

氏が新札の「顔」になると発表があったのはその2年ぐらい後なので、当時は人もまばらなものでした。

 

その際、資料館の対面にある青淵文庫にもついでに立ち寄るのですが、「文庫」と名がつきながら書が一切ないので、初めは狐につままれたような気分になったものです。

岩崎家の書の宝庫・東洋文庫とは大違い。

 

”書のない文庫”の謎が解けたのはつい先日のこと。

日経新聞夕刊の連載「プロムナード」で作家・米澤穂信さんが「青淵文庫」と題してエッセーを書いていたのです。

 

 

 

それによると、青淵文庫が完成する前に関東大震災の火災に遭い、論語をはじめとする蔵書がすべて灰と化してしまったそう。

つまり文庫、と名付けられた建物は、完成前に書たる主を失ってしまったのです。

震災を挟んで完成にこぎつけたものの、機能は失われ名が残るのみになりました。

 

米澤さんは作家ということもありなおのこと、かけがえのない書物が無に帰することの無念さを痛切に感じ、哀愁漂う文章にしたためています。
 

 

 

彼がこの建物にわびしさを感じる瞬間というのが独特で、空っぽの室内そのものを見る時というよりも、電熱ヒーターが設置された暖炉の存在なのだそう。

 

つまり、それがこの建物が書庫を目指していた何よりの証拠だから。

書庫だからこそ火気厳禁で火を使わない設計が当初からされていた、でも、そんな配慮など木っ端みじんにするかのように、書は結局消えてしまったわけです。

 

震災後は、設計変更も行われレンガ造りからコンクリート造りに変更になったことも書かれています。

おかげで第二次世界大戦を生き延びたけれど、建物だけ残って書物は相変わらず不帰、と再び嘆いています。

 

 

 

(下はコンサートの日の室内)

 

 

米澤さんは、しめくくりとして書物の焼失を、”望まざる忘却”に例えていました。

 

 

 

それから、2万冊もの書を失ったもうひとりの悲劇にも触れていますがその話はまた別途。

 

 

ちなみに私はこの話を聞いたとき、もうひとつの喪失=もうひとりの悲劇を思い出しました。

画家・柳敬助です。

彼が亡くなって2年後に、追悼展が開催される予定で、主な作品をまとめて都心に運び込んでいたその矢先、関東大震災が勃発。

すべて灰に帰したとのこと。

 

以前碌山美術館ツアーのときにその柳氏の子孫の方が参加されていて、そんな話を聞きました。

遺品が数少なくなってしまった今、祖父の生きた証を、同じ中村屋サロンで活動していた碌山の記念館で追い求めようとされたのかな、などと思ったものです。

 

ただ、柳氏の場合、存命中に悲劇を味わったわけでないのが、米澤さんが触れた2人のケースとは違う点ではありますが。

 

 

柳氏の作品は東京国立近代美術館常設展にたまに出品されます。

私が初めて見たのはしかし、近美ではなく都美術館の方でした。

 

2015年に開催された「伝説の洋画家たち 二科100年展」に貸し出しされていて、

近美で見たのはそのあとのこと。

 

この作品は当時個人の所有物だったのかわかりませんが、追悼展に出展されず難を逃れたようです。

 

セザンヌの影響なのか筆致の方向性に専心した背景は緑に塗りこめられ、

青葉が香ってくるような清涼感ある1枚です。

 

《白シャツの男》1914年 

 

 

あっ、そうそう、プロムナードで名前をよく見るようになったよしみで(?)米澤さんの作品読んでみました。

ボキャブラリーの貧困さ、つまりボキャ貧(死語?)露呈を覚悟で一言だけ感想を書くと、「おもしろかった!」