油彩作品の写真を撮る。
 デジカメで撮るようになって格段に便利になったものだ。
 それまでは油彩作品はスライドで残していた。
 一眼レフカメラのフィルムをネガからスライドフィルムに入れ替えたり、また、スライドフィルムはセトゥーバルではなかなか手に入らなかったりと結構大変な作業だった。無駄もでる。
 写り具合は写真屋さんから貰ってきてからでないと判らない。
 それも1週間から2週間程もかかる。

 作品写真はアナログ時代もそうであったが、狭いベランダで撮る。
 我が家は日本式にいえば4階、しかもエレベーターはないから階下まで持って下りるのは重労働だ。
 天気の良い日を選んで、作品に陰が写りこまないように午後からと決めている。
 しかも夏はベランダ自体が陰になってしまうから、秋から冬の間しかチャンスはない。
 ベランダで30号まではなんとか撮れるが、50号と100号は階下まで運ばなければならない。
 デジカメで撮るようになってからもそれは同じだ。

 階下の裏側に回ればガレージがある。
 ガレージの前の壁は広くて南向きで日当りが良い。
 光沢のない上品なベージュ色に塗られていて、作品写真のバックとしては最適なのだ。

 でも4階から階段を下ろしてその場所まで100号を運ぶのには力がいる。やはり歳には勝てなくて、そんなところで体力の衰えを感じたりしている。

 写真はレンズを通すわけだから、ある程度は離れて撮らないと歪みが生じる。ズームなしで撮ると真ん中が膨れてしまう。
 一眼レフでいうと105ミリ程度の望遠で撮る感覚だ。デジカメなら3倍ズームといったところだろうと思う。
 被写体(作品)の真正面にレンズが来るようにしなければまた歪む。それは左右も上下も同様だ。要するに作品の中心から直角の延長線上にレンズがある必要があるわけだ。

 一眼レフの時はレンズをなるだけ絞り込んで、シャッタースピードを思いっきり遅くする。手ぶれ防止にもちろん三脚は必要だ。それできめの細かいところまで撮れる。

 デジカメにもその様なマニュアル機能は付いているのだが、そこまではしない。オートフォーカスでストロボ発光がしないようにして撮るだけだ。デジカメは機能が多すぎて使いこなせていないだけなのだが…。

 作品は油彩だからピカピカしているから、ストロボが発光すると作品はハレーションを起こす。
 太陽光でも角度によってはハレーションを起こすから、ファインダーを通して確認しなければならない。

 撮った写真をパソコンに入れる。
 僕はデジカメを始めた当初から「蔵衛門」というオリンパスのソフトを入れている。
 最初に買ったデジカメがオリンパス・カメディア10倍ズーム、210万画素というものだからそのアルバムソフト「蔵衛門」も購入した。先ずはそのアルバムにいれる。
 一時は「フォトショップ」で作業をしたこともあるが、それは英語版で少々使い勝手が悪い。
 今は全て「蔵衛門」の中でやっている。
 実物の作品(油彩画)を見ながら色の調整をしたりもできる。
 「自動画像補正」だけでうまく色が出る時もあるし、深く焼いたり、コントラストを強くしたり、色補正をしたりといろいろして実物に近づける。そして角度を補正して作品以外のいらない部分は取り除き切り抜く。

 ホームページに載せたり、メール送信用には最大、長いほうの1片を500ピクセル程度に縮小する。
 ちなみにこのページの最初の作品は横200ピクセルとしていて、7,2KB まで縮小されている。
 「武本比登志ポルトガルの仕ゴト場」に載せている作品は、長いほうの一辺を500ピクセルとして、だいたい40~100KB以内になっているはずだ。

 今はそのオリンパス・カメディア10倍ズーム210万画素と、ニコン・クールピクス7900、700万画素を使いわけている。
 オリンパスは少々かさばるのでいつもは持ち歩かない。
 ニコンはケースをベルトに通して持ち歩くのでかさばらなくて便利だ。
 それには512MBのメモリーカードを入れていて、普段は画質を「Basic」とし、画像サイズを「3M、2048x1536ピクセル」に設定しているので、そのメモリーカード1枚で1000枚以上の写真が撮れる。写真の出来上がりは4~500KB程度だ。おおよそどんな写真でもこの程度で充分である。

 作品写真を撮る時は最高画質の「FINE」とし、画像サイズは「7M、3072x2304ピクセル」に設定を変える。
 それでもメモリーカード1枚で143枚の写真が撮れる。出来上がりは 2,5MB 程度になる。

 もちろんそれ以外の設定もできるが、その2種類を使い分けるだけで僕には充分である。
 印刷をするには重いサイズの方が綺麗にあがるのだろうが、サイトに載せたり、メールで送ったりは 4~500KB にしろ、2,5MB にしろ両方共そのままでは重過ぎる。
 それで「蔵衛門」内で縮小する。
 長いほうの一辺を 500 ピクセル程度にするとおおよそ 50KB くらいにまで軽くなる。

 最近は ADSL や光ファイバー、ケーブルテレビなどのラインを使っている人が多いので、少々の重さは苦にならない様だが、やはりメールやウエブサイト用には軽くしておくのがエチケットなのだろうと思う。
 僕も最初はそういったことを知らなくて、重い画像を知人に送りつけてしまっていたようだ。

 ちなみに我が家は未だに電話回線でやっているので、たまに重いサイズの画像などが送られてきた時には、パソコンがパンクしてしまわないか心配してしまう。
 2,5MB の画像なら取り込むのに1時間以上もかかってしまうのだ。プロバイダーで切られてしまうこともしばしばあるようだ。

  「蔵衛門」のアルバムにはたくさんの写真が入っているので、一昨年「外付けハードディスク」容量 160GB を購入してパソコンと繋ぎ「蔵衛門」はそちらに移した。

 最近、作品撮影で画期的なことを思いついた。
 作品写真をベランダで撮らなくても、アトリエで撮れることを考え付いたのだ。
 窓の反体側の壁に作品を立てかけると、光線が入ってハレーションを起こしてしまう。
 横の壁なら充分な距離を確保できないし、窓に近い方は明るく、遠い方は少し暗くなって作品画面上で明度にばらつきがあり巧く撮れない。

 思いついたのは、雨戸を完全に閉ざして外からの自然光を全くシャットダウンしてしまうことだ。
 電灯を点けなければ真っ暗の状態だ。
 巧くライティングが出来ればもっと良いのだろうが、そこまでは今のところしない。
 普通の蛍光灯の天井からの明りのみで撮るのである。

 幸い以前から夜間でも、暗い雨の日でも絵が描ける様にと 40 ワット 2 本の蛍光灯を窓側の天井に取り付けている。
 それほど明るくはないが、これだけで何と結構撮れる。
 デジカメの精巧さのお蔭だ。
 一眼レフではこう巧くはゆかないだろう。


 以上の様に日々いろいろと工夫をしておりますが、まだまだ発展途上です。
 もっと良い方法をご存知の方はお教えいただければありがたいのですが…
VIT

 

 

(この文は2006年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

 

 

エッセイもくじ

220. スキヤキ  2025/04

219. 犬と猫と観葉植物、そして蟹と鼠も  2025/03

218. 年号  2025/02

217. お散歩途中の収穫物  2025/01

216. 宮崎で始動  2024/12

215. 完全帰国  2024/09

214. 朝日の当たる家  2024/08

213. 中島先生、「にっぽん」と「にほん」はどちらが正しいのですか?  2024/07

212. せんぬき先生  2024/06

211. 宮崎の温泉と敬老パス  2024/05

210. マンハッタンで自転車  2023/11

209. なるほどナッツ黄金比率  2023/10

208. ゴムの木  2023/09

207. 古いクルマは金食い虫じゃ  2023/08

206. オートバイ  2023/07

205. 赤い鉄瓶と赤い珈琲挽き  2023/06

204. パリで道に迷っている夢  2023/01

203. ガスの定期検査  2022/12

202. 二つの赤いランプ  2022/11

201. シシトウ  2022/10

200. ホウレン草カレー  2022/09

199. 鳩に餌をやらないでください  2022/08  

198. パルメラ城  2022/07

197. 画材としての牛の頭蓋骨  2022/06

196. 節約  2022/05

195. 狂気の風景画家  2022/04

194. 本日は2739と194也。  2022/03

193. 蕁麻疹と四谷怪談お岩さん  2022/02

192. 冬の眠れない夜に  2022/01

191. シンコ・デ・オウトブロのモシュカテル  2021/12

190. パンツの修繕、パンの修繕  2021/11

189. 左手で絵を描く  2021/10

188. 高温多湿  2021/09

187. 灯台守  2021/08

186. カーボ・ヴェルデとサン・トメ・プリンシペの珈琲豆  2021/07

185. 風車小屋のある風景画を描く  2021/06

184. ワクチン接種  2021/05

183. 蜂の一刺し  2021/04

182. 世界の人口  2021/03

181. リスボンに誘われて  2021/02

180. 運動不足  2021/01

179. カサブランカ  2020/12

178. 税務署からの督促状  2020/11

177. 故障  2020/10

176. 長居と久保田君  2020/09

175. ペンギン  2020/08

174. 逃げ出したサルサ  2020/07

173. 復興の日  2020/06

172. 外出禁止令  2020/04

171. 帰国断念  2020/03

170. 展覧会ハガキ案内状 2020/02

169. 帰国準備期間  2020/01

168. クリスマスツリー  2019/12

167. ベジャでブレーキ  2019/11

166. 活字  2019/10

165. 霧と靄  2019/09 

164. 食品の着色料 2019/08

163. ポルト・デ・モスの城 2019/07

162. 歩行者、自転車にとっては危険な『赤江大橋』 2019/06

161. 下町の靴屋 2019/02

160. アルガルベ地方小さな旅日記 2019/01

159. 突然のジオシティーズ閉鎖という通達。 2018/12

158. 空と雲と風景画   2018/11 

157. 温泉地クーリア及びレイタオン街道旅日記 2018/10 

156. 鳥鴉 2018/09 

155. ニンジン 2018/08

154. エストレラ山旅日記 2018/07 

153. 運転免許証 2018/06

152. 豆の煮込み料理 2018/02

151. 風呂敷 2018/01

150. 加藤正雄が送ってくれた本 2017/12

149. 横断歩道 2017/11

148. コーヒーと眠れない夜 2017/10

147. 画材店の会員登録 2017/09

146. 扇風機 2017/08

145. その日の詳細報告 2017/07

144. インターナショナル・セトゥーバル・タトゥー・ショー  2017/07

143. 村元武さんとかつ丼のはなし 2017/06

142. 寒い冬 2017/02

141. 税金  2017/01

140. セトゥーバルの公害 2016/12

139. 映画の中のジャズ 2016/11

138. 山火事 2016/10

137. 自転車泥棒 2016/09

136. 蝉 2016/08

135. ポルトガルのアジサイ  2016/07

134. 山椒の木と擦り胡麻の話  2016/03

133. マテ貝雑炊とアボカド 2016/02

132. 1990年9月19日、水曜日から25年  2016/01

131. 目覚まし時計 2015/12

130. 藤原秀子(或いはフー子ちゃん)と、僕にとっての関西フォークの時代(下) 2015/11

129. 藤原秀子(或いはフー子ちゃん)と、僕にとっての関西フォークの時代(上) 2015/11

128. スーパーのお客争奪戦 安売り競争 2015/10

127. チョコレートにトウガラシ 2015/09

126. ファイブ・スポット・アフター・ダーク 2015/08

125. 行きつ戻りつ、エストレラ山 2015/07

124. 慌しさの中で 2015/06

123. ヒマワリの種 2015/02

122. イエスの馬小屋 2015/01

121. 視線   2014/12

120. ピーナッツ・バター   2014/11

119. タマゴテングタケは毒キノコ   2014/10

118. 朝食とナス科植物 2014/09

117. 父、武本憲太郎の履歴書 2014/08

116. 水洗トイレの水タンク 2014/07

115. キーウィフルーツ 2014/06

114. 蝿叩き  2014/05

113. 哀悼 めがね 2014/04

112. 武本比登志油彩作品展 日程 2013/11

111. パエリア鍋 2013/07

110. ハラン 2013/06

109. サンタクルス・スケッチ紀行 2013/06

108. 花粉症 2013/05

107. 礼状と宿題 2013/05

106. 端布画布(はぎれキャンバス) 2013/01

105. 葡萄畑の紅葉 2012/12

104. マヨルカ島旅日記-ミロのアトリエを訪ねて- 2012/11

103. セトゥーバルからリスボン往復の立ち寄り処(マヨルカの旅プロローグ) 2012/10

102. 砂糖の小包コレクション 2012/10

101. 箱入りワイン 2012/09

100. 僕たちのセトゥーバルの住まい 2012/08

099. 文章は水涸れ 2012/07

098. 父の思い出 2012/06

097. 検問 2012/02

096. アデェガ・ヴェーリャ 2012/01

095. 晴耕雨読、嵐ならどうする 2011/12

094. 舞台美術 2011/11

093. まあ一服、お煙草でも 2011/09

092. 運転免許更新 2011/08

091. 再度エストレラへの旅 2011/07

090. バナナの効能 2011/03

089. バービーの下敷き 2011/02

088. 伝道師という名の猫 2011/01

087. ヴァイデンを観るために-パリ、ボーヌ、ディジョン旅日記(下)-2010/12

087. ヴァイデンを観るためにーパリ、ボーヌ、ディジョン旅日記(上)- 2010/12

086. 今夜はおでん 2010/11

085. アルブフェイラの休日 2010/10

084. コラージュ淡彩スケッチ 2010/09

083. ル・ブルトン展 2010/08

082. リネンの花 2010/07

081. マリアのビスケット 2010/06

080. 桜 2010/05

079. 松 2010/01

078. マチスとロダンそしてドラン-パリ・トロア旅日記 2009/12

078. マチスとロダンそしてドラン-パリ・トロワ旅日記 2009/12

077. アングルとフォーヴィズム-モント-バン旅日記(下)-  2009/11

077. アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記(上)- 2009/11

076. アトリエの椅子 2009/10

075. グルベンキャン美術館のファンタン・ラトゥール展 2009/09

074. サクランボの種枕 2009/08

073. 一礼 2009/07

072. アカデミー賞映画作品 2009/03

071. バードストライク 2009/02

070. 我が心のシンケンスダム 2009/01

069. 両替 2008/12

068. ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(下) 2008/11

068. ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(上) 2008/11

067. マンマ・ミーア-ABBAに関する思い出 2008/10

066. 風景画 2008/09

065. 水と水道と水汲場 2008/08

064. 数 2008/07

063. ステファンの仏蘭西料理店 2008/03

062. ペットシュガーコレクション 2008/02

061. エヴォラとディアナの神殿 2008/01

060. フランスの田舎・メイエ村にて 2007/12

059. 道の名前 2007/11

058. ロータリー 2007/10

057. くち笛 2007/09

056. デパートの大食堂 2007/08

055. グアダルーペへの旅 2007/05

054. カモメの翼 2007/04

053. フェリー 2007/03

052. 古い切手 2007/02

051. 松林の丘 2007/01

050. イル・ド・フランス旅日記(下) 2006/12

050. イル・ド・フランス旅日記(上) 2006/12

049. アトランティック・シティ 2006/11

048. 夢の時間 2006/10

047. 昼下がりの読書 2006/09

046. カレーのレシピ 2006/08

045. ポルトガル国旗のある風景 2006/07

044. スカイ ムービー(機上映画館) 2006/06

043. 油彩作品デジカメ撮影 2006/03

042. 大統領選挙投票日/日曜の美術館 2006/02

041. つり銭 2006/01

040. ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて(下) 2005/12

040. ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて(上) 2005/12

039. 高田渡の思い出 2005/11

038. ローマ遺跡都市メリダ 2005/10

037. 老練石畳工 2005/09

036. 滞在許可証 2005/08

035. ゴッホが観た絵 2005/08

034. ゴッホの足跡をたずねて 2005/08

033. オーヴェール・シュル・オワーズ 2005/08

032. 着陸/Landing 2005/07

031. 地球は大きく世界は広いはずなのに 2005/04

030. りんご 2005/03

029. なまえ 2005/02

028. 明けましておめでとうございます 2005/01

027. オーヴェル7月最後の20日間 2004/12

026. ナンシー、アールヌーボー紀行(下) 2004/11

026. ナンシー、アールヌーボー紀行(上) 2004/11

025. NACK掲示板-アールヌーボーについての記述 2004/10

024. 地図に現われた湖 2004/09

023. アトリエのBGM 2004/08

022. ポルトガルで車検 2004/07

021. 漆堤公園 2004/06

020. NACKのサイト 2004/03

019. ラミレス社のツナ缶 2004/02

018. 真冬の雨あがり・小さなドライブ・スケッチの旅 2004/01

017. ポンタヴァン旅日記(下) 2003/12

017. ポンタヴァン旅日記(上) 2003/12

016. セトゥーバル版;備えあれば憂いなし 2003/11

015. 石膏像とそのオリジナル大理石像   2003/11

014. ローマの道 2003/10

013. 猛暑・山火事 2003/09

012. メリーさんと蛍 2003/08

011. 荷物の中味 2003/07

010. 佐伯祐三の足跡を訪ねて 2003/05

009. ムズとビット 2003/04

008. ヌエネン時代のゴッホ 2003/03

007. ポルトガルでの運転 2003/02

006. アレンクエールのビエンナーレ 2003/01

005. ニース周辺美術館巡り 2002/12

004. 蜂蜜 2002/11

003. 夕焼け 2002/10

002. 鳥かごとスピーカー 2002/09

001. 鉛筆削り 2002/07

 僕は数字に弱く、計算は苦手な方だが、最近はつり銭などの計算が少し得意になりつつある。
 ポルトガル人も計算に弱くしょっちゅうつり銭を間違える。
 もちろん全部が全部そうでもなく強い人もいるとは思うが、僕以上に弱い人も多い。

 日本人ならつり銭を考える場合、引き算で考える。
 15ユーロの品物を買って、20ユーロを出すと、20から15を引いた数、5がお釣りということになる。
 ポルトガル人は逆で、品物が15だからそれに足し算をして、客から貰った20になるまで加えるやりかただ。
 15から16,17,18,19と20まで1つずつ加えていく。
 これは計算が苦手な僕にとっては合理的であまり頭を使わなくても良い方法に思える。
 ポルトガル人はそれでもよくつり銭を間違える。
01.
 これはいけない事だとは思うが、日本でならつり銭をそれ程気にしない。
 貰ったつり銭をろくに確かめもせずにポケットにねじ込む。
 商売をしている人を全面的に信用しているのか、まあ間違っていたという経験も少ない。
 最近はレジスターにちゃんとつり銭が表示されるから、レジの人も計算をしなくても済むのだろう。
 日本に毎年2~3ヶ月帰るが、その時はつり銭にあまり神経を使わずに、そんな感じで生活をしている。
 その気分のままポルトガルに戻ってきた日には要注意である。

 ポルトガルでは目を皿のようにしておかないと、間違える。
 それは故意に間違えるというものでもない。
 つり銭が多すぎることも少ない時と同じくらいあるのだから…、要するに計算に弱いのだ。

 このところも3度続けざまにつり銭間違いがあった。
 こちらは日本人だから、あらかじめ引き算をしてつり銭が幾らくるかを計算しておくのだ。

 先日、メルカドでおばさんから人参1キロとインゲン豆500グラムを買った。
 人参が1キロで0,70ユーロ、インゲン豆は1キロが3,40ユーロだから半分で1,70ユーロ。
 合計で2,40ユーロである。
 それに5ユーロ札を払った。
 引き算すると簡単でお釣は2,60ユーロになる筈である。
 おばさんは足し算をしている筈がどこかで勘違いをして、2,40ユーロしかくれない。
 「間違っている」というと、今度は別の勘違いを起こし、3,40ユーロをくれようとする。
 途中からはパニック状態になっているようだ。
 1ユーロを返して、「20センチモを下さい。」と言ったら喜んでいたが、最終的に理解できたのかは疑わしい。
 よくあれで商売ができるものだと思ってしまう。

 露天市で5ユーロのティシャツを買った。

 20ユーロ札を払ったから、つり銭は15ユーロである。
 それなのに25ユーロをくれようとする。
 ただでティシャツをくれた上に5ユーロを上乗せするとはどう考えても商売にはならない。
02.
 そんな商売人だけではない。
 金融機関の郵便局の窓口でもである。
 荷物を受け取りに最寄りの郵便局に行った。
 ついでに日本向けの封書用の切手を50枚買った。
 毎年の様に値上がりがするので、「幾らの切手を下さい。」とは言わずに「日本向けの切手を50枚下さい」という言い方だ。額面は今回値上がりなしで、0,74ユーロであった。
 僕は計算が苦手だから、独特(?)の計算をする。
 0,74x50というやりかたはしない。それをするには計算機がいる。
 0,74ユーロを100倍にする。そうすると74ユーロになる。
 50枚だからその半分であるから、37ユーロということになる。
 窓口で40ユーロを支払った。お釣は3ユーロの筈である。
 窓口から出されたつり銭は2ユーロとナニガシかの小銭であった。
 小銭が出る筈がない。
 MUZは「手数料を取られたのかしら?」などと言っているが、そんなものはいらない筈だ。

 貰った小銭を全部出して「間違っている」と自信をもって言うのが一番である。
 窓口の女性はおたおたと計算をやり直して、間違いに気付いてくれた。
 「日本人は計算機もなしで、何と計算に強い!」と思っているかもしれない。

 最近は現金を使う事も少なくなってきている。
 百貨店やホテル、レストランはもちろん、大型スーパーやガソリンスタンドではクレジットカードで支払う。
 ブティックでもそうだ。
 日本では、コーヒー1杯でも、なんでもデビットカードとかいうもので支払えるらしい。
 乗車券などは改札口で携帯電話をかざすだけで決算できる仕組みになっている。
 コカコーラの自動販売機もそうだという。
 高速料金でも料金所を60キロのスピードで走り抜ける。
 それを感知して銀行口座から引き落とされるのだ。

 今どき、つり銭がどうのと言っている時代ではないのかも知れない。
 僕は最近せっかくつり銭の計算が少し強くなってきたと自負しかけていたのに、もう時代錯誤でそんなつり銭計算などは昔話になる時代がもうそこまで来ているのかも知れない。

 でもメルカドで人参やイワシを買うのに携帯電話をかざしてみてもはじまらない。
 やはり間違いながらでも、小銭のやりとりでイワシなどは買いたいものだ。
VIT

 

(この文は2006年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

武本比登志のエッセイもくじへ

 

ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて(上)へ

2005/10/23(日)晴れ時々曇り/Caen-Bayeux-Cherbourg

 朝は朝食前から露天市を見て回った。なるほど、昨日のオンフルールの朝市よりも遥かに大規模であった。ポルトガルの露天市に似て衣類や靴などもたくさん出ている。違うのは海産物や生鮮野菜などの店も多く、見事に飾り付けられていることだ。以前と違って、今は統一通貨ユーロなので、高いのか、安いのかが一目瞭然よく判る。

34.カーンの露天市と泊ったホテル

 昨日、オンフルールで買ったパエリア屋さんも店を出していた。オンフルールでは大鍋が2つだったのが、ここでは4つも作っていた。マダムも僕たちに気付いたらしく、驚いて笑顔を見せていた。

 カーンの駅までは20分程を歩いた。途中金ぴかのジャンヌ・ダルクの銅像があった。

 

35.ジャンヌ・ダルク像


 バイユーでは王妃マチルダのタピストリー [Tapisserie de la Reine Mathilde] を見る。
 幅50センチで、長さは70メートルもあるタピストリーだ。
 1077年に作られた織物(刺繍)で、ノルマンディー公ウイリアム征服王のイングランド征服を描いた、いわば戦国絵巻物だ。日本語の解説もあって歩くに従って物語りは進んでついつい引き込まれて行く。色彩も良く絵も表現も面白い。


王妃マチルダのタピストリー(これは約1/9の最終部分)

36.

 バイユー駅でサンドウィッチを買って乗ろうと思っていたのに、店は閉まっている。
 バイユー駅からシェルブール行き列車に乗ったのは僕たち2人だけであった。
 シェルブールに着いて駅を出た所に地図があったが、判りにくい地図で方角も判らない。
 しかたがないのでタクシーに乗った。中心地の適当なホテルに止めてくれるように頼んだ。安そうなホテルの前で止まった。先にも幾つかホテルの看板が見える。
 どれも2つ星だがその中で一番良さそうなホテルを聞いてみることにした。2部屋が空いていて、何れも港に面した角部屋である。安いほうは屋根裏部屋で窓が斜めに向いていた。窓の大きい高いほうに決めたがパリなどに比べると随分と安い。

 ホテルのフロントで美術館の場所を聞いたら、「どの美術館ですか?」背が高くてフランス人と言うより北欧人の様な宿の主人であった。英語を話すが少し北欧訛りの様に聞こえる。そして律儀な性格らしく的確に教えてくれる。

 トマ・アンリ美術館 [Musee Thomas Henry Cherbourg] の一階はガランとして廃屋の様であった。

 

37.シェルブール「トマ・アンリ美術館」入口

 そこに居た人に「美術館の入口は上ですか?」と尋ねたら「うん」と頷いた。どうやらアルコール依存症の人の様である。


 ここでも入場無料であった。
 ただし半分は工事中で観ることが出来ないのだそうだ。
 ミレーの勉強時代の肖像画がたくさんあった。その全てをデジカメに収めた。若い少女の肖像画はミレーの最初の奥さんと書いてある。名前は「Paurine ONO」という人だ。

 

38.ミレーの最初の奥さんONO像

 その人の兄の「Amando ONO」という人の肖像画もある。
 美術館の受付の人に「<ONO>と言うのはノルマンディーの名前ですか?」と聞いてみたら「いや、その名前はノルマンディーにはありません」という。
 「ONOは日本人の名前にはあるのですよ」と言ってみた。
 どことなくこの肖像画には、ほんの少し東洋人的な面影も感じられるが気のせいだろうか?。

 『1838年から1840年にかけては、毎年グリュシーへ幾週かを過ごしに行っては、近親の者の肖像画を描いた。けれどもシェルブールの市当局が不規則に払っていた三百フランの不快な年金をついに失うことになった。その原因は、死んだばかりの市長の肖像画をあまりにも写実的に描いたので、それが敬意を失するとされたからであった。ところが一方では、この事件のために起こった騒ぎと、1840年のサロンに彼の最初の出品たる肖像画が出て、それが成功したためとで、郷里の若い人びとの同情がいっせいに彼に集まった。ある若い娘が彼に恋して、二人は1841年11月に結婚した。この幸福はミレーにとって新しい悲しみのもとともなった。妻は身体が弱かった。いっしょに過ごした数年のあいだ、絶えず病気になっていた。二人の生活は苦しかった。1842年には彼の画がサロンに落選した。毎日のこと生活のためにもがかねばならなかった。可哀そうな妻は弱くてそれに抗しきれなかった。そして1844年の4月、長患いのあげくに死んだ。ミレーはふたたび孤独になった。』

ロマン・ロラン著「ミレー」より

 

39.ミレー自画像

 そんな話をしていると、知らないまに先ほどのアルコール依存症のおじさんが受付に入っている。
 受付の女性はそのおじさんにもその話題を振り向けて、丁寧に対応しているところをみると、この人はこの美術館の館長さんなのかも知れない。
 失礼なことを思ってしまった。人は外見で判断してはいけない。

 美術館カタログを買いたいと思ってその旨申し込むと、「本当にそのカタログで良いのですか?もう一度よく見て下さい。」と念を押される。
 確かに本物を前にして印刷だから色は悪い。でもはるばる来た記念だし、めったに買えるものでもない。「はい、お願いします。」と言うと、横にいた館長さんが以前の企画展のポスター3種類をくるくると巻いておまけをしてくれた。つくづく外見で人を判断してはいけない。

 考えてみると今日は昼食を取っていない。
 ホテルの側のブラッセリ-で、若いカップルがムウルを食べているのが見えたのでその店に入った。
 ポルトガルではこの様な時間には食事は出来ないが、フランスは便利である。

 ムール貝の一つずつに小さな蟹が入っていた。ポンフリもたっぷり付いていてお腹は満腹になる。

2005/10/24(月)曇り時々雨/Cherbourg-Greville-Gruchy-Beaumont-cherbourg

 きょうは朝からレンタカーをして、いよいよミレーの生れ故郷を訪れる日だ。
 実は昨日、ホテルに置いてあった観光パンフレットを見て心躍らせているのだ。
 僕はミレーの生れ故郷がどのような雰囲気のところか?と、ミレーの描いたグレヴィルの教会だけを見ることが出来れば、それで良いと思っていた。
 ところがその観光パンフレットには<ミレーの生家>が載っているではないか。
 とにかくその家が残されていて、そこまでは行く事が出来る筈だ。
 しかもシェルブールからそれ程遠くはない。

 レンタカー屋は2軒あった。両方の値段を聞いて安いほうで借りた。クルマはマツダ・デミオのディーゼル車だ。

 標識通りに行けば難なくグレヴィルに着いた。
 雨がまた少し降り出していた。
 道端に駐車スペースがあったのでクルマを停めて、傘を持って歩いてみることにした。
 角を曲ったところすぐにグレヴィルの教会があった。何と小さい村だ。その前の広場にはミレーの銅像も建てられていた。
 そのロータリー広場に「グリュシー」への標識も目に付いた。

 

40.ミレーの銅像とグレヴィルの教会

 

41.「グレヴィルの教会」ミレー/オルセー美術館


 グレヴィルからグリュシーへは歩いても行くことができるほどの近さであった。公園の様な駐車場があった。
その中心に、やはりミレーの銅像があった。

 クルマを駐車して歩いて行くとすぐにミレーの生家と書いたプレートが付いた建物があったが、扉は閉ざされていた。見ることが出来るのか?いつなら見ることが出来るのか?全く表示されていない。

 村を抜けて、断崖の海岸まで行ってみた。
 雨に濡れて滑りそうで危ない。
 ミレーが子供の時に5,6隻もの船が一度に難破して、死体の山が出来たという海岸だ。今でも海路の難所とのことであるが、沖合いに船が見える。
ミレーの生家はあきらめて戻ることにした。

 戻る前にそのグリュシーの役場のあるボーモンに行ってみる事にした。そこでお昼を食べるのも悪くはないと思ったのだ。
 ボーモンに着くと市役所とその横にツーリスト・インフォメーションが目に付いた。何か情報があるかも知れない。

 

42.ボーモンの村役場

 「今、グリュシーに行ってきたところですが、ミレーの家は閉まっていた。」と言うと、「はい、あそこは午後からだけ開きます。」と言った。よくぞこのインフォメーションを訪れたものだ。午後から引き返すと観る事が出来るわけだ。


 ついでにお昼を食べるレストランを聞いたら、すぐ側に郷土料理の店があった。ここでも牡蠣の付いた定食を頼んだ。

 

43.鴨のオレンジ煮込み

 

44.白身魚のシードル煮込み

 ノルマンディーでは牡蠣だけよりも前菜に牡蠣付きの定食をやっている店が多い。
 食事が終わって早速グリュシーに引き返した。

 ミレーの生家 [Maison Natale de J.F.Miller] の筋向いの建物に受付の看板が出ていた。入場料を払うと先ずその建物の奥で10分程のミレーのビデオを見せてくれる。見終わったら受付のマダムに連れられてミレーの生家に行き鍵を開けてくれた。あとは自由に見れば良い。とのことであった。

 

45.ミレーの生家

 ミレーが描いたバターを作る道具なども展示されていて、なかなか良い雰囲気がある。石造り2階建ての大きな建物でとても貧農ではなかった様だ。

 

46.1階食堂

 厳粛な素朴さの中に重厚さと品格を併せ持ち、いかにも少年ミレーが育つに相応しい環境であったように感じた。
 でも今回の旅でも、まさかミレーの生家を見ることが出来るとは思ってもみなかった。ここまで来て初めて判った事なのだ。

47.2階作業場

47.寝室

48.ミレーの絵の具箱

49.藁の敷かれた木靴

50.玄関

51.ミレーに大きな影響を与えた祖母の写真

52.生家向い、ミレーが描いた牛乳集荷台

 

 明日はパリに戻る日だ。
 シェルブールからパリまでの時刻表は来る時に貰って来ていたが、複雑で明日はどれがあって、どれがないのかがはっきりしない。
 ホテルのムッシューに聞いてみることにした。
 ル・アーブルでは失敗したから今回は慎重にしたいものだ。
 「これに乗りたいのだけど明日はありますか?」と尋ねてみた。
 注意書きを読んで「これは明日は大丈夫」と太鼓判を押してくれた。ここのご主人はいかにも北欧人的で慎重で律儀で的確な人の様だから全面的に信用した。それにしても、パリ行きの本数は意外と少ない。

 夕食前のひと時、シェルブールの街を散歩した。
 また少し雨が降り始めた。
 僕の折りたたみ傘が少し具合が悪くなっている。
 この傘は以前マルセイユの<モノプリ>で買った物で、軽くて色も気に入っていたので旅行にはいつも持参していた。日本に帰る時も何度も一緒だった。
 そう言えばMUZが今持っている緑色の折りたたみ傘もオルレアンで買ったものだ。
 考えてみると良くフランスで傘を買う。そんな雨の時期にフランスを旅するのだからだろう。

 衣料品スーパーに入って雨傘を見てみる事にした。

 マルセイユの物ほど気に入った物は見あたらなかったが、軽くて安いのを1本買うことにした。

 まさに<シェルブールの雨傘>である。
 自慢したくなる様な雨傘ではないが、これから又いろんなところに一緒に旅することになるのかも知れない。

2005/10/25(水)曇り時々晴れ一時小雨/Cherbourg-Paris

 朝に、昨日に見ていたメルカドに行ってみることにした。行ってみると、もうやっていない。どこかに移転したのだろう。劇場前の広場に出ていた露天市を見て歩いた。

 

53.劇場前広場の朝市

 美味しそうなノルマンディーチーズがたくさん出ていて買って帰りたかったが、今回は美術館のカタログをたくさん買ってリュックが随分と重くなっているので諦めた。
 ホテルに戻る事にした。

 

54.シェルブールで泊ったホテル

 同じ道を歩くよりも別の道をと思って、中が駐車場になっているところを抜けて行こうとした。入ろうとしたらベルが鳴った。セキュリティーがしてあるのだろうか?やはりこの道は駄目か?と思って元の道に戻って歩いたがまだベルが鳴っている。
 「ああ、側を歩いている人の携帯か?」と思ったが、違う。MUZの携帯が鳴っているのだ。

 携帯は数年前に日本で買ってきた物だ。海外でしか使えない物で、おまけにメールはローマ字でしか打てない。あまり使ったことはないが、昨年クルマが故障した時には役に立った。

 そんな万が一の時のために買ったものだからそれで良いのだが…。

 この携帯に掛ってきたのは、もしかしたらこれが初めてである。

 それは大阪・高槻の妹からであった。父が入院して手術をするというものであった。
詳しくは妹も判らない。妹は学校の教師をしているが、今はまだ学校で今から病院に向かう。着いて詳しいことが判ったら又電話する。とのことであった。
 妹のところから病院までは恐らく1時間はかかるのだろう。
 父には兄が付き添っている。その兄から妹へ連絡が入って、妹から僕に連絡をしてくれたのだ。
 とにかく僕にはパリ行きの列車が発車しないことには動きが取れない。次の電話を待つしかないのだ。
 急遽日本に帰ることも視野に入れておかなければならない。

 

55.シェルブール駅

 シェルブールの駅に早い目に行った。
 その携帯を使って日本行きの航空券のことなどを調べてみた。
 明日の「全日空」なら少しだけ空席がある。とのことであったのでそれを押えておいてもらうことにした。

 シェルブールからパリに向かう列車の中に、今度は兄から電話がかかった。

 手術は順調に成功した。とのことであったが、この際日本に帰ることにした。
 なにしろ父は94歳と高齢だし、高齢の手術だから術後も心配である。
 ポルトガルから日本に戻るよりもパリからならそれだけ近い。

 パリのオペラ近くのエージェンシーで航空券を買って、サンミッシェルのホテルにリュックを降ろした。ポルトガルに戻る航空券は捨てることになった。
 そして予定通り自分が出品しているル・サロン [Le Salon] のヴェルニサージュ(開会)に出かけた。

 

56.僕の作品とベルニサージュで混みあうル・サロン2005の会場

 

2005/10/26(水)曇り時々晴れ/Paris-Sannois-Paris-日本

 日本行きの飛行機は夜8時発だから今日は一日ゆっくりとある。
 出来たら行くつもりであったユトリロ美術館に行くことにした。
 パリからRERでサンノアという郊外にある。
 サンノアの次の終点駅がアルジャントウイというところで、印象派のモネ、ピサロ、シスレーなどいろんな画家が絵にしている場所だ。

 サンノアの駅から中心の方に歩いて、そのうち「ユトリロ美術館」の道路標識でも見つかるだろう。と思って歩き出した。
 ユトリロ美術館の標識は一向になかった。
 お巡りさんが居たので尋ねると、道路を挟んで目の前だという。尋ねたあとにそこにユトリロ美術館の標識があるのに気付いた。

 

57.ユトリロ美術館

 古いサンノア村役場がユトリロ美術館 [Musee Utrillo] であった。
 1階には15~6点の各時代の油彩画の展示があった。

 地階に下りるとユトリロのアトリエが再現されていて、使い古しの絵具の盛り上がったパレットに描いた絵が3~4枚もあり、それが面白かった。
 別の部屋にはユトリロの母、スザンヌ・バラドンの力強いデッサンや油彩画も観ることができた。一度スザンヌ・バラドンの作品をまとめて観てみたいものだ。

 ユトリロ美術館の隣にはモダンなガラス張りの市庁舎があった。かねてより来たい来たいと思っていたが、来てみると簡単に来る事が出来た。以前に一度、途中まで来た事があるが、路線工事中で断念したことがある。その時は切符を払い戻した。

 

58.この旅で買い求めた美術館カタログ/上左より/ル・サロン、マルロー美術館、ルーアン美術館、バイユーのタピストリー、ブーダン美術館、トマ・アンリ美術館、マルロー美術館、カーン美術館

 時間が余ったのでパリに戻りオルセーに行く事にした。
 サンノアからRER(C)ライン一本で行ける。
 サンノアの駅前でサンドウィッチを買ってRERに乗った。
 アラブ人がやっているサンドウィッチ屋でカバブが主なメニューだが普通のものを注文した。

 ポンフリもたっぷり入ってボリューム満点だ。
 電車は空いていた。隣のボックス席に座っている若い娘のところに乞食がやって来て小銭をせがんだ。娘は強く首を横に振った。
 サンドウィッチを食べている僕たちのところには遠慮したのか?来ないで行ってしまった。

 オルセー美術館 [Musee d'Orsay] では入場するのに行列していた。
 こんなのは初めてである。
 先ずは一昨日見てきたミレーの「グレヴィルの教会」だ。
 その一点をだけ観るだけで満足であったが、急ぎ足でひととおり観て廻った。

 そしてホテルにリュックを取りに戻ってリュクサンブール駅からド・ゴール空港へ向かった。ド・ゴール行きのRER(B)ラインはラッシュであった。
 それに成田までの全日空も満席であった。眠ることは出来ずに映画を4本も観てしまった。
VIT

 

 

(この文は2005年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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 以前にロマン・ロランの「ミレーの伝記」を読んでミレーの生まれ故郷にいずれ行ってみたいと思っていた。

 それは「グリュシー」という小村で、ノルマンディーのシェルブールの近くにあるらしいことは判っていた。

 僕の持っているミシュランのフランス全土地図には丹念に探すけれども見あたらない。もう少し大きな地図が必要だ。

 いっきにシェルブールに行くのではなく、印象派の故郷ル・アーブル周辺にも寄っていくことにした。

 ユージーヌ・ブーダンを観るのも楽しみだ。

※「ミレー」ロマン・ロラン著、蛯原徳夫訳、岩波文庫、1939年10月5日第1刷発行

2005/10/19(水)晴れ時々曇りのち雨/Setubal-Lisbon-Paris-Rouen

 今回はフランス航空ではなく、ポルトガル航空を使うことにした。

 フランス航空より20分遅く8時発だが、やはりセトゥーバルを5時の始発バスに乗らなければならない。

 パリに着くのはド・ゴール空港ではなく、今回はオルリー空港である。

 オルリーから北駅までRERで行き、メトロでジュール・ジョフリンまで乗り、ムッシューMの家に行く。

 雨が降ったらしく、石畳が濡れている。それ程寒くもない。

 

 ムッシューの手作りケーキと木の実のお茶をご馳走になる。

 一番上階の部屋なので日当りが良い。窓から顔を出すとサクレクールの尖塔が見える。

 ジュール・ジョフリンとサクレクールの中間とはまことに羨ましいロケーションだ。

 

 100号を預けてまたメトロに乗りサン・ラザール駅に向かう。

 この駅も印象派にはゆかりの駅だ。

 モネは汽車の蒸気に煙るサン・ラザール駅を何度も絵にしているし、カイユボットはこの<ヨーロッパ橋から下の線路を覗き込む男>の面白いモティーフを描いている。

 

 ルーアンまでの切符を買って、サンドウィッチと水を買い、大急ぎでホームへ走った。

 まさにルーアン行きの列車が発車しようとしていた。

 最後列に飛び乗って動き出した列車の通路を前に進んだ。

 全ての2人席に1人か2人が座っていて2人並びの席は空いていない。

 あきらめかけていたが、最前の車輌まで行ってようやく一つが空いていた。

 早速、サンドウィッチを開いて昼食だ。

 パリから30分程走った最初の停車駅マントラ・ジョリで殆どの人が降りてしまい、がら空きになってしまった。

 

 マントラ・ジョリは佐伯祐三がノートルダムを描いた街だ。

 代表作の一つで裏にはパレットを持つ立ち姿の自画像が描かれている。

 

 ルーアンに着いて目指すホテルに向かった。

 あのモネが陽射しの変化を描いたカテドラルのすぐ側にあるホテルであるが、予約はしていない。

 

01.ルーアンで泊ったホテル

 ホテルに空き部屋はあった。しかも角部屋でカテドラルの威容が目の前にある。

 

02.ルーアンのカテドラル

 

03.「ルーアンのカテドラル」モネ/ルーアン美術館

 さっそく、ルーアン美術館 [Musees de Rouen] に急いだ。

 美術館の入場料は1人3ユーロ。二人で6ユーロである。20ユーロ札を出すとお釣がないという。「細かいのがありませんか」と言うので小銭を探したが5ユーロしかなかった。受付のマダムは3ユーロと2ユーロの入場券を作ってくれた。老人割り引きにしてくれたのだろうか?

 

 閉館まで1時間半があったので充分観ることができると思っていたが、思っていたのより膨大なコレクションで、途中で時間切れになって追い出されてしまった。

 

 夜は雨も降り出したのでホテルの下のブラッセリ-で定食を食べることにした。これが手頃で案外と良かった。地元のビジネスマンや家族づれの常連客でやがて満席になった。

 

2005/10/20(木)曇り時々晴れ/Rouen-Le Havre

 

 昨日の続きの美術館を観る開館前に街を散策。ここのカテドラルのステンドグラスも立派だ。

 

04.ルーアンのカテドラルのステンドグラス

 雨あがりの濡れた石畳が複雑な色を発色させて美しい。それに朝日が反射して街がいっそう美しく見える。この街もコロンバージュ(木骨煉瓦造りの家)の地域がたくさん残されている。

 

05.コロンバージュの家

 

06.ルーアンの町並

 

07.ルーアン大時計通り

 

 美術館は受付を真ん中にして展示場は左右に分かれている。

 

08.ルーアン美術館入口

 裏側では細い階段で繋がっているが、今日は昨日は観なかった反体側から観ることにした。釣り銭のいらない様に、丁度6ユーロを払った。昨日はイコンから始まって印象派くらいまでだったから、今日はそれ以降だ。

 きょうは出口から入ったことになる。入ってすぐの3部屋目にモディリアニが2点あった。

 

09.モディリアニの展示室

 この美術館の目玉の様である。

 印象派以降ばかりかと思っていたら、ドラクロアなどの大作も展示されていた。中庭(と言ってもガラス屋根がある)にデュフィの横10メートルほどもある巨大な絵があった。

 

10.デュフィの絵

 美術館を出て、その近くにある陶磁博物館 [Musee de la Ceramique] にも行った。

 16世紀からのルーアンの陶磁とヨーロッパ陶磁の良い物が揃っている。陶磁器で作られた地球儀があったが、日本は北海道も九州もなくサツマイモの様な形であった。

 

11.陶磁の地球儀

 その窓から、ジャンヌ・ダルクが幽閉されていたという、塔が間近に見えた。

 

12.ジャンヌ・ダルクが幽閉されていた塔

 塔まで行ってみたが、その横の通りが石畳工事の最中であった。石が大きいのでポルトガルの石畳工事とはかなり違う。

 

 ホテルに戻りリュックを担いで駅に向かう。

 ルーアンからル・アーブルは列車がしょっちゅう出ているものと多寡をくくっていたが、駅に着くと次の列車までたっぷり2時間を待たなければならなかった。

 

13.ルーアン駅

 駅から一旦出てカフェでシードル(リンゴ酒)を飲む。

 駅でサンドウィッチとミッシュランのノルマンディーの地図を買う。地図を見ると、シェルブールから岬の突端への中間くらいの所にミレーの生まれた小村グリュシーを見つけることが出来た。ミレーの教区グレヴィルや役場のあるボーモンもある。

 

 ル・アーブルでは駅から長い道を歩いた。ホテルがなかなか見つからない。ツーリスト・インフォメーションの標識を見つけて歩くが遠い。海岸まで出て、そこにようやく見つけることができた。市街地図を貰ってマルロー美術館の場所とホテルを数軒教えてもらう。

 

 目指すホテルにやっとたどり着いたと思ったら満室であった。そのホテルで別のホテルを紹介して貰ったがすぐ側に何軒かあった。そのあたりには固まってあるようだ。部屋の後ろはマルシェ(市場)になっていた。

 さっそく荷物を降ろしてマルロー美術館 [Musee Malraux] へと向かう。
 この美術館にはユージーヌ・ブーダンのコレクションが220点もあるとのことで楽しみにしていたのだ。

 

14.マルロー美術館

 入場料は無料であった。かつての文化大臣アンドレ・マルローを冠したモダンな美術館である。目の前は港でそれこそブーダンの絵にあるような空が広がっている。

 

15.マルロー美術館の前に広がるル・アーブル港

 1階にはモネやピサロ、シスレー、ルノアール、デュフィ、ヴァン・ドンゲンなどがあり、2階に上ると先ず壁一面にブーダンの作品群があった。
 殆どが小さな作品で細い金縁額で3段4段掛けで展示されていた。それは油彩には違いないがまるでデッサンの様なブーダンの息遣いまでが聞こえる様で素晴らしいタッチと色彩の数々に圧倒される。

 

16.220点のブーダン作品群


 その他の壁にはあのモネの「印象-日の出」と比較されるべき日の出の作品群は殊更素晴らしいものであった。

 

17.ブーダンの作品

 少し大きな従来から観ているブーダンらしい完成作も何点かあった。予想を遥かに越えてブーダンの素晴らしさにすっかり魅了されてしまった。いままでオルセーや他の美術館などで少しずつ観ていたのや、画集で観ていたのとは全く違ってブーダンの認識を新たにした展示であった。

 その2階にはクールベやフラゴナールの作品も1点ずつ飾られていた。

 

2005/10/21(金)曇り一時雨/Le Havre-Honfleur


 昨日は美術館に行くのに急いでいたので、ツーリスト・インフォメーションで次のオンフルール行きのバスの乗り場と時刻を聞くのを忘れていた。ホテルで聞いたら時刻表が一枚だけあって、調べてくれた。バスターミナルは駅の隣である。その時刻にあわせてバスターミナルまで30分程の道のりをのんびり歩いた。

 発車時刻より30分も早くに着いた筈が、バスは今出たばかりだと言う。ホテルの主人は間違って教えたのだ。或いは時刻表が古かったのかも知れない。フランスの時刻表は複雑で見難い。
 次のバスまで3時間も待たなければならない。オンフルールまでは30分で、すぐの筈なのに本数が少ない。
 停まっているタクシーにオンフルールまでの値段を聞いたが、高くてバカらしいのでバスを待つことにした。

 ル・アーブルのカテドラルを見ていないし、旧港も見ていないので行く事にしたが、途中で雨が降り出し風も強く折りたたみ傘では役に立たないので引き返した。
 しかもこの折りたたみ傘は先日より骨が少し折れ曲がって開きにくくなっていた。

 しかしバスターミナルでこのまま時を過ごすのは無意味な気がしたので、再びカテドラルを目指して歩いた。雨は小降りになりやがて止んでしまった。

 旧港にはかつてピサロがイーゼルを立てた場所に標識が設置されていた。

 

18.ピサロがイーゼルを立てたル・アーブル旧港

 旧港からカテドラルまで行って、新港に出るとそこはマルロー美術館のすぐ側まで来ていた。

 

19.ル・アーブルのカテドラル

 昨日、着いた時は随分と遠回りしたものだ。


 オンフルール行きのバスはすぐに高速道路の様なところに入り、やがてノルマンディー橋にかかった。なんだか、リスボンのヴァスコ・ダ・ガマ橋に似ている。橋を渡るころから再び雨が降り出した。

 オンフルールに着いた時も雨が激しく降っていた。すぐにツーリスト・インフォメーションが目に付いたが昼休みで閉まっていた。そのまん前にホテルの看板があったので聞いてみることにした。レストランがホテルも経営していて、その二階が部屋になっていた。ブルーに塗られたコロンバージュの建物で部屋も悪くはなかったのですぐに決めた。

20.オンフルールで泊ったホテル

 女将さんにブーダン美術館の場所を尋ねたら、「今、インフォメーションが開いた時間だから、先ず地図を貰ってきたら?地図を貰ってきてから教えてあげるから…。」と言ったが、なるほどと思った。
 インフォメーションで地図を貰うのならそこで道順を聞いたほうが早い話だが、「インフォメーションで聞け」とは言わない。
 てきぱきと要領を得て相手に不快感を与えず「なるほど」と感心した話だ。さすが、一級の観光地でホテル・レストランを経営しているだけの裁量を感じた。

 ブーダン美術館 [Musee Eugene Boudin Honfleur] に着いた時は、昼休みがちょうど終わった時間で3分待ちで入場することができた。

 

21.オンフルール・ブーダン美術館入口

 ここではブーダンの代表的な作品は少なく、まだスタイルが確立されていないのや、勉強時代の模写などがたくさん飾られていた。シャルダンの「赤エイ」の模写もあった。写真を撮りたかったが残念ながら、ここでは撮影禁止であった。


 ブーダン美術館を出た階段道のところに「サティの家はこちら」の看板があったので、その看板に従って階段道を降りた。

 

22.サティの家

 サティの家 [Maisons Satie] はまるでテーマパークか現代美術館の様に趣向を凝らした部屋部屋が作られていて大人も子供も楽しめる様になっていた。屋根裏部屋では白いピアノがサティの曲を自動演奏していた。

 

23.サティの屋根裏部屋の自動ピアノ


 もったいないことに入場者は終始、僕たち2人きりであった。

 

24.オンフルール

 夕食にはまだ時間があったので、オンフルールの港に面したテラスでシードルを飲んだ。

 

25.オンフルールのシードル屋

 その前に広がる風景は、皆がよく絵にするところだ。
 夕食はホテルの階下のレストランで生牡蠣付きの定食を注文した。シードルを1本空けたが飲み足りなかったのでワインも追加した。少々酔っ払っても部屋はすぐ上である。
 気持が良かったので、夜のオンフルールを散歩した。夜景も水面に映して美しい町である。

 

26.オンフルールの夜景


 1972年、最初にこの街を訪れた時、クルマが故障してそれどころではなかったのも、今になってみれば懐かしい思い出だ。

 

2005/10/22(土)曇り一時雨/Honfleur-Caen


 ブーダンやモネも描いているオンフルールのサント・カトリーヌ教会広場に今日は土曜日なので朝市が出る。朝食前に一度出かけたがまだ準備中の露店が多かった。野菜、果物、花、牡蠣、海産物、チーズ、ソーセージ、シードルもある。クスクスやパエリアの大鍋を準備中の店もあった。
 「今日の昼はパエリアにしても良いな。」と思っていた。かつて、アルルの露天市でもパエリアを買ってTGVに持ち込み、パリまで帰る車内で食べたことがある。その時は満席で、パエリアの強烈な良い匂いが車内に漂うのに少々気が引けたものだ。今回はバスであるから尚更である。

 ホテルに戻って朝食を済ませ丘の上のノートルダム・ド・グラス礼拝堂まで散歩した。昨日のル・アーブルが鳥瞰できる。

 

27.聖カトリーヌ教会前に出た朝市

 再び朝市に寄った。聖カトリーヌ教会鐘楼の入口が開いていたので入場料を払って見学をした。
 フランスには珍しく木造の教会だ。これと良く似たのをノルウェーのベルゲンで見た。ヨーロッパ最古の木造教会とのことであったと思う。でも教会とはいえ、これもコロンバージュには違いない。

 随分人出も多く、店もすっかり揃っていた。山盛りにしてあった牡蠣もだいぶ少なくなっている。
パエリアの露店でも鍋の半分程は既に売れていた。やはりパエリアを買ってしまった。

 

28.パエリア屋さん

 

29.パエリア一人前


 ホテルを出、バス停に早めに行き、港に面したベンチで早速パエリアを広げた。
 バスの中でよりここの方が気持が良い。バスが来る前に半分を平らげてしまった。

 カーンでは国鉄駅を中継して街の中心地までバスは入って行った。
 バスを降りたところに数軒のホテルの看板が見える。
 バス停のすぐ前のホテルで値段を聞いたが部屋を見るとあまりしっくりこないので、その筋向いのホテルも聞いてみた。そしてそこに決めた。
 窓が大きく広場に面して、しかもこの街の観光スポット、女子修道院の尖塔が見える。
 部屋でパエリアの続きを食べて、早速美術館に急いだ。

 お城の敷地内にモダンな建物があり、そこがカーン美術館 [Musee des Beaux-Arts Caen] だ。

 

30.カーン美術館入口

 ここでも古いイコンから現代美術までひととおり揃っている。
 驚いたことにペーテル・ブリューゲルとロヒール・ファン・デル・ウェイデンの素晴らしい作品があった。

 

31.ブリューゲル

 横にいた係りの人に写真を撮っても良いか?と尋ねたら、OKであった。
 少し暗かったのと緊張したのとで、後で見ると手ブレがしていて惜しいことをした。
 その他にもルーベンスやジェリコーそれにポルトガル人抽象画家・マリア・ヴィエイラ・ダ・シルヴァの作品もあった。
 この画家の作品はフランスのあちこちの美術館でよく見かける。
 ピカソなどと親交のあったその時代の画家だ。
 美術館を出ると少し雨が降っていた。

 雨宿りのつもりで美術館の前にあった、ノルマンディー歴史博物館 [Musee de Normandie] にも入った。以前に観たブルターニュ博物館とも微妙に違う。
 また展示方法にもそれぞれ工夫が凝らされていてそんな違いを観るのも楽しい。
 歴史博物館を出ると雨はますます強く降っていた。
 ツーリスト・インフォメーションで市街地図と、バイユー行き列車の時刻表を貰う。

 その頃には雨も上ったので、女子修道院まで散歩した。

 

32.女子修道院のトリニテ教会

 ミサでもあるのだろうか?老人たちがトリニテ教会の中に吸い込まれる様に次から次に入ってゆく。僕たちは入るのを遠慮した。

 来た時とは別の一段高いところを走っているお屋敷街の道を歩いて行くことにした。
 若者2人がクルマを駐車して、大きなテレビをクルマから出した。どこかのお屋敷に運び入れるのだろうと思っていたら、休憩しながらどんどん下へ下へ運んで行って、やがて繁華街まで出てしまった。余程重いらしく息を切らして赤い顔をしている。2人とも背は高いがひょろっとして力はなさそうな青年であった。テレビを修理に出すのかも知れないが、それなら修理屋のまん前で一旦テレビを下ろしてからどこかに駐車すれば良いのに、と思って見ていた。

 中心地まで出てしまったので今度は町の反体側にある男子修道院にも行ってみた。

 

33.男子修道院

 ホテルに戻ると「前の駐車場にクルマは停めていませんか?」と聞く。「いいや」と応えたが、「明日は日曜日で大規模な露天市がこの場所で開かれます」とのことであった。
 夜のうちから、露店準備のクルマが集まり始めていた。VIT

ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて(下) へつづく。

 

(この文は2005年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

武本比登志のエッセイもくじへ

 

 

 僕が最初に高田渡に会ったのは、西岡たかしさんの鶴橋の自宅だったのかも知れない。
 その時はすぐに自宅を出発して、一緒に環状線に乗ったのだろうと思う。
 僕には環状線の中で、西岡さんと3人で電車に揺られていたイメージが強い。
 一緒に北区兎我野町の事務所に行ったのかも知れないが、そのことは僕は覚えていない。
 僕が事務所に入っていた時か、まだ入っていなかった時かも定かではない。

 僕はまだ19歳の時で、高田渡はまだ17歳にしかならなかった時だ。
 もう既に「自衛隊に入ろう」は出来ていた様にも思う。

 僕はその前後して西岡たかしさんに誘われてアートディレクターとして事務所に入った。
 だからまだ19歳の大阪芸大に在学中だった。

 フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が大ヒットして、事務所は活気づいていた。
 そしてフォークブームに火が付いたのだ。

 事務所では全国からフォークソングの会員を募って、会員配付のレコードと機関誌「フォークリポート」を発刊しようとしていた。
 その第一号が出かかった時、その発案者の1人が西岡たかしさんとの意見の相違からか、東京でもっといい仕事が舞い込んだためか、突然東京に出てやめてしまった。
 その両方だろうと思うが…。
 それで僕に白羽の矢が立ったのだ。

 最初は「大学に通う片手間に雑誌のレイアウトを手伝ってくれるだけで良い。」
 デザイナーもやっていた西岡さんが「教えるからその通りやればできるから」との話だった。

 フォークソングは全国組織の労音にすんなり受け入れられて、事務所所属の歌い手たちは忙しく、ミュージシャンもどんどん増えていった。

 その当時の歌い手は「高石友也」「シューベルツ」「岡林信康」「五つの赤い風船」「ジャックス」「中川五郎」「遠藤賢司」「六文餞」そして「高田渡」などがいた。
 まだ居たと思うが、プロとアマチュアの境もなかったから、どこまでの名前を挙げて良いかもわからない。
 中川五郎などはまだ高校生だったし、グループの場合解散したり、別に組み合わさったりと流動的だった。
 西岡たかしは「五つの赤い風船」のリーダーだった。
 そんな中でも高田渡は忙しい方の歌い手だったと思う。

 最盛期には年間のコンサートは200回近くもあったのかも知れない。
 ソロ歌手とグループなどで組み合わされて全国の労音を回るのである。
 「高田渡」と「五つの赤い風船」といった組み合わせなどもあったと記憶している。

 忙しくなったのと同時に労音が解体同然になっていた。
 西岡さんはコンサートが忙しく雑誌の編集どころではない。
 労音の制作スタッフだった村元武さん(現『ビレッジ・プレス社』代表『ぷがじゃ』『雲遊天下』『ぐるり』など話題の雑誌創刊者)が、雑誌の編集長として入社してきて僕はほっとした。

 そしていろいろと教えてくれた。

 労音主催でなくとも、事務所主催というコンサートもあった。
 僕はアートディレクターだから雑誌のレイアウト以外にも、そんなコンサートポスターやチラシをせっせとデザインするのである。

 高田渡は時々事務所にも顔を見せていた。
 当時彼は写真が趣味であった。
 僕はデザイン用の写真と一緒に彼のフィルムを現像に出しておいてやったことも何度かある。

 彼は朴訥としていても案外とお喋りで仕事中の僕によく喋りかけていた。
 歌やコンサートの話はあまり聞いた記憶はないが、たいてい写真か絵の話だった様な気がする。

 僕はレコードジャケットのレイアウトなどもしていた。
 カヴァーの絵は当時売れっ子のイラストレーターなどに依頼するのだが、文字のレイアウトなどは僕が担当する場合が多かった。
 高田渡の LP<汽車が田舎を通るその時>は高田渡のお兄さんが絵を描いた。
 そのレイアウトは高田渡から直接頼まれたのだと思う。
 彼がずっと後になってからそう言っていたからそうなのだろう。
 とにかく僕は流れ作業で次から次にそんなことをやっていた。

 彼は東京を引き払って京都に住み始めた。
 一度何人かで彼の部屋を訪れたことがある。
 中川砂人か岩井宏、又は加川良が一緒だったのかも知れない。

 その全員だった様な気もするし、もっと居た様にも思う。
 彼は歌にあるように昆布茶を出してくれた。
 京都の喫茶店「イノダ」に彼が連れて行ってくれたこともある。
 「ここの歌を作ったのだよ。」と嬉しそうに話していた。
 僕は、高田渡とアルコールを飲んだ記憶はない。
 もっとも二人ともまだ20歳前だったから当然だが…。

 僕は日曜日に定休日の飲食店を借り受けて、その日曜日のみをフォーククラブに開放する手伝いをしていたことがある。
 <うわばみちゃん>という名前で金延幸子さんともう1人男性(名前を忘れた)が主宰者だった。
 中川砂人と瀬尾一三がやっていた<グループ愚>と浅井彰の<やまたのおろち>というデュオグループが主となって、その時、手の空いているミュージシャンが遊びにくるのである。
 <グループ愚>のリード・ヴォーカルは金延幸子さんであった。
 遠藤賢司や高田渡は時々顔を見せていた。
 客はいつも殆ど居なくて他のミュージシャンもまだ誰も来ていなかった時、高田渡は僕とMUZを前にして「新しい歌を作ったのだけど、聞いてくれる」などといってよく歌ってくれたのを思い出す。

 <広島フォーク村>の村長さんという人も一度訪ねてくれた。
 広島フォーク村では当時、英語のフォークソングを歌っているという話だった。
 <うわばみちゃん>では皆が日本語で自分の言葉で歌っているのに衝撃を受けたと言っていた。
 その後、しばらくして広島フォーク村が LP を自費出版したのは知られることだが、その中には吉田拓郎などが日本語で自分の歌で参加していた。

 僕はその頃は既にスウェーデンに居た。

 加川良が事務所に制作スタッフとして入社した。
 岩井宏もバンジョーでは食えないからという事で制作スタッフとして事務所にいた。
 加川良は自分の歌を作り始めていた。
 そして<中津川フォークジャンボリー>でフラットマンドリン・高田渡、バンジョー・岩井宏を従えて衝撃的にデビューを果たした。

 事務所は大きくなりすぎてガタガタしはじめていた。
 僕はそんなフォークブームのさなか事務所を辞めてヨーロッパへと旅立った。

 僕はスウェーデンの自宅などで高田渡の歌を好んで歌っていた。
 高田渡はアメリカの歌を自分自身の言葉に置き換えて作詞したり、大正~昭和中期の<添田唖蝉坊>の歌詞を高田渡節に乗せ歌ったりしていた。
 なかでも『鉱夫の祈り』は僕の最も好きな歌であった。


朝もやの中に一つ こだまする汽笛の音
応えはいつも一つ いつもこだまは一つだけ

子供らは泣きじゃくる 腹を空かし泣きじゃくる
私にできるのはただ 泣き疲れ寝るのを待つだけ

お願いだ聞いておくれ 街に住むお偉い方
この子らが泣かないように 抗夫の祈りを聞いておくれ



 スウェーデンに住み始めて1年くらい経ったある日突然、高田渡が訪ねてきた。
 その頃、日本では日本語のブルースが少し流行っていた様だ。
 もちろん、マイナーには違いないが、その先頭が高田渡であった。
 高田渡は朝日新聞の連載記事を書いているとのことで、その取材で来たのだと言っていた様に思う。
 僕はストックホルムの下宿に在留日本人を何人か集めて「高田渡コンサート」を開いた。
 僕は覚えていなくて、高田渡が後に話していたことだが、僕はその時<押し寿司>を作って皆に振舞ったらしい。
 その頃僕は手作りの箱でよく<押し寿司>を作っていたのは事実だから、そうなのだろう。
 それは今でも変わらない。

 高田渡を伴ってストックホルムのライヴハウスにも行ったことがある。
 飛び入りで高田渡に歌ってもらった。
 歌詞も歌の合間の話も日本語で観客で理解出来る者は僕1人の筈であったが、絶大な拍手が起こった。
 隣に座っていたスウェーデン女性は「彼のブルースは素晴らしいわ」と言っていたのを覚えている。
 言葉は解らなくても音楽は通じ合うのだ。

 僕はスウェーデンに4年半過ごした後、ニューヨークで一年暮らし、南米を一年かけて旅をした。
 その後、日本に帰ってMUZの故郷宮崎に住んだ。
 僕は飲食店を経営することになった。
 しばらくして店を改造した。

 ジャズを流し、民芸陶器を仕入れて販売し、壁では展覧会をした。
 月に一度「ジャズマニア集中講座」と称して、近所に住むマニアの河野和明氏に講師をお願いしてレコードライヴを催したり、「やまあいVOICE」というミニコミ紙を作ったりして楽しんでいた。
 敷地は1500坪もあり、店舗も50坪と広いところであった。

 コンサートツアーの途中、加川良が訪ねて来てくれた。
 年に何度かは九州にも来ているということであった。
 しばらくして河野和明氏と組んで「加川良-村上律」のライヴを催した。
 ライヴをするにも充分な広さの店だったが、立ち席が出るほど満席になった。

 その前くらいから宮崎でライヴ企画などをしていた、河野好博氏も目をつけていたらしい。
 加川良のライヴをして満席になったものだから、これからも継続的にライヴが出来ると思ったのだろう。
 「次は高田渡ライヴをしないか?」と企画を持ちかけてきた。
 僕の中ではその頃、ポルトガルに移住する計画が具体化し始めていた。
 僕は条件も何も聞かないで、二つ返事で「やろう」と言ったものだから、河野好博氏はむしろ驚いていた。
 僕は宮崎を去る記念に「高田渡ライヴ」を催ってみたいと思ったのだ。

 その後、いろいろと聞いた話では、「高田渡は舞台で酔っ払ってしまってコンサートにならないよ」とか「寝てしまうこともある」「客に食ってかかったり」とか、あまりいい話は入って来ない。
 「でも催る価値はあるよ」とか賛否両論入り混じって耳に入ってくる。
 とにかく僕が知っている頃の高田渡とはかなり違っている様だ。

 以前はまだ20歳前だったから飲むことはなかった。
 でも久しぶりに会うのは楽しみである。スウェーデンで会って以来であるから、既に20年近くの時が流れていた。

 河野好博氏は本業のブティックを数軒経営するかたわら、趣味でライヴの企画をやっていた。
 大掛かりな野外コンサートや海外の一流ミュージシャンを招請したりもしていた。
 一方、無名のミュ-ジシャンを掘り起こすのにも心を砕いていた。
 有名、無名のミュージシャンを九州に招いて、そのコンサートツアーをプロデュ-スするのである。
 自分でも主催するが、一軒ではギャラとか交通費などの経費が賄えないから、何軒かのライヴハウスや市民団体などに話を持ってゆくのだ。
 そしてライヴ当日はその会場を連れ巡ることもする。

 企画の河野好博氏は前もって僕のことを高田渡に話していたらしいが、どこの誰だか判らなかったらしい。
 当日、ライヴの客がすっかり揃ってから高田渡が河野好博氏に連れられて店に入ってきた。
 既に少し飲んでいたようだ。
 加川良の時は前もって入念に P・A のサウンドチェックなどをしたが、高田渡はそれはまったくなしで、ぶっつけ本番である。
 舞台の方に行きかけて僕がいるカウンターの方に目をやって「エーッ」と言いながら近づいてきた。
 まさか僕が宮崎のこんなところで店をやっているとは想像もできなかったのだろう。
 もう既に開演時間だったから、久しぶりに会った挨拶もそこそこに演奏が始まった。
 演奏の合間に僕との思い出話を客席に向かってぽつりぽつりと話していた。
 僕にはストックホルムでのライヴが蘇っていた。

 河野好博氏の後談によると、僕の店でのライヴがその九州ツアーでは一番良かった。とのことであった。
 昔を知る僕の前ではあまり飲むことが出来なかったのか?あるいは酔う事が出来なかったのかも知れない。
 とにかくそれ程は酔ってはいなかった様に思う。

 次の日は店も定休日で高田渡も次のライヴまで時間は充分にあったから、一日ゆっくりと過ごした。その時に居た番犬・ミケーニャも嬉しそうにしていたのが印象的だった。
 高田渡は犬が余程好きな様だった。

 夕方になって次のライヴの場所、小林市まで1時間ばかりをクルマで送っていった。
 小林市の木造の古い公会堂がその日の舞台だった。
 宿泊先の温泉旅館に案内して、その日の主催者の市民団体の人に引き継いだ。
 主催者の人は高田渡が酒が好きだと聞かされていたのだろう。
 特別強いという珍しい酒を御土産に用意して待っていてくれた。
 その強い酒をコップになみなみと注いで、皆が静止する間もなく一気に飲み干してしまった。

 その時以来高田渡には会っていない。

 その夜のコンサートはさんざんなものだった。と後に河野好博氏は言っていた。
 河野好博氏は「高田渡は飲むのをいいかげんにしないと永くはないよ」と心配していた。
 誰もがそう思っていた様だ。
 それから数年後、河野好博氏の方が早くに亡くなってしまった。

 僕よりも高田渡よりも若いまだ40代であったと思う。
 そんな若さだとは思えない包容力のある大人物であった。

 「普段病気がちの人は芯は案外頑丈に出来ていて、高田渡も意外と長生きするかもね。」などと僕たちは囁いていた。

 数年前、二人とも絵本作家でイラストレーターの市居ミカさんと宮本一さんが新婚旅行でセトゥーバルを訪ねてくれた。
 一緒に露天市などに行ったのだが、露店のCD屋で「ファドを一枚買いたいのだがお勧めは」と宮本さんに聞かれた。
 僕はすかさず「アルフレッド・マルセネイロ」を勧めた。
 「どんな感じですか?」と訪ねられたので、「高田渡の様な感じかな~」と答えたのだ。
 何と宮本一さんは偶然にもポルトガルの旅行中に聴くために、高田渡のCDを一枚だけ持って来ていたのだ。
 勿論、僕が高田渡とは古い友人で面識があるとも知らない。
 そのCDは「獏-高田渡・詩人-山之口獏を歌う」というものだった。
 宮本一さんはそのCDをセトゥーバルの我が家に残して行ってくれた。
 山之口獏の詩に高田渡が曲を付けたのに高田渡と仲間たちが歌っているものだ。

 その頃、「雲遊天下-No.15」(ビレッジ・プレス社・1998年2月1日発行)に高田渡は「そうそう酔ってもいられない」というタイトルで文章を書いている。
 以下その最後の部分を転載したいと思う。

 ……このところぼくはお酒を抜いたりして、ずっとやっていてちょっと元気になってきたんじゃないですか。

 そういえば最近、「何か、まだやってなかったことがいっぱいあったなあ」って気がする。
 こういうことがいろいろあって、そうそう酔ってもいられないなあって。
 少しは飲むけど、あんまり飲まないですよね、もう。
 最近は頭が冴えてきているし、やらないといけないことはいっぱいあるし、どれから手を着けようかと思うね。今のうちにね。
 線香花火の最後だからね。
 燃え落ちる前に何かしておかないといけないよ。
……

 高田渡は僕たちが住み始める以前にはポルトガルにも来たことがあって、ファドにも興味を持っていたらしい。
 ポルトガルギターの湯浅隆が高田渡と楽屋で出会ったことがあると言っていた。
 高田渡は湯浅隆に「ポルトガルギターを聞かせてくれ」とせがんだとの話である。

 またそのうちひょっこりセトゥーバルに現われるかもしれないな。などと思っていた矢先「高田渡死去」のニュースが飛び込んできた。
 この春、日本に帰国準備で慌しくしていた帰国の2日前であった。

 2005年4月16日没、56歳の生涯であった。

VIT

 

(この文は2005年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

武本比登志のエッセイもくじへ

 

 ポルトガルからスペインの国境を越えて30分も走るとメリダに着く。
 メリダはイベリア半島では最大規模のローマ遺跡が残っている町だ。

 

01.ローマ劇場[Teatro Romano]

 それにここの博物館が素晴らしい。
 ローマ遺跡から発掘された彫刻、モザイク、フレスコ画、陶器、ガラス器、コイン、アクセサリーなど、展示物の豊富さもさることながら、演出にセンスを感じる。
 建物本体はモダンな造りだが、決してそのローマ遺跡の環境を壊さないでとてもマッチしむしろ展示物を充分に生かしている。

 

02.メリダ博物館内部[Museo de Arte Romano]

 以前に一度来たところだが、もう一度この博物館が観たくて、カセレス、サラマンカへの旅の途中立ち寄ったのだ。

 ついこの間と思っていたら、記録をみると1994年となっているから11年も前になる。
 一度観たものでもまた新鮮な気分で観る事ができた。

 

03.ローマ皇帝の家族の大理石彫像/2世紀

 膨大な展示物は保存状態も良く、改めてローマ帝国の強大さが偲ばれる。
 大理石の彫像を観ていると、ついそこで出会った様な少年の像があったりして、2000年も前でも現代と変わらないのではと錯覚してしまう。
 でもその間には長大な時が流れ、歴史が作られたのだ。
 政治にしろ経済にしろ現代社会とは全く違う形態なのだろうが、果たしてそうなのであろうか?
 この彫像や建造物を見る限りではあまり文化程度は進んでいないのでは、歴史とは何なのか?などと考えてしまう。
 いや、人類全体の歴史からすればローマ時代などはほんの先の時代なのかも知れない。

 

04.大理石彫像頭部/2世紀(博物館の展示品)

 胸に名札をつけた監視人が観覧者の数と同じくらいいて、隅々に2~3人ずつたむろしてヒソヒソとお喋りに夢中だ。
 時たま観覧者がカメラのストロボなどを発光させると注意をするくらいの仕事をしている。
 スペインもポルトガルと同じく公務員天国なのだろう。
 博物館の開館時間は9:30~13:45、17:00~19:15となっている。つまり13時45分から17時までシエスタ(昼寝時間)を取る。たっぷりとシエスタを取った後だから元気が有り余っているのかも知れない。

 

05.円形劇場への通路[Anfiteatro Romano]

 博物館の地下は遺跡がそのままの姿で残されていて、フレスコ画やローマ柱などのある地下遺跡を見学できるようになっている。

 

06.美しいさまざまな色石で作られたモザイク模様(博物館の展示品)

 ローマ街道跡を渡りアーチ造りの地下道を通り抜けるとローマ劇場[Teatro Romano]、と円形劇場[Anfiteatro]に出る。
 ローマ劇場では最近になって時々演劇が催されている。現代の照明を駆使しての演劇だから素晴らしいものだろう。一度観てみたいものだ。
 最近は、エジプトのピラミッドの前でのオペラとか、奈良の東大寺でのロックコンサートとか、古いものとの組み合わせが流行っているようだ。
 円形劇場は古代には闘士とライオンなどの猛獣との戦いが行われたところだ。それを今に蘇らせるのは無理な話だが…。現代の闘牛はその名残だろうか?闘牛でも最近は動物虐待などと批判が出始めて久しい。

 

07.ローマ劇場背面[Teatro Romano]

 以前にここに来たのは1994年の1月5日。日本ではまだ正月気分の抜けない松の内だが、スペインでもクリスマス週間の最後の時期であった。

 寒い時で見学者は殆ど見かけなかったが、今回は9月の観光シーズン中だから、以前に比べると観光客が多い。

 真夏よりは過ごしやすいシーズンだが、街のデジタル温度計は37度を指していた。
 観光客はランニング1枚に水のペットボトルが手放せない。やはり大西洋に面したセトゥーバルなどに比べるとメリダは内陸部だから昼と夜の気温差が大きい。

 

08.ディアナの神殿[Templo de Diana]

 ブティックや商店、カフェなどが建ち並ぶ町の中心市街地にもディアナの神殿跡[Templo de Diana]や柱廊のあるローマ広場[Portico del Foro]、ローマの町門跡[Arco de Trajano]など見所が随所にあり、散歩をしていても楽しい町である。

 メリダの中心にあるスペイン広場には薄暗くなりかけた頃から夜遅くまで、家族連れや若者などがぞくぞくと集り、子供たちは自転車に乗ったり、ローラースケートをしたり、乳母車を押した若夫婦が赤ん坊を老人たちに紹介したり、カフェに座ってビールを飲みながらお喋りを楽しんだりといつまでも人々は絶えない。
 僕たちも町の中心に宿をとったので、町の人たちに混じって夜遅くまでテラスでビールを飲みながら人の往来を楽しんだ。

 

09.スペイン広場[Plaza de Espana]

 2日目は朝から地下遺跡がある古い教会に行く予定だが、開場が10時からなので、その前に水道橋に行く事にした。
 以前にはこれは見逃したところだ。ロ-マ劇場の反対側、ホテルから歩いて10分ほどの所にその水道橋はあった。

 

10.水道橋跡[Acueducto Los Milagros]

 そこは水道橋を中心とした大きな公園になっていて、朝の散歩を楽しんでいる人や、通勤で横切る人、それに芝刈りが行われていて、芝の匂いが気持ちよい。
 水道橋のてっぺんにはコウノトリの巣がいくつもあったが、コウノトリの姿はなく、メルローくらいの大きさの鳥が群れて一風変った声で鳴いていた。メルローとはまた違う鳥なのだろう。芝が刈られた後には十数羽の白鷺も朝食の最中であった。
 水道橋の真下まで行ってみると、やはりその巨大さに今さらながら圧倒されてしまう。
 ポルトガルにも水道橋はあちこちにあって今も使われているところもある。
 ただ水を引くために古代の人はよくこれだけの建造物を造ったものだと感心させられる。
 いや地上の見えているところだけではなく、地下の下水道設備など本当に良く出来ている。

 

11.地下遺跡のあるサンタ・エウラリア教会[Basilica Santa Eulalia]

 地下遺跡が見学できるサンタ・エウラリア教会の地上階ではミサが行われていて、その人々のお祈りが不気味に響き渡る薄暗い地下には、巨大な柱の基礎と墓地、そしてフレスコ画があり照明が当てられていた。
 長居は無用、早々にそれらを見学した後、再び繁華街を横断して、イスラムの城跡、アルカサバ[Alcazaba Arabe]にも行った。
 ここには大量のモザイクが無雑作に雨ざらし、陽ざらしに立てかけ積み重ねてあって、観光資源として実に勿体ないと以前にも思っていたのだが、11年経った今もそのままであった。

 

12.オリーヴの根元に立てかけ積み重ねられたローマモザイク

 庭園に植栽されているオリーヴの木に緑や紫に色づいた立派な実が鈴なりになっていた。そろそろセトゥーバルのメルカド(市場)にも、アゼイト・ノーヴォ(浅漬けオリーヴ)が出回る時期だ。

 

13.実ったオリーヴの木と発掘大理石柱

 アルカサバの城壁に登るとローマ橋が見える。
 ローマ橋の下を流れるグワヤキル川にはびっしりとホテイアオイが繁茂し薄紫の涼しげな花をいっぱいつけていた。

 

14.ローマ橋とグワヤキル川に繁茂した花咲くホテイアオイ

 昼間の温度計は37度を指していてもやはり9月下旬、夕方には秋を感じさせる爽やかな風が遺跡都市メリダにもそよいでいた。
VIT

 

15.豹狩りのモザイク(博物館の展示品)

 

16.戦士のモザイク(博物館の展示品)

(写真撮影・MUZVIT)

 

(この文は2005年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

武本比登志のエッセイもくじへ

 

 この場所に住み始めてもう随分と経ってしまった。

 「気に入っている」と言えば、今まで住んだ中で一番気に入っていると言っても過言ではないかも知れない。

 引っ越して来た当初は北側も南側も多くの松の木に囲まれていて、それ程は感じなかったのだが、その後、次々に松の木が切られ、お隣の庭から生えている大木が1本だけになってしまって、お陰で眼前に空が大きく広がった。

1.トロイア半島と大西洋。

 そしてこれほど空の広いところに住んだことがない。

 南のベランダに立って顔を真っ直ぐ正面を向くだけで視界の60%あるいはそれ以上が空だ。

 

そら

どこから どこまで そら なの

ちかくも とおくも そら なの

あおい あのそら ほんとに あるの

かおを さわった この てで

かぜを さわった この てで

わたしは そらを さわって みたい

 

(吉田定一詩集/現代児童文学詩人文庫2より)

 

 これは小学校の教科書にも載った吉田定一さんの詩である。

 吉田定一さんは現代日本の児童文学の第一人者だが、僕たちの絵画グループ『NACK』の人でもあり親しくさせてもらっている。

 

 日本語には空色という色がある。明るいブルーを指すのだろうか。

 実際には様々な空色があるのを感じる。

 

 宇宙飛行士が「地球は青かった」と言ったが、そんな空を反映して地球は青く美しい星なのだろうと想像する。

 

 そんな空に雲が現れる。

 日本には雲を歌った歌は多い。日本はヨーロッパなどに比べると水蒸気が多く湿度が高く、雲が出やすい。季節ごとに様々な雲が現れて詩人の創作意欲をそそるのだろう。

2.サド湾とトロイア半島そして右端にサン・フィリッペ城。

 

♪遠い世界に旅に出ようか それとも赤い風船に乗って 雲の上を歩いてみようか

 

 西岡たかしさんが作られた歌『遠い世界に』の最初の1行部分だ。恐らく昭和39年か40年頃に作られた歌だったと思う。

 その後『五つの赤い風船』で西岡たかしさんと藤原秀子さんの絶妙のハーモニーで当時のフォークブームに乗って良く歌われた歌で、その後に続く多くのフォークグループの目標になり影響を与えた。

 これも小学校の教科書にも載ったが、恐らくこの歌を作られた西岡たかしさん以外で聞いたのは僕が最初の人だと思う。僕は未だ18歳くらいの時で西岡たかしさんも20歳前後だった。

 僕は西岡さんのお宅にしょっちゅう遊びに行っていた。行くといつも歌を聞かせてくれた。ハンク・ウイリアムスやカーター・ファミリーなどの英語の歌だ。そして珍しいレコードも聴かせてくれた。当時としては本当に珍しかったインド音楽などもそうだ。

 僕は一人で聴くのは勿体ないと思い。時々は女子の友達を誘って行った。西岡さんは女の子にも判りやすい様にと思われたのかも知れない。すぐに日本語の歌を作られた。それが『遠い世界に』や『雨よいつまでも』だった。

 僕は西岡さんの影響は大きい。西岡さんには外国暮らしはないのだと思うが、僕が外国に行きたい、インドで暮らしたいと思ったのは西岡さんの影響、この歌の影響もあったようにも思う。そして僕は西岡たかしさんとは今も親交深くさせてもらっている。

 

 日本では万葉の時代から雲がよく謳われている。

 

夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ (清原深養父) 

秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ (左京大夫顕輔)

天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ (僧正遍昭)

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな (紫式部).

わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波 (法性寺入道前関白太政大臣)

3.西の要塞のシルエット。

 古代ギリシャ時代には雲は女神であった。

 古代のギリシャ神話のなかでソクラテスとストレプシアデースがこんな会話をしている。

 

 ソクラテス「空を眺めて今までにケンタウロスや、豹、狼、牡牛に似ておる雲を見たことがあるかね。」

 ストレプシアデース「確かに。それがどうしたというんだ。」

 ソクラテス「雲の女神はお好きな物に何なりと身を変えられるのだ。そこで、この毛むくじゃらの連中の一人、クセノパンテースの息子(放蕩息子)のような野蛮人に出会うと、そいつの気違い沙汰をからかってケンタウロスに身をやつされるのだ。」

 

 紀元前400年もの昔の古代ギリシャ人はユーモアにあふれた人たちだった。

 人類は何千年経ってもあまり変わってはいない様な気がする。

 

 ポルトガルの空は真っ青で雲一つないというイメージが強い。

 そんな空にも9月に入ると雲が現れ始める。

 それまでは全く雲のない夏が長く続き大地はからからに干からびてしまう。

 そうして例年なら9月の中旬から雨季が始まるが、今年は遅い。10月に入っても雨が降らない。予報では10月28日(日)にようやく雨の予報が出たと思ったら、夜中に少し降っただけで昼間上空は快晴。でも遠くの空には真っ白な雲。

 ぼちぼち雲が出始めたかと思うと、朝には、日の出の頃、東の空に恐竜の様な雲。

4.

 そして10月31日には、空も大西洋もサド湾もどんよりと鉛色。ようやく朝から一日中雨。

 

 僕は実はポルトガルに絵を描くためにやってきた。それも風景画を描くために。

 そして随分と描いたことになる。

 何しろ28年間、休みなく描きまくったのだから。

 そしてこの場所に来てからはしらずしらず無意識に空を多く描くようになってしまった様に思う。

 でも僕の風景画の理想は空を極力抑え、殆ど描かないのが僕のやり方だ。描いてもほんの1割。或いはそれ以下にしたいと思っている。そしていわゆる空色は使わない。それが好みなのだから仕方がない。

 風景画を最初に描いた画家はオランダのヤコブ・ヴァン・ライスダール(1628-1682)だと言われている。それまでの絵画は、例えばダ・ヴィンチの『モナリザ』の様に、人物(聖人)の後方にバックとして風景が描かれているだけであった。

 近代になってイギリスのターナーやフランスのバルビゾン派などは盛んに風景画を描くようになった。勿論、印象派などはなおさらである。

 トム・クルーズの映画で『バニラ・スカイ』というのがあった。キャメロン・ディアスとペネロペ・クルーズが共演しているが、映画の小道具にモネの絵画が出てくる。夕焼け空の絵でトム・クルーズの母はその絵を『バニラ・スカイ』と呼んでいた。

 風景画には空が重要な位置を占めていることは言うまでもない。そこには雲も含まれる。様々な雲があり、青空も覗き、夕焼け空もあるし、嵐の空もあるだろう。

2018-11-01の夕焼け空

 僕は今、そんな、様々な空の広がる風景の中で暮らしている。

 でも正反対の、空のない、雲のない、空間のない、巧く言葉では表現が出来ないが、お喋りなポルトガル人の息も付けない井戸端会議の様な、おもちゃ箱をひっくり返した様な、壊れてしまって手の施しようがなくなった古い機械の内部の様な、ポルトガルの古代も現代も一緒くたに出て来てしまった様な。そんな風景画を描きたいと思ってポルトガルにしがみ付いている。

 休みなく描き続けても今までに納得の出来る絵は殆ど描けてはいないのだが、運よく自分では納得が出来る絵が描けたとしても、或いは大多数の人には目を背けたくなる絵になってしまうのかも知れない。でもそれでも仕方がない。

 空や雲は絵で表現はしなくても見ているだけで僕には満足なのだ。VIT

5.これは朝日ではなく夕陽。

空の写真は何れも2018年10月28日にセトゥーバルの我が家のベランダから撮影したものです。夕焼け空は2018年11月1日。

 

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 ポルトガルの歩道にはたいていモザイク石畳が施されている。
 そしてそれは美しいと思う。
 石畳はヨーロッパの街を形成する上で欠かせない建造物なのかも知れない。
 2000年も前に造られたローマ街道遺跡にも石畳が残されている。
 現在のローマにもパリにもストックホルムのガムラスタンにもそれはある。
 いや最も現代的なフリーポートショッピングセンターにすら石畳が使われている。

 パリのセーヌ河畔などは少し大きな花崗岩が使われていて、子供はその石組みを利用してケンケン遊びをしながら親との散歩を楽しんでいる。
 ガムラスタンなどは10センチ角くらいの物がウロコ状に組まれていたりもする。

 ドイツをキャンピングマイクロバスで旅行中、石畳の広い広場を見つけてその夜の宿としたことがある。
 そう云ったのが普通のそんな旅をしていたのだ。
 ぐっすりと寝込んでいた夜中にガンガンとドアを叩く音で起こされた。
 「朝市の準備をしなければならないから、少し隅っこによけてくれ」と言う。
 その頃、あいにく我がマイクロバスのスタートモーターの調子が悪かった。
 エンジンが冷え切っていたので案の定エンジンはかからなかった。
 朝市準備人は人手をかき集めてマイクロバスを押して、石畳の広場をぐるぐる回り、エンジンをかける手伝いをしてくれたことがある。
 僕の寝ぼけた頭の芯に石畳のショックが響いた。

 ポルトガルはたいていが白い石灰岩で一つが6~7センチ角と小さい。
 それが繁華な所に行くと黒い石や茶色い石も混ざり、美しいモザイク模様に描かれたりする。
 アラビア的な唐草模様や魚やイルカ、あるいは船の絵が施されていたり、又は抽象模様や大きな波型のところもある。
 ここでも子供は波型に沿って走ったりスキップをしたりと、子供は何でも遊びの道具にしてしまうのだ。
 店の前などには店名やロゴマークのモザイクがあったりもする。

 

01.店の名前が書かれた歩道

 

02.両替屋

その石をもっと小さく1センチ角にまでするとローマ時代のモザイク同様になる。
白と黒で横断歩道のストライプが作られているところもある。
ペンキ不要なのである。

03.石畳の横断歩道

 

04.イルカ

 ポルトガルの歩道には盲人用点字ブロックはない。
 石畳自体が点字ブロックの役割をしている様に思う。
 だからたぶん必要はないのだ。

 女性のハイヒールなどは細いかかとが目地に挟まってしまいそうだが、ポルトガル女性はその上を上手に歩く。

 かつては車道は黒くて硬い花崗岩の石畳であったが、最近はその上から無残にもアスファルトが流されてしまっている。
 時たまいまだに石畳の車道も残されているが、石畳の上をクルマが走るとうるさくてしかたがないし、スピードも出せない。

 アレンテージョのヴィラ・ヴィソーザやボルバなどの大理石の産地に行くと、まっ白い大理石のかけらで歩道が敷きつめられていたりもする。
 大理石はその性質から四角く割ることはできないから、その歩道は時たま尖っていたりもする。

 セトゥーバルなどで使われる石は四角く割れる、あらかじめ小さく割った石灰岩を運んできて、その場でまた模様や目に合わせて金槌を使い、手の上でさらに割って形を作ってゆく。
 見ていると金槌で面白い様に割れる。
 熟練石畳工の手に拠るからなのだろう。
 それが一旦石畳が完成すれば少々乱暴に飛び跳ねても割れることはない。

 

05.石畳の上でくつろぐポルトガルの犬

 石畳はセメントで固めないから時には剥がれたりもする。
 下地と目地には砂が撒かれる。
 石が組まれ目地に砂が撒かれて縦型の<かけや>でドスンドスンと固められる。
 最近は大掛かりなところでは機械が使われる。

 雨水は目地から地下に沁みこんでゆく。
 人通りの少ない所には雑草が生える。
 けなげにも可愛い花が咲いていたりもする。

 水道やガスの工事の時はつるはしの先を当てて剥がして、工事が終わればまた元通りに戻す。
 そんな時は大掛かりに5~6人の石畳工が石畳を張っていく。
 石を運ぶ人、砂を撒く人、石を並べる人、突き固める人と分業をして、結構な広さのところでも見る間に仕上げてしまう。

 自然に剥がれることもある。
 1個剥がれるとそれは少しづつ広がり、やがてぽっかりと空地ができる。
 そんなところを補修するのは、たいてい老練石畳工の仕事だ。
 石畳補修7つ道具をリヤカーに乗せて一人での孤独な作業だ。
 リヤカーには石,砂、水の入ったジョロ、金槌、縦型のかけや、熊手、箒、スコップなどが積まれている。
 それに忘れてはならないのが弁当とワインである。
 結構キツイ仕事には違いないが、鼻歌などを唄いながらローマ時代から同じやりかたで補修され続けているようにも思う。VIT

 

06.金槌で砂をならし石を割る

 

07.そして石を並べてゆく

 

08.リヤカーには石畳7つ道具が

 

09.目地に砂を撒き、縦型かけやで突き固める

 

 

(この文は2005年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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 2ヶ月半の日本滞在を終えてポルトガルの我が家に戻って来ると、先ず玄関にある郵便受けの片付けをしなければならない。

 ぎっしりと紙が詰っているのだ。

 

 最近はインターネットをしているせいか、友人知人からの手紙は少ない。

 それに帰国していることは、そういった人には知れ渡っていて、その間に手紙をくれる人もいない。

 

 ぎっしり詰っている紙は、主に電気、水道、ガス、電話の使用量のお知らせ。自動車倶楽部の機関誌、ピッツアや旅行、スーパーの広告、それにセトゥーバルの無料の新聞などである。

 それが、これでもかというくらいにぎっしりと詰って固まりあっている。

 郵便受けから取り出すと、スーパーのレジ袋一杯にもなる。

 

 そんな中にしわくちゃに折れ曲がった「滞在延長許可受け取り」ハガキが混ざっていた。

 この1月10日に申請していたものが、ようやく許可が下りたのだ。

 

 ポルトガルの滞在許可は面倒なものだ。

 

 日本人ならヨーロッパの国では3ヶ月間までは旅行者として滞在はできる。

 それ以上になると何らかのかたちで滞在許可を取らなくてはならない。

 

 僕はかつてはスウェーデンやアメリカでも滞在許可を貰っていた。

 スウェーデンでは学校に行って、学生として滞在許可を延長していた。

 初めは3ヶ月ごとの延長がやがて6ヶ月になり、1年になりといった具合でその都度、警察本部のその窓口に行き面接をするわけである。

 学校に通っていたから滞在理由もはっきりしていたので、大して面倒なものでもなかった。

 

 アメリカではアルバイト先の雇い主が保証人になって弁護士の事務所に連れて行ってくれた。

 その同じビルの中に健康診断の診療所もあり、一つのビルの中で全て事が足りた。

 それ相応のお金を払えばやがて1年分の労働許可(H2)が貰えた。

 それで4年までは延長可能とのことであった。

 合理的で、さすがアメリカはマネー次第の国だとも感じた。

 

 その点ポルトガルは面倒である。

 いや、以前に比べるとどこの国でも、複雑で面倒になってきているのかも知れない。

 

 住み始めて初めの頃はその「旅行者の3ヶ月」を利用して国外に旅行をしていた。

 旅好きの僕にはいやでも3ヶ月ごとに旅が出来る訳だから好都合であった。

 少しでも国境を超えて戻ってくるとそれからまた3ヶ月が始まるという考えだ。

 おかげでスペインのセビリアやパリなどにはたびたび出かけて楽しんでいた。

 

 でもいつまでもそういうわけにもいかなくなった。

 EUが一緒になって国境がなくなる、という話も出てきていた。

 スペインやフランスではもはや国外に出た事にはならなくなる。

 その都度、3ヶ月ごとにモロッコまで行くか、日本に帰るかというはなしになってくる。

 それで遅ればせながら滞在許可申請をしたのである。

 住み始めて4年くらいは経っていたかも知れない。

 

 もう既に住みはじめていたから申請はなおさら面倒であった。

 日本に帰国した折にわざわざ東京のポルトガル大使館まで出向いた。

 許可が下りるまでは1年近くもかかるらしい。

 その間、日本にずーっと居る事が出来るわけがない。

 セトゥーバルの留守宅はそのままで、描きかけの絵も放置したまま。

 最初の許可はポルトガル国内では貰えないとのことで、最寄の外国である、スペインのセビリアの領事館で貰う手続きをしておいて、許可が下りるやそこまで貰いに行った。

 

 それからはセトゥーバルの外国人登録事務所(SERVIÇO DE ESTRANGEIROS E FRONTEIRAS)で1年に1回、毎年の延長申請である。

 その都度、無犯罪証明書や銀行の残高証明書など必要書類を集めなくてはならないのである。

 

 (必要書類は「ポルトガルのえんとつ-滞在許可を延長しなくちゃ」のなかに詳しく掲載されています。)

 

 やがて、許可は2年間になり少しは楽になったかと思ったが、その2年に一度といえども大変さはむしろ増していた。

 セトゥーバルの外国人登録事務所にはアフリカからの黒人たちで溢れかえるようになって、座る椅子も少なく立ったままで、しかも狭い中で長時間待たされるのは大変な苦労である。

 申請書類を提出する時と、申請が下りて受け取る時の2回である。

 

 受け取る時にはある程度の料金を支払う。

 今回のハガキに書かれている料金はいやに高いな、と思っていた。

 日本人はお金持ちだから、取れるところから取ってしまおう。

 との考えでぼられているのではないのだろうか?

 「ここは一つ文句を言ってやろうか?」とMUZは怒っている。

 

 日本から戻ってきて2日後にその事務所に出かけた。

 朝一番は混むので以前なら空いていた昼すぎに出かけたが、やはり満員であった。

 番号札は30番以上も先だ。

 黒人たちは受付の人とのやりとりを喋りに喋りまくっている。

 受付の女性もけんか腰のやりとりだ。

 あれではお互いストレスがたまって大変だろうと思う。

 とにかく書類が揃っていないのだろう。

 僕たちも最初のころはああだった。

 

 待合室内は黒人たちでごったがえしていたのでベランダに出た。

 生ぬるいけれど風が吹いていて気持が良い。

 市の中心にあるサン・ジュリアン教会が間近に見える。

 そしてその前に広がる古い赤瓦が美しい。

 すぐにアフリカ、カーボ・ヴェルデからの子供もベランダに出てきた。と思えば出たり入ったりと落ち着かなく一時もじっとしていない。

 小学校高学年くらいの少し大きさの違うそっくりな兄弟が入れ替わりたち代わり。 子供にとっては窮屈で退屈でしかたのないことであろう。

 両親は待合室で他の人に聞きながら書類に書き込みをしている最中だ。

 書き込みに一段落が終わったのか、親父も出てきて、ひょいとベランダの手すりに腰をかけたのには驚いた。

 けっこう高い手すりだから、バランスを崩して一歩間違えば12メートル程もある下の石畳までまっさかさまだ。

 僕は見ているだけで足元がゾワゾワしてきた。

 なにしろこのベランダより低いところに鳩が卵を温めているのを覗き見えるくらいの高さなのだから。

 

 番号札を取ってから待つこと2時間半、ようやく自分の番がまわって来た。

 僕たちは既に手馴れたもので「お願いします」とだけ言って、あとは無言でそのしわくちゃになったハガキを差し出した。

 もうすっかり顔なじみになった受付の女性も笑顔と無言で僕たちの許可証を探し出すのみだ。

 許可証を探し出したら、受け取りにサインをして、指紋を取られる。

 そして料金を支払う。

 指にべっとりと付いた墨を、手渡されたウエットティッシュでぬぐいながら、許可証に書かれた期限をみると、これまでの2年ではなく、なんと5年間になっていた。

 料金は高いはずで5年分であったのだ。

 

 せっかくだから、少なくともあと5年はポルトガルに住まなくてはならないだろう。

VIT

 

(この文は2005年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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