訴状 平成27年(ワ)第19538号 3 拡散希望!35万円+500万円 | クロノスのブログ

訴状 平成27年(ワ)第19538号 3 拡散希望!35万円+500万円

7 被告国の原告を監視してきた期間とその罪

上記(1)で記したとおり被告国は長年にわたって計画的に組織的に原告を監視しやすい環境を整えてきた。しかし、そもそもの疑問として、いつから被告国は原告を監視したか?という疑問がわくことであろう。そしてその疑問はなぜ原告を監視したか?にも波及する。以下に原告の人生の年表を記しその疑問を解き明かしていく。

0歳  1973年 東京都板橋区成増3-47-2の一戸建ての自宅で生まれる。

10歳  その自宅が建て直される

14歳  中学3年生の夏に初めて神奈川県平塚市城所へ引っ越しを経験する。また原告の兄宮井克明はこの引っ越しの最中また前後に就職活動をしていた。その土地は造成地で新築住宅の一戸建てに暮らしていた。なおこの引っ越しの原因は原告の父宮井松男の転勤ではなく、原告の住むすぐ後ろの駐車場にカラオケパブのような店が出来て騒音がうるさくて住むのに悪環境になったからである。なお、東京都板橋区成増3-47-2をグーグルストリートビューで検索するとその住所の近くが表示されるが、その原告が住んでいた家の前の道はそのサイトで不自然に歩けなくなっており、その道ぞいにあるそのカラオケパブと原告の家が見えない。これは被告アメリカがアメリカにあるグーグル社に指示したと考えられる。

15歳 当時神奈川県で実施されていたア・テストのため受験で不利を受ける。

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なお原告の母の姉妹は神奈川県大磯にずっと暮らしていたため、原告の両親は事前にそのア・テストの情報を知っていたはずである。

16歳 高校2年生の春休みに東京都町田市本町田186-2に引っ越しする。なおその土地も造成地で新築住宅の一戸建てに暮らしていた。原告は高校の友達と離れたくなかったため平塚にある小高い山の上にある高校に通っていた。しかしあまりにも時間がかかること、交通の便が悪いことから東京都杉並区にある高校に2学期から転入する。なおこの年、原告の兄被告孝佳がシャープに入社の内定が決まる。宮井孝佳は入社後、当時の東京支社=東京都市ヶ谷の現防衛省がある隣の支社ビルに働き始める。

19歳 青山学院大学文学部英米文学科に入学する。当時1、2年生時は神奈川県平塚に近い厚木の小高い山の上にある厚木キャンパスに通っていた。

20歳 大学2年時の春休みに東京都練馬区大泉学園駅が最寄りの土地に引っ越しする。なおその土地も造成地で新築住宅の一戸建てに暮らしていた。ただそこはそれまでのひっそりとした土地ではなく密集した住宅地であった。*成増はひっそりした土地ではない。

20歳 大学2年の春に上記土地に引っ越したが、その土地の隣の住人があまりにもヒステリックで原告の両親に絡んできたので、東京都町田市本町田8-14に引っ越しをする。なおその土地も造成地で新築住宅の一戸建てである。現在2015年もその土地に原告は住んでいる。住所で分かるとおり、高校2年の時に引っ越しをした本町田186-2とはすごく近い距離で徒歩5分ほどしか変わらない。つまり、たった4ヶ月ほどで町田に戻ってきた。

22歳 地方公務員になりたかった原告は公務員試験を受け続けたが全部不合格だった。また原告は一般企業も受けたが就職氷河期ということもあり全部面接で落とされた。

23歳 あえて留年して公務員試験を受けたが全部不合格だった。一般企業も受けたが1社しか面接で内定を取れなかった。

24歳 その唯一内定した瀧野川信用金庫に入社し東京都北区田端新町の本店の

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外為係で働く。(原告の本籍は生まれてからずっと同じく北区である。)しかし入社後ほどなくマンツーマンで指導していた先輩の女性があまりにヒステリックになり新入社員の私につらく当たった。その外為係は外国紙幣と日本の円を交換するなどをする窓口受付でお客さんにもその先輩のひどいヒステリーさがまるわかりであった。そのためその女性の先輩は原告の入社3か月目の6月に退職を選んだ。原告もそのあおりを受けてその1か月後に退職した。

25歳 再び公務員試験を受けたが全部不合格だった。しかし防衛庁の外郭団体の防衛庁共済組合の職員試験で合格し内定が決まった。

26歳 防衛庁共済組合の職員として配属された住宅施設班で働くも原告の家での様子が同組合で職員、新人研修の研修先の自衛隊で話されるなど集団的ストーカーやマインドコントロールで悪質でひどい嫌がらせをされる。

27歳 原告は監視の末入院される。原告は一度は監視のことがあるから同組合を辞めて監視を明らかにして弁護士に相談して訴えようと思ったが、入院中に原告の兄宮井孝佳が結婚すると聞いたので会社に復職する。(その結婚式は退院後の3か月後の6月に防衛省共済組合市ヶ谷会館で行われた。その施設は防衛庁とシャープ東京支社の隣で間にある。)

「神奈川県におけるアチーブメントテスト

「ア・テスト」または「アテ」の略称で呼ばれ、中学校2年生の3学期の3月頃に実施される考査であった(ただし1981年は試験的措置として対象学年が2年生3学期の時期ではなく3年生1学期はじめごろに行われた)。表向きは「学習到達度を確認する」名目で神奈川県下で一斉に実施された。ただ、このテストは神奈川県内の公立高等学校の入学判定に反映されることになっており、最大で25%(内申点と合算すると75%)という非常に高い比重が置かれていた。(中略)県外からの転入者に対する救済措置が全くなかった 中学3年など、アチーブメントテスト実施後に県外から転校してきた生徒は、入試判定資料中におけるアチーブメントテストによる点数が実質的にゼロになる。転入者対象の試験などは一切行われないため、転入者はアチーブメントテスト受験者よりも不利な扱いを受けることになった。(ウィキペディアより抜粋)」

これら原告の人生史から被告国の原告を監視してきた期間を鑑みると一つの

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可能性が浮かび上がる。それは原告の学生時代から国は監視してきたのではないか?という可能性である。最初の引っ越しの時、不自然にそれまで建物がなかった駐車場にカラオケパブが出来たのも引っ越し先の新しい住居の付近で監視する諜報員の住宅施設等(監視に必要な機材等の設置も含む)を作るためだと考えられる。東京都よりも神奈川県では土地の価格が安くすむからである。高校、大学が小高い山の上も同じくそれら付近で監視する諜報員の住居等施設を作るためだと考えられる。原告の全部の引っ越しは造成地の分譲住宅であったことからも原告の近くの家に監視員の住宅施設等を作るのに適していたことからも全部の引っ越しが被告国に誘導されたと考えるのが妥当である。別の町田に引っ越して再度その前に住んでいた近くの町田にすぐ引っ越したのも町田の住宅付近で監視する諜報員の住宅等施設が充実していたのに練馬に引っ越されて監視するのに不便な環境だったためだと考えられる。そのために重要な役割を果たしたあまりにもヒステリックな住人も諜報員の差し金だと考えられる。なぜなら原告の最初に勤めた瀧野川信用金庫でも同じようにあまりにもヒステリックな女性上司がいたからである。なお防衛省が根回しして他の会社に勤めさせず、瀧野川信用金庫に一度は勤めさせたのは原告の兄被告克明が信用金庫に勤めていて人事権を掌握できたからであろう。(被告克明は最初の引っ越しのすぐ後に就職が決まったので監視後に就職が決まったと言える。)またそのもう一つの理由は原告を防衛庁共済組合に最初に勤めさせるとすぐ辞めてしまうからであろう。原告は前職瀧野川信用金庫をたった4ヶ月で辞めたから新しい職場であった防衛庁共済組合をなかなか辞められなかった。信用金庫に原告と原告の兄宮井克明を勤めさせたのも地元密着で引っ越しがないことも大いに関係あるだろう。もちろん引っ越しがないことは監視体制をひくのに必要不可欠であるからである。そして原告の兄被告孝佳がシャープに勤めさせたのも防衛省がある市ヶ谷で被告孝佳を監視下におけること、また原告が監視される時に本社のある大阪に転勤させることができるからであろう。

監視の実現可能なことを客観的に考えるに当たって①監視される対象人物の適正、②対象人物を監視するのに適正な家族かどうか、③監視するのに適正な地域かどうかがそれぞれ当てはまっていなければ監視体制はひけないし維持できないであろう。以下に①から③を考察して原告の学生時代から国は監視してきたという可能性の高さを挙げていく。

(1)監視される対象人物の適正

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① 原告の能力の高さ

原告の監視される理由の1つとして既述とおりサッカーを挙げた。しかしそれだけでは大がかりに監視される理由としては根拠が薄い。他にも原告は優れたところがあった。その一つは数式の解く早さである。原告は高校3年の直前まで理系に進もうとしていた。なぜなら数式を解くのが得意だったからである。原告の方程式などの数式の解く速さは中学時代、高校時代を通しても誰よりも早く解いていた。また高校時代にはお昼休みにクラスの皆の前でいろいろな話をして驚かれて一目を置かれていた。その時代のバブル経済とバブル崩壊の話をしたりした。またインターネットとメールについても話をしていた。(メールが普及する前にポケベルが普及したが、その数字が送れるポケベルがメールの普及する前に普及したのもその数字が軍事用、スパイ用に暗号として使えて、その数字を情報収集したい防衛庁の思惑があったと考えられる。なおポケベルについて原告は話をしていなかった。インターネットについては図書館で使える本の検索が図書館の本だけでなく世の中の事柄全てを検索できたら素晴らしいということ等を語っていた。)そして特筆すべきは、思念波が存在しているのではないか?またその思念波があったら国などの機関はその存在を隠しているのではないか?という推測を原告はお昼休みにクラスの皆の前で話していたことである。だからこそ原告は2006年に原告の思念波が盗聴されてきたと気づいてもそれほど動じなかった。その証拠として現在も原告は思念波が盗聴されてきても割と平静に暮らしてきている。なお既述通り、原告は3年間以上に渡り真面目に一生懸命に公務員試験を受けていたがその公務員試験が役に立ったのは防衛庁共済組合の入社の時に受かった一度だけである。原告が受けたその3年間の公務員試験は国家公務員、地方公務員(東京都、神奈川県、町田市、その他の市区)である。では原告が受けた防衛庁共済組合の試験の倍率が低かったかといえばそうではない。むしろ他の公務員試験の倍率より高かった。少なくとも200名以上が受験し受かったのは5名のみである。この不自然な事実からも原告が学生時代から監視されていたということが証明されると言える。なぜならサトラレに登場する「里見健一=臨床医。守秘義務のある臨床医から研究医になるように、サトラレ対策委員会から再三(見えざる)圧力を受けていたが、意志を変えず、臨床医学にこだわり続ける。後にその天才的な技術と思念波による裏表の無さが患者の信頼を集め、名医として成長していく。(ウィキペディアより抜粋)」のように、原告は日本以外の国の諜報機関からも監視されていたため守秘義務からも被告国から各行政機関、企業に圧

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力をかけられ就職を制限されていただろうことは容易に想像できる。なおサトラレに登場する里見も学業に大変優れながらも国の圧力を受けていて試験を受けても不合格続きであった。ではサッカーに夢中になる前、原告を監視してメリットが被告国にあったか?と言えば、原告はゲームに夢中であったことが被告国にメリットがあったと言える。原告は小学4年生時にファミコンが発売されてからゲームに夢中であった。そして90年代中期~後期、原告が社会人になる頃、原告は公務員試験とサッカーに専念していてゲームをあまりしなくなっていた。しかし防衛庁共済組合の職員になり監視されて会社に行かなくなってからは時間が出来てゲームも再びするようになった。2000年に入院すると携帯型ゲームを購入しゲームしていた。しかし復職して会社行くようになるとまたゲームする時間がそんなに無くなった。再び2001年監視されて入院すると携帯型ゲームをするようになった。そして原告は入院中の暇な時に携帯型ゲームをしていた。その携帯型ゲームに夢中になっていた期間は、2009年に世間でも監視される中の入院前の最後の入院時、2005年11月まで続いた。2002年定義温泉の拷問後原告はゲームセンターで「World Champion Club Football」というゲームを翌年の2003年まで夢中になっていた。原告は2006年からはパソコンでフットボールマネージャー、Wiiで家庭用ゲーム機をプレイしていた。2007年末から裁判をしていたのでゲームをする時間があまり無くなっていた。これらの原告のゲームに夢中になっていた時期、離れていた時期の推移とゲーム業界の栄枯盛衰の推移は奇妙なほど一致する。よって原告が監視中にゲームしている時のゲームに対するアイディア、またそれを監視している監視員のゲームのアイディアがその時々のゲーム産業に多大な影響を与えていただろう。その証明が「ルーマニア#203」、「ニュールーマニア ポロリ青春」、「トモダチコレクション」、「トモダチコレクション 新生活」である。それぞれの作品はゲームプレイヤーが部屋を監視して介入するゲームである。また原告は幼いころから今に至るまでマンガ、アニメを愛読・視聴している。世間にも監視がされた後、原告は好きな漫画として「ファンタジスタ」、「修羅の門」、「MASTERキートン」を話していた。「ファンタジスタ」は「1999年から2004年まで全222話が連載された。単行本は全25巻、文庫版は全13巻。2014年6月より単行本の復刻版が発売。番外編として、『週刊ヤングサンデー』2006年20号に読切『カンピオーニ』が掲載された。『週刊少年サンデー』2012年45号より、サッカー日本代表の本田圭佑を原案として迎え、前作から8年ぶりとなる続編、『ファンタジスタ ステラ』を連載開始した(ウィキペディアより抜粋」」であり、カンピオーニでは原告が好きなアーセナルに主人公が在籍している。「修

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羅の門」は「『月刊少年マガジン』(講談社)において1987年5月号から1996年12月号まで連載の後に長期休載。2010年11月号より『修羅の門 第弐門』として連載を再開し、2015年7月号を以て完結した。(ウィキペディアより抜粋)」である。「MASTERキートン」は「1988年から1994年にかけて小学館『ビッグコミックオリジナル』に連載された。続編として『MASTERキートン Reマスター』が『ビッグコミックオリジナル』に2012年から2014年まで不定期掲載された。(ウィキペディアより抜粋)」である。いずれも長い期間を経て連載再開され、その連載再開も世間に原告の監視が明らかになった後である。アニメでは「ふしぎの海のナディア」を好きなアニメとして挙げていた。同作品は「日本放送協会(NHK)で1990年4月13日から1991年4月12日にかけて、金曜日19:30-20:00(JST)に放送されたテレビアニメ。2012年4月7日よりNHKEテレで、デジタルリマスター版として再放送された(ウィキペディアより抜粋)」である。これらから原告がサッカーに多大な影響を与えたようにゲーム、アニメ、マンガにも影響を与えてきたと言え、被告国にとって原告への監視はメリットがあったと言える。またゲーム、マンガ、アニメはクール・ジャパンの重要な一部であるが、「2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編に合わせ、経済産業省の商務情報政策局に文化情報関連産業課(メディア・コンテンツ課)設置」「2010年(平成22年) 6月8日、経済産業省製造産業局に「クール・ジャパン室」が開設された。6月18日、菅内閣が「新成長戦略」を閣議決定し、「クール・ジャパンの海外展開」が国家戦略の1つとなった。11月19日、第1回「クール・ジャパン官民有識者会議」が開催された。」(以上ウィキペディアより抜粋)から原告の監視とクール・ジャパンの戦略は見事に一致している。2001年に1月6日の中央省庁再編で防衛庁副長官のポストが新たにでき、メディア・コンテンツ課が設置され、翌月から再び防衛庁共済組合で監視を話させ職場に行かせようとせず原告をゲーム、アニメ、マンガ、サッカーの趣味に没頭させて情報収集しようとしたと推測できる。また2009年世界中で原告の日常生活が流されて原告が楽しんでいたゲーム、アニメ、マンガが世界中でも受け入れられたのを悟り、2010年6月8日経済産業省製造産業局に「クール・ジャパン室」が開設されたと推測できる。なおマンガ「寄生獣」(『モーニングオープン増刊』(講談社)にてF号(1988年)からH号(1989年)まで全3話の中編作品として連載された後、続きの第4話以降が『月刊アフタヌーン』(同)に1990年1月号から1995年2月号にかけて連載された。)も原告が世間で監視された後に言った好きなマンガである。2部構成の実写映画作品として第1部が『寄生獣』のタイトルで2014年に公開され、第2部

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『寄生獣 完結編』が2015年に公開された。テレビアニメ『寄生獣 セイの格率』は2014年10月より2015年3月まで日本テレビほかで放送された。 

以下にネットで調べたゲームに関する情報を記す。原告のゲームに夢中になっていた時期、離れていた時期の推移とゲーム業界の栄枯盛衰の推移は奇妙なほど一致するのが分かるからである。

「90 年代後半からゲーム離れが言われる中、携帯型ゲーム機は、その手軽さやゲームソフトの斬新さが評価され、今までゲームに馴染みの無かった層(カジュアルユーザー) を取り込んでいる。そして、2008 年度にピークをつけるまでゲーム人口の停滞を改善し、ゲーム産業の拡大に大きく貢献した。」

「日本のゲーム市場自体が1997年をピークに2006年までは漸減していた」

「2006年の9,263億円をピークに急激に規模が減少していることが容易におわかりいただけると思います。最新の数字である2009年の市場規模が6,739億円ですから、わずか3年の間になんと2,500億円も急減していることがわかります。2001年にも厳しい時期がありました。しかし、その後立て続けにヒット商品(「麻雀格闘倶楽部」や「太鼓の達人」「フォーチュンオーブ」「World Champion Club Football」「甲虫王者ムシキング」シリーズなど)が登場こともあって業績が回復しています。」(アーケードゲームの市場)

② 原告の性格

漫画サトラレの編集者、作者が原告を主人公西山幸夫のモデルとしただろうことは容易に想像できる。その西山幸夫は「研究にのめりこみ、あからさまなSPにも気づかない。エロもまじめさも持ち合わせ、白木重文いわく「実に人間らしい素直な好青年」。25歳の時にサトラレ対策委員会の小松洋子と恋愛結婚(ウィキペディアより抜粋)」とある。原告に置き換えると研究→サッカー、SP=防衛省職員や自衛隊員、25歳の時に~=25歳の時に防衛庁共済組合の職員に合格として採用となり、原告と西山幸夫は非常に似通っている。また原告は好ましい性格であることから監視の対象とされたと言える。なぜなら同じくサトラレの登場人物である川又忠というサトラレは「彼がまき散らす悪意のために周りの人間からは嫌悪され、更に悪意の伝播(周りの人間が忠と同じ対象

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に同様の悪意を抱くようになる)まで引き起こす。(ウィキペディアより抜粋)」という性格であり、原告がそのような悪意を持つ人間ならば監視者にとって原告を監視している時に大いに原告に嫌悪感を抱いて精神衛生上良くなく、監視者にとって原告への監視体制は職務の大きな弊害となっていただろうからである。なお原告は2013年11月から現在まで町田の英会話教室に通っているが、英会話教室のメンバーとは良好な関係を築いている。そのメンバーから「本当にいい性格していますね。もちろんいい意味で、ですよ。」「いつも昼食会開いてくれてありがとうございます。会長(原告のこと)が笑顔で気さくに誘ってくれて嬉しいです。」などと言われている。なおこの事実からも原告の就職が瀧野川信用金庫、防衛庁共済組合以外の全部不合格だったのがおかしいことが証明され、その不合格だったわけは被告国からの圧力があったからであろうことは容易に導き出せる。なお瀧野川信用金庫にはなぜ受かったかは後に記述する。

(2)対象人物を監視するのに適正な家族かどうか

① 原告の父 宮井松男

既述した原告の人生史を客観的に見ても原告の両親、宮井松男及び宮井清子は息子である原告の人生の幸せをほとんど考えていなかったのは、度重ねに原告に不都合な時期、不都合な住所に引っ越したことからも容易に想像できる。そして特筆すべきは被告松男の勤務先が池袋で1回も移動しなかったという事実である。つまり仕事のために転勤して引っ越しをする必要性がなかったのである。また被告宮井松男の口癖は「親孝行」である。それを聞くたびに原告はひどい嫌悪感や怒りなどを感じるが、その口癖からも被告松男は、子供は親に奉仕する存在であること及び息子の人生は親である自分が勝手に決めていいという歪んだ自己愛を持っていることが明らかである。原告以外でも最初の引っ越しが原告の兄であり宮井松男の息子である宮井克明の就職活動中だったこともそれを証明しているし、既述通り、親として7度も原告を医療保護入院させたこともそれを証明している。その息子を大切にしない、息子の将来を全く考えないという被告松男の思考、言動が防衛庁に原告を監視しても大丈夫で協力させられると思わせたのであろう。実際に被告松男は病気でもないのに原告を7度も保護者として医療保護入院させるという行為を何の罪悪感もなくしている。なおその被告松男の罪悪感の無さ、息子を大切にしないという思考、言動

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は原告の累積入院期間丸2年であること、また原告を防衛省に監視を16年も強いらせて原告の幸せを奪い続けてきたことからも明らかである。被告松男は原告を入院させることに対して抵抗感や罪悪感が全くなく、それは原告が監視の件で被告松男や被告清子に言うたびにしばしば今現在監視されている最中でも「後2年ぐらい入院したらよくなるんじゃないか?」と言うことからも明らかであり、全く原告の将来、幸せを考えていない。またそのことからも原告は入院される必要がなかったことも明らかである。被告松男はそういう性格だからこそ友達がいなかったし、そのことを防衛省は原告を監視するのに利用したと言える。つまり被告松男と監視者の間に仲間意識を作って監視体制側に友好的にさせようと仕向けた。その証拠はいくつもある。原告は今まで見たことなかった被告松男の友達を監視期間中に見た。そしてその友達とは原告と同じ大学の先輩で1999年からの監視体制後に友達になった。その設定も定義温泉で既述とおり、「3.上官や祖国に対する忠誠心を打ち砕く」は、特に、家族への忠誠心を執拗に攻撃するものだったと言え、原告と被告松男を仲たがいさせるという設定を防衛省が作ったものであろう。また被告松男は家に帰れなくて道に迷ったなどとして世間に監視を報道された後で警察のパトカーに何度も連れられて帰ってきている。これも原告に被告松男は監視する国と仲が良いいと思わせ家族への忠誠心を執拗に攻撃するものだったと言える。 

② 原告の母 宮井清子

基本的に悪意がないが罪悪感もない。罪悪感がないことは7回も入院させたことからもうかがえる。また監視されていても被告清子は怖くないと発言していることからも危機感、恐怖感もないことがうかがえる。それは原告の父と同じである。各被告らが国の原告への監視に対して罪悪感も危機感がないのも防衛省が秘密裏に薬を使っているからであろう。漫画サトラレの登場人物=山田一郎「脳神経外科の権威でサトラレの研究をしているが、同時に嫌悪感を抱いている。「サトラレは人間ではない」が持論で、サトラレをモルモットのように扱い、研究用の死体を手に入れるため何度もサトラレを殺害しようとした(木村浩を殺そうとしたり、白木重文に10倍精神安定剤を飲ませようとしたり、里見健一に向精神薬を飲ませようとした)。(ウィキペディアより抜粋)」のように被告国は各被告らに薬を使っていると原告は推測する。なぜなら原告は現在不安を消す精神薬を飲んでいるからである。そしてその薬は特別性だと断定できる。なぜなら2012年、TBSテレビに助けを求めた時に別の病院の精神

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科に行った時に同病院は診察だけして薬を処方しなかったからである。そしてその不安、恐怖を消す薬は、原告が被告松男、被告清子に監視されていると最初に話した時にも各被告らに秘密裏に使われていたはずである。なぜなら被告松男及び被告清子は、原告が各被告らに監視されていると話した時にも監視のことを不安がる様子は一切なかったし、むしろ原告が監視されて不安や恐怖を感じているのを不思議に思っていたからである。この事実からも原告が防衛庁共済組合入社する前から監視体制をひかれていたという推測が成り立つ。被告清子は原告を本当に統合失調症と思ってきていたみたいだが、それは既述通り原告以外の心の声を聞かずに原告の心の声をイヤホン等で聞いて理路整然としておらず防衛省のミスリードで病気だからそう思ったのであろう。また冷酷な面も持ち合わせており、既述通り山田病院の2回目の入院でものすごくひどい拷問を受けたと原告は説明していたにも関わらずよしの病院に入院させたこともその被告清子が冷酷だったことを示している。その冷酷さは原告が入院している時になかなか電話に出ない、面会しないなどでも広く世間に認知されているはずであり、その冷酷さも原告を監視する保護者として最適な資質だと被告国は悟っていたはずである。もっとも被告清子はそもそも原告が16年以上監視されていたのに原告を助けず、原告の幸せを考えず入院させたり、マインドコントロールされていた事実を知りながらその証拠を退院後捨てていたりとその冷酷さは世間でも広く認知されているはずである。なお原告がマインドコントロールされた証明として平成19年(ワ)第34066号損害賠償等請求事件の裁判官は東京地方裁判所民事4部の端二三彦(4は死を意味し、23と連番である。また端は端っこ=1を意味する。)、平成21年(ワ)第6337号損害賠償等請求事件は東京地方裁判所民事45部(45=死後を意味する)が挙げられる。

③ 原告の兄 宮井克明

被告克明は世田谷信用金庫に勤めていて40代で本店長という異例の速さで昇進を果たしている。そして原告に対してアルバイトでいいから働けと何度もこの世間に監視されている数年でも言い続けている。また2002年の定義温泉から町田の家に帰ってきた時に、原告が温泉主の石垣作成の原告の失敗した裏歴史を作成した紙をビリビリに破いたときに原告に暴力をふるった。(原告の右ほほにその強打によりできたシミがその暴力の証である。)このことからも長男と言うヒエラルキーで弟である原告の人生、未来などを考慮しないことが分かる。被告清子と同じように原告を病気とも思っているかもしれないが、40

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代で本店長、また東京都町田市に自宅を購入した経緯からも被告国の監視体制に協力し、それら地位、好待遇を得たと考えられる。そもそも被告克明が信用金庫に入庫したのも地域密着で転勤がなく監視協力者としての資質があったと判断された可能性があり、それは監視する被告国に原告と同じように誘導された可能性がある。監視協力者としての資質があり地元密着で転勤がないよう、また原告も転勤がないよう将来信用金庫に勤めさせる計画があったので信用金庫の人事権を被告国は掌握したかったので、被告克明は信用金庫に勤めるよう誘導された可能性がある。それは現在も監視の件を明らかにせず裁判などの重要な時期に原告の自宅に来て面倒を吹きかけてくることからも明らかである。

④ 原告の兄 宮井孝佳

既述通り、原告が髙2の時、被告孝佳がシャープに入社の内定が決まり当時の東京支社=東京都市ヶ谷の現防衛省がある隣の支社ビルに働き始める。原告は最初の入院中に宮井孝佳が結婚すると聞いたので会社に復職する。その結婚式は退院後の3か月後の6月に防衛省共済組合市ヶ谷会館で行われた。その施設は防衛庁とシャープ東京支社の隣で間にある。なお被告孝佳は当初東京支社に勤めていたが原告の監視期間の時は都合よく大阪本社に転勤している。2000年4月に東京支社に戻ったものの現在もまた大阪本社に勤務している。これらのことから原告の監視とリンクして被告孝佳の重要な歴史が決まった経緯があること、また被告孝佳もまた被告克明と同じように一軒家を監視期間中に建てていることから経緯からも被告国の監視体制に協力し、それら職、地位、好待遇を得たと考えられる。

(3)監視するのに適正な地域かどうか

本訴状 第3 各被告らの責任と罪 7 被告国の原告を監視してきた期間とその罪 にほぼ書いてある通り、原告は監視するのに適正な地域に越してきたと言える。さらに付け加えると1986年の「日本共産党幹部宅盗聴事件」が大いに関係している。 

「1986年、日本共産党の国際部長だった緒方靖夫氏の自宅の電話が、神奈川県警公安警備部の違法捜査によって、1年以上もの間盗聴されていたことが発覚した。緒方氏の自宅がある東京都町田で神奈川県警が活動した、という点でも

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違法である。裁判では、各県警の警備部公安一課に、主に左翼を対象とした情報収集の専門部署として「サクラ」と呼ばれる盗聴、盗撮、住居侵入、スパイ養成などを行う秘密工作部隊が存在していることが明らかになった。緒方氏に対する盗聴も「サクラ」主導によるものだった。(ウィキペディアより抜粋)」

原告は既述通り1987年に神奈川県に引っ越した。それを誘導したのは被告国であろう。神奈川県は「サクラ」と呼ばれる盗聴、盗撮、住居侵入、スパイ養成などを行う秘密工作部隊が存在していて前年に盗聴事件が発覚していたために原告の引っ越し先としてマスコミ対策が出来る適正な地域だったからであろう。またその1年半後、平成元年の引っ越し先が東京都町田であったことは先の「日本共産党幹部宅盗聴事件」の舞台が町田であり、前例があるゆえに原告を町田に引っ越しさせた可能性が高いであろう。なお「日本共産党幹部宅盗聴事件」の情報収集の専門部署として「サクラ」があると既述したが、原告は防衛庁共済組合で住宅施設班に配属された時に、当時の防衛庁と防衛庁共済組合が六本木にあった時代に「さくら」という料亭の蔵の鍵の管理を任されていた。また原告は既述通り本町田186-2から練馬区を経由して本町田8-14に引っ越した。そしてその本町田8-14のほうがより監視するのに適した土地であった。なぜならば原告が本町田8-14に引っ越した時には南向きの庭がある方の前の家には住宅がなく、その空地の向こうには駐車場があり、その駐車場からは家が丸見えだった。さらにその反対の8-14の北側には広大な空き地があった。その広大な空き地は原告が退職する2004年の5月前後に造成工事があり、多数の新築の一軒家が建てられた。退職後に監視を強化しようとした意図もこれらから分かる。また原告は14歳の時に平塚の城所(地名)に引っ越した。その城所はちょっとした丘であり、原告の高校は平塚の山の上にあり、青山学院大学1・2年時も厚木の山の上にあった。城所は平塚市にありながらも最寄駅は伊勢原であり、青山学院大学も小田急線伊勢原駅の隣の駅の愛甲石田が最寄駅だった。また青山学院大学の3・4年時は渋谷であるが、最寄駅は表参道であり、それは1999年当時の防衛庁の最寄駅、乃木坂の隣である(地下鉄千代田線)。これらのことからも監視するエリア同士が近く山の上にあるなど学生時代の場所、職場が監視を最小限の労力で出来る舞台であったことは容易に推測できる。よってこれらの数奇に見える原告に関係する地域の近さが示すのは、被告国が原告を監視するのに監視するエリアが狭いことから監視するための費用が少なくて済むということであり、原告は学生時代から被告国により人生介入されてきたことが分かる。地域の近さで言えば、現在の防衛省と

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被告宮井孝佳の勤めるシャープの東京支社は同じ市ヶ谷で隣同士であった。その防衛庁及び防衛庁共済組合は2000年4月から市ヶ谷に移転したが、同年同月にシャープの東京支社に被告孝佳は大阪本店に復帰してすぐ隣に働いており、防衛庁は両者を監視しやすかったと言える。ゆえにシャープの人事権に防衛庁は介入したと言える。また地域の近さで言えば、瀧野川信用金庫は原告の本籍と同じ北区にあり被告国に介入された証である。信用金庫というくくりでは原告は被告克明と同じであること、被告克明は40代という若さで本店長就任となったこと、また原告は勤務していた既述のヒステリックな女性の上司にマンツーマンにつかれたことは、防衛庁が信用金庫の人事権を介入した表れであると考えるほうが妥当である。丘の上で言えば、原告が入院したよしの病院もそうであり、鶴が丘病院も丘の上と言ってもよい地域にあって監視員が隠れ住む、監視のための整備が出来るなど適した場所だった。なお原告が1999年に防衛庁共済組合に入社したのも六本木(最寄駅乃木坂、六本木)時代の最後の一年だったからと推測できる。翌年2000年4月には市ヶ谷移転なので一職員相手に防衛庁内のどこを監視すれば、誰を監視すれば、また監視カメラをどこに設置すればいいかを検討できるし、監視の証拠は市ヶ谷移転で2000年に隠滅できると防衛省は考えたのであろう。2000年3月に原告は職場復帰するかどうかも分からなかったからである。