このブログでは、
私が個人的に開催しているセミナーの内容を紹介していきますが、
今日も音楽です。

私は、古典をはじめとした人類の歴史を尊重します。また、同時に、ロックのところで強調したように、時代の聴衆との緊張関係における、メディア性(売れること)も重視する立場です


よって、ミーハー的な乗り
は決して否定しませんし、マドンナやレディ・ガガのようなパフォーマンスも含めて、アーティストなのだと思います。「メディアを通じて伝えること」に徹底して、謙虚であろうとすれば、そうした周辺部の活動も必要であり、ときに重要だと考えます。

ある人が、大衆文化
を馬鹿にして言ったセリフとして、「尾崎豊が成功したのはルックスがよかったからだ。同時代の辻仁成が売れなかったのは、イモ兄ちゃんだったからだ」というものがあります。


私はこの指摘は真実です
。ただ、批判としてなんら本質は突いていませんがね尾崎は顔がよかったから、爆発的に売れたのです。だから、どうしたの言うのでしょうか? 売れて何が悪いのでしょうか?

尾崎は、
メディアとしてのロックの時代の、必要条件として「メディア(商品)
」を(必要以上に)満たしていたいうことなのです。ただ、それだけのことです。

また、以前も申しましたが:
 
 ◎:優れた作品は、売れる。
  ×:売れている作品は、優れている。
であって、私は、尾崎は「売れた」から、「優れている」と判断しているわけではありません。

当たり前ですが
、尾崎の評価は、やはり音楽の質でなされるべきです。彼は、そのルックスによって、メディアとしてのロックの「土俵」に立てただけなのです。もし、尾崎が真の音楽的天才<例えば、スティービー・ワンダーや宇多田ヒカル>だったら、ルックスや広告宣伝なんて一切必要なく、「土俵」に立てたことでしょう。

仮に、尾崎豊の顔が悪かったら、どうなっていたでしょうか これは推測するしかないですが、尾崎の音楽はそこそこ優れていたと思うので、そこそこの評価を得ていたでしょう。ただ、あそこまでのカリスマにはなっていたかった気はします。(佐野元春やストリートスライダースやエレファントカシマシなどが成し得た達成には、及ばないですが、良質のロックを生んだということで評価はされるでしょう)

整理すると: 商品として成り立たないと、そもそも「メディアとしてのロック」の「土俵」には立てない。しかし、そこでの勝敗(評価)は、過去も今も未来も、音楽の本質において評価される、というものです。

(ところで、一方、辻の方は、どう考えればいいでしょうか。彼が失敗したのは、音楽的にもイマイチだったうえに、そもそも、「メディア(商品)」としての魅力もなかったから、「土俵」にさえ、立てなかったと言えます。音楽で勝負するほど、才能があったわけでなく、もし才能がなくても、ジャニーズのように、ルックスだけよければ(失礼!)、それで、「土俵」には立てたのです。)

【ここでお伝えしたいこと】
今日は極めて卑近な例え話をいたしましたが、20世紀以降の大衆文化を考える際には、極めて重要な視点です。
「メディア」であることに、謙虚に向き合うことが20世紀の「礼儀(あるいはプロトコル)」なのです。こうした理論的背景を、セミナーではご紹介しています。