スピリチュアルなり精神世界なり、心理学の世界なり、探求してると、一旦もぐらないと見えない部分ってあるなあ。って、久々に、がっつり落ちてみて思いました。

「いやいやちがうから」って、わかった上での「ハイパー自己否定」を発動させてみて、とことん落としてみて、原因これかーっというのを、意外と見てみぬふりしてたりしてたので、がっつりと見て、ばこーんと外す。

言葉って、特に「言う側の本当の真意」っていうのが、受け取る側に伝わってないってこともよくあるよくある。その時には、色々な都合上いえない真意っていうこともあったり。

それこそ、容姿のことにしたって、美醜じゃないんだよね。人のは、褒めまくるし認められるんだけど、自分のは、どうしてもだめだったんだよねー。鏡見るのは大丈夫だけど、きれいに着飾るとかが、アウトだったみたい。

儀式用はOKという、改めてみてみたら、相当屈折しすぎー。

お洒落はすきなんですよ。うん。絵を描く時でも、基本的なメイク術にそって描くから、メイクすると顔変わるもわかるしねー。多分、一般的に言う「きれいな自分になって自己実現」ではなくて、「本来の自分になりたい」のが、私の希望なのかもしれない。

もちろん「こんなにきれいになる」というやり方もあるし、色々とあるんだけど、本来の自分にぴたりとはまるかどうか。なんだよね。じゃないと、続かない感じがする。

心がほぐすことが大事なのは、そこなんだろうなあ。

誰かを追い落としたり勝ち取るためにするメイクじゃなくて、自分を愛して愛されるためっていうの大事だなあ。と、色々整理して思うの。本来の自分を引き出していくためのメイクをしてくれる人も結構いるしねー。

そのまんまの相手を愛したいし、そのまんまの自分を愛して欲しい。

周りに対してもそうだなあ。そのまんまのあなたを認めて、そのままでいいよーと、楽でいられる感じは作って生きたい。

ほぐされていくっていうのは、そういう事だと思う。どんどんね、繭がほぐれるみたいに、守ってた殻はなくなるけれど、そのまんまの自分を出しても、辛くない環境というか。

頑張る自分も、だめだめさんな自分も、本来の自分なら、それでいいのだー。とおもうのです。

吉原の遊女さんは、あのきらびやかな衣装、あでやかな化粧や鬢、それが彼女達にとっての戦闘服なんだよね。吉原という世界を生きていくために、戦っていくために美しく装う事。
側室さんだったり、おめかけさんだったり色々な立場経験でも、着飾ることは「戦闘服」成ってる人は結構多いと思う。それが、生きることであり、生きていく上での武器だったわけだし。

それが必要な世界なら、やむを得ないけど、今はどうかな?とかおもう。いや、必要な場合も多いんだけど、スキルにしろ、ステータスにしろ、色々とくっつけすぎて、本来の自分がわからなくなったりしてる人も多いかもしれないねー。

夢を売るために、本来の自分でない自分を演出しないといけないこともある。

強いて言えば、「本来の自分の容姿を全力で否定する」のだって、それは自分でないものになろうとしてるんだから、それは、苦しい。本来の自分そのものでいいのかな?と、ようやく思えるようになったかな。

自分でないものになるファンタジーも楽しいけど、セラピーの基本は「自分に戻る」だから(笑)