裁くっていう概念っていうのは、実はなくて、関係ない人が、事情の又聞きとかで勝手に悪い子と思い込んで、勝手に罰だーと、ひどい目にあわせて、話がややこしくなるってことはあるし、誰かが誰かを裁いていいっていうことは、絶対にないっていうか、あるにはありましたわ。

お仕事では近い仕事もあるけれど、反省なしの場合の最終手段ではある。
その理由は、自分のやったことっていうのは、自分のカルマとして、ちゃんと返ってくるから。

カルマとしてかえってくれば、それだけ、当たり前ですが、楽できませんよ、苦労はしますよーっと。そういうカルマが帰ってくるようなことをするのには、理由あるしね。

その理由を解消しない限り、試練は続くよどこまでも。とは思う。

まあ、客観的視点とかで、わかりやすいのは、節分の鬼とか、その人の本当のカルマ量ってでてくるけど、誰かが誰かを裁いて、カルマが減るとかそういうことはないんだよね。

裁いた誰かもカルマを背負い、裁かれた方も、カルマを消化する機会を失うこともある。

要は、物事には、必ず、メリットデメリットあって、それを背負う覚悟が必要ってわけですが、いちいち覚悟してたら、面唐ュさい。というので、清く正しくあろうとか、カルマ増やさないでサクサク消化ーってことなんだろうなあっと。

結局は、裁けば自分が今度は裁かれるだけだし、悪役も含めて、学ぶためにいるんだよね。
そういう役割であり、それが仕事って人もいる。

本当の自分って何かっていうのは、自分の役割は何かってことを思い出すことなんだよね。

問題点とかあれば、大事な人を傷つけたくないからこそ、言わないといけないこともあるしねー。相手のことを大事と思わなかったら、言わないよ。
だって、重大な欠陥があって、そこだけ治せば、やってることは素晴らしいのにーってこと、結構ある。言ってることはすごくいいけど、それをいったりやったら台無しだわーということって、結構ある。

間違いないものはない。ではなく、間違いはあったら、修正して、よりよいものを作っていこうという姿勢だねー。誰かがいいといっていたからいいというものでもなく、誰かが悪いと言っていたから悪いってわけじゃなく、そこに根拠があるのかどうか。

裁かれるのを恐れて居たら、確かに間違いはない。とか、責任逃れはしてしまうかも。むしろ、裁かれるようなこと何やったの?という感じ。いいことしてるんなら、自信をもって、不安を訴える相手に、根拠をもって、きちんと説明すればいいし、説明の仕方一つだと思う。

六法全書に詳しくなる必要はないけど、法律に触れるようなことは気をつけなっていうのも、知らなかったんです、で、済む事態にならないことあるしね。
抜け道を探して、スリリングに生きるって道もあるだろうけど、その人がやりたい道であって、自分もやりたいか。は、考えるといいと思う。

人を傷つければ、自分も必ずどこかで傷つく。やったらやり返すは繰り返せば不毛なだけだから、許すって作業は必要だけど、単に裁くことによるカルマの連鎖をストップしてるだけで、人を傷つけた分は必ず、自分もわかるまで体験させられる。

魂の修行ってそういうことなんだよねー。

見えないことを扱うなら、見えない部分をしっかりと理解する。逆にいえば、その世界の住人に逆のことされたらいやなことはしないとか、やるべきことってのは、人間関係と変わらないわけで。

同じもの見ていても、見え方が違うし、流れを見てるのかというと、違う場合もあるしで、当たり前だけど、人を正しく裁こうと思ったら難しい。天使聖人っていわれた人も間違えるもんだし。間違いながら学びながら、今、なんだよね。

傷つけた分、ちゃんと癒す。同じことはしない。とか、色々とやり方は、あると思うけど、誰にも裁く資格はないし、裁かれる資格もないとは思う。

なんも悪いことしてないってこともあるし、悪いことってわからないでやってる場合もある。善悪判断つかない精神状態ってあるしねー。

色々と考えると難しいけど、やらなきゃって部分も含めて、しゃちほこばってたら、ちょっと肩の荷おろすと楽なるかも