あれだめ、これだめ、とかいってたら、息が詰まって仕方がないわ。とかやりつつ。
それがあることで「信頼」というのがあったりもするわけで、意外と大事なんだけど。
昨日の、原作本伊達政宗の一節で、
体は借り物で、心だけは自分の物。っていうのは、色々なものを手に入れようと頑張っても、守ろうとしても最後に本当に自分の物として残るのは自分の心だけ。なんだよね。
体はね、自分の意思と関係なく「時が来たら、命運が尽きれば、返却しないといけない」
やだもう、小十郎かっこいい(台無し)片倉小十郎さんの政宗さんにかたった遺言的言葉なんですが。
戦国時代を駆け抜けてきた人の言葉だからこそ、いつ死んでもおかしくない場所にいたからこそ、出てくる言葉でもあるけど、生きること、命に執着していたら別だけれども、うん、なんかね、それぞれが、それぞれの心だけは自由だよね。と考えると深い感じはありますわん。
嫌なことってのは、一時的なことで、幸せを「受け取ってはいけない」とかならないで「ちゃんと享受」する気なら、ちゃんとそれは越えられる。
だいたいはさ、罰を受けないといけない、受け取ってはいけない、愛されてはいけないとか、そういう意識がエンドレスっていう人が多いわけなんだけど、しいて言えば、人を傷つけたり、迷惑こうむる人がいたりして「片づけないといけない事案」が出ている時は、当たり前だけど大変な目にはあう。
どんなに天才でも頭良くても、それがないと学べない人は多いわけでねー。
浮「思いして初めて気が付く人も多いわけで、浮「思いも苦しい思いもしてこなかったっていう人は、やっぱり、人の心がわからない人になっちゃう場合は多い。だからこそ、つり橋効果的なドキドキに身を投じたりする人も多いんだろうなあ。
痛みが日常で慣れてしまっている人も、またしかり。自分が耐えられるんだから、相手も耐えられると思ってしまう場合もあったりあったり。
本当の自由は、自分は自分、他人は他人、お互いに心は自由なんだ。と思えるようになると、解放される人は多いだろうなあと。自分がこう思うから、相手もこう思うべきとかなってることもあるからねー。
そーいえば、嫌われたくないで「媚びる」ことも多いけど、相手の幸せのために自分不幸にして遠慮するとか、いらんよね。相手も、自分も対等に幸せになるってこと。相手を不幸にして自分が幸せになるなんて。とかいうのもなし。道が別になったとしても、お互いに幸せになりたい思うなら、別な道で幸せになろうとすればいい。片方が、不幸になりたいっておもうなら、不幸になればいい。
心は自由ってのは、そういうこと。自分が「味わいたい」と思うことをするってことなんだよね。
自分自身の心が「満足して、やり切った」が大事なんだと思う。
それがないと、引き上げようと手を差し伸べても、手を払われたりするし、その状態を自分で、もういやだ、にならないと、浮上してこないしねー。
だいたい、頑張っていろいろやってる人は≪モー嫌だー、すごい嫌だー≫で、変わりたいっていう人多数なのよね。変わりたくない時は今の状態でやりたいことがあるってことも多いわけで。
起こった物事に対する後始末は当たり前にあるし、大変なこともあるけど、不幸にならないといけない責任もなければ、幸せにならないといけない責任もない。後始末を自分でするか、誰かに変わってしてもらうかでも、変わるわけでね。
同じ物事でも見方ひとつで楽しむ人もいれば、楽しくない人もいるわけで、
たとえばの話、みんながわいわい楽しんでるのに、自分が傷ついてるなんてあれだわ、我慢しないとねーもおかしな話なのよね。
大事に思えば思うほど、怒りも大きくなるし、傷も深くなるは、同じ相手でも、人それぞれの大事基準が違うわけで、その人と、あの人の問題であって、自分の問題ではないかもしれない。
自分が大切にしている体験を、どこかの誰かが面白おかしくいじって捻じ曲げていたら、それは怒るだろうしね。そういうことなんだと思う。
自分の中の引っ鰍ゥりもあるわけだしね。
あの人はあんなチャンスもらえてるのに、私はーとかいう場合もあるけど、チャンスをもらいに行ってるかい?受け取ろうとしてるかい?は、スピリチュアル的にも重要かもしれないわー。
例えば、同じ出典で、自分で考えた答えと、山岡荘八さん著の伊達政宗からヒントもらった。というのと、まるまる自分で考えて体験して答えだしたのと、違うからねー。そこに、山岡荘八さんが書いてくれた言葉があって、山岡荘八さんという人が存在しているのか、いなかったことにされるのかでも、だいぶ違う。
名前がある人ない人、著名有名無名関わらず、いなかったことにされれば、人間って怒るものでもあるよね。〇〇さんの言葉があったから、今、そういう気付きを得ています。というのと、その人の人生や思いに〇〇さんという人がいるのと、いないのとを、しっかりと出すか出さないかなんだと思う。
あなたの心はあなただけの物っていうのは「あなたである」ということ。有名無名って書いたけれど「名前がない人はいない」んだよね。そして「魂がない人もいない」
あなたという魂に関わってくれている魂に感謝するか、なかったことにするかも、自由なんだけど、それは、あなたという魂が、相手になかったことにされる覚悟も必要。
なかなか自由になれないのは、自分がしたことは、ちゃんと自分に帰ってくるのもあるんだけれど、相手を傷つけて、感謝感激雨あられになるか。というと、普通はそうならないわけでねー。
傷をつける、傷をつけられるは仕方ないうえで、「相手も自分も幸せになる」という「目標」がちゃんとあれば、傷つけあう状況は一時的になる。
どっちも幸せになれる。大丈夫っていう時って、ちゃんと「どっちも幸せになってほしい」という意思があるから、ちゃんとどっちも幸せになれる。時間差はあってもね。
不幸になりがちな人は、だいたいは「どっちかを陥れている」ってことは多いのかも。
少なくとも「自分だけで応えだしてるわけじゃない」んだろうねー
それがあることで「信頼」というのがあったりもするわけで、意外と大事なんだけど。
昨日の、原作本伊達政宗の一節で、
体は借り物で、心だけは自分の物。っていうのは、色々なものを手に入れようと頑張っても、守ろうとしても最後に本当に自分の物として残るのは自分の心だけ。なんだよね。
体はね、自分の意思と関係なく「時が来たら、命運が尽きれば、返却しないといけない」
やだもう、小十郎かっこいい(台無し)片倉小十郎さんの政宗さんにかたった遺言的言葉なんですが。
戦国時代を駆け抜けてきた人の言葉だからこそ、いつ死んでもおかしくない場所にいたからこそ、出てくる言葉でもあるけど、生きること、命に執着していたら別だけれども、うん、なんかね、それぞれが、それぞれの心だけは自由だよね。と考えると深い感じはありますわん。
嫌なことってのは、一時的なことで、幸せを「受け取ってはいけない」とかならないで「ちゃんと享受」する気なら、ちゃんとそれは越えられる。
だいたいはさ、罰を受けないといけない、受け取ってはいけない、愛されてはいけないとか、そういう意識がエンドレスっていう人が多いわけなんだけど、しいて言えば、人を傷つけたり、迷惑こうむる人がいたりして「片づけないといけない事案」が出ている時は、当たり前だけど大変な目にはあう。
どんなに天才でも頭良くても、それがないと学べない人は多いわけでねー。
浮「思いして初めて気が付く人も多いわけで、浮「思いも苦しい思いもしてこなかったっていう人は、やっぱり、人の心がわからない人になっちゃう場合は多い。だからこそ、つり橋効果的なドキドキに身を投じたりする人も多いんだろうなあ。
痛みが日常で慣れてしまっている人も、またしかり。自分が耐えられるんだから、相手も耐えられると思ってしまう場合もあったりあったり。
本当の自由は、自分は自分、他人は他人、お互いに心は自由なんだ。と思えるようになると、解放される人は多いだろうなあと。自分がこう思うから、相手もこう思うべきとかなってることもあるからねー。
そーいえば、嫌われたくないで「媚びる」ことも多いけど、相手の幸せのために自分不幸にして遠慮するとか、いらんよね。相手も、自分も対等に幸せになるってこと。相手を不幸にして自分が幸せになるなんて。とかいうのもなし。道が別になったとしても、お互いに幸せになりたい思うなら、別な道で幸せになろうとすればいい。片方が、不幸になりたいっておもうなら、不幸になればいい。
心は自由ってのは、そういうこと。自分が「味わいたい」と思うことをするってことなんだよね。
自分自身の心が「満足して、やり切った」が大事なんだと思う。
それがないと、引き上げようと手を差し伸べても、手を払われたりするし、その状態を自分で、もういやだ、にならないと、浮上してこないしねー。
だいたい、頑張っていろいろやってる人は≪モー嫌だー、すごい嫌だー≫で、変わりたいっていう人多数なのよね。変わりたくない時は今の状態でやりたいことがあるってことも多いわけで。
起こった物事に対する後始末は当たり前にあるし、大変なこともあるけど、不幸にならないといけない責任もなければ、幸せにならないといけない責任もない。後始末を自分でするか、誰かに変わってしてもらうかでも、変わるわけでね。
同じ物事でも見方ひとつで楽しむ人もいれば、楽しくない人もいるわけで、
たとえばの話、みんながわいわい楽しんでるのに、自分が傷ついてるなんてあれだわ、我慢しないとねーもおかしな話なのよね。
大事に思えば思うほど、怒りも大きくなるし、傷も深くなるは、同じ相手でも、人それぞれの大事基準が違うわけで、その人と、あの人の問題であって、自分の問題ではないかもしれない。
自分が大切にしている体験を、どこかの誰かが面白おかしくいじって捻じ曲げていたら、それは怒るだろうしね。そういうことなんだと思う。
自分の中の引っ鰍ゥりもあるわけだしね。
あの人はあんなチャンスもらえてるのに、私はーとかいう場合もあるけど、チャンスをもらいに行ってるかい?受け取ろうとしてるかい?は、スピリチュアル的にも重要かもしれないわー。
例えば、同じ出典で、自分で考えた答えと、山岡荘八さん著の伊達政宗からヒントもらった。というのと、まるまる自分で考えて体験して答えだしたのと、違うからねー。そこに、山岡荘八さんが書いてくれた言葉があって、山岡荘八さんという人が存在しているのか、いなかったことにされるのかでも、だいぶ違う。
名前がある人ない人、著名有名無名関わらず、いなかったことにされれば、人間って怒るものでもあるよね。〇〇さんの言葉があったから、今、そういう気付きを得ています。というのと、その人の人生や思いに〇〇さんという人がいるのと、いないのとを、しっかりと出すか出さないかなんだと思う。
あなたの心はあなただけの物っていうのは「あなたである」ということ。有名無名って書いたけれど「名前がない人はいない」んだよね。そして「魂がない人もいない」
あなたという魂に関わってくれている魂に感謝するか、なかったことにするかも、自由なんだけど、それは、あなたという魂が、相手になかったことにされる覚悟も必要。
なかなか自由になれないのは、自分がしたことは、ちゃんと自分に帰ってくるのもあるんだけれど、相手を傷つけて、感謝感激雨あられになるか。というと、普通はそうならないわけでねー。
傷をつける、傷をつけられるは仕方ないうえで、「相手も自分も幸せになる」という「目標」がちゃんとあれば、傷つけあう状況は一時的になる。
どっちも幸せになれる。大丈夫っていう時って、ちゃんと「どっちも幸せになってほしい」という意思があるから、ちゃんとどっちも幸せになれる。時間差はあってもね。
不幸になりがちな人は、だいたいは「どっちかを陥れている」ってことは多いのかも。
少なくとも「自分だけで応えだしてるわけじゃない」んだろうねー