「そろそろフランス旅行の計画をたてようかな。」と思いはじめていた頃に<パリのIKUOさん>からメールを頂いた。
 「毎年出品のためにパリに来ているのでしょう?一度パリで逢いませんか。」さらに「良かったらメイエ村まで来ませんか。」と言った内容。早速お言葉に甘えてメイエ村を中心にして旅の計画をたてることにした。

1.
 IKUOさんの名前は僕が高校生の頃から友達を通して耳にしていた。彼も僕も海外に出る以前の話だ。
 そして1972年に一度パリでちらっとお会いしている筈。
 1975年頃だったか、そのIKUOさんのことを高校生の頃から話していた友人が仕事でパリに来て僕の大学の先輩から僕の居場所を聞いたとのことで、突然、パリから僕の住んでいたストックホルムを訪ねてくれた。
 なぜその両者が知り合いなのか不思議だったが、接点はIKUOさんだった。
 それから実に30年以上の年月が経過している。

 最近になりインターネットのお陰でIKUOさんと直接連絡がつくようになった。
 今年と2年前の大阪髙島屋での僕の個展会場には彼が訪ねてくれた。
 IKUOさんはパリが本拠地だが、銀座にもお店があり、かなりの頻度で帰国されている。

2.
 彼は最初からパリにどっかと根を下ろし、かなり早く若い時期から「IKUO・PARIS」のブランドでジュエリー・デザイナーとして成功されている。
 その彼はフランスの田舎、メイエ村に17年前に広い農場を買い取られ、少しずつ改築してフランスでの田舎生活も楽しんでおられる。
 田舎でも仕事をし、その田舎暮らしからさらにジュエリーデザインのインスピレーションが広がるのだそうだ。

 その人柄、仕事ぶり、人生観に共鳴する人たちも多く、たくさんの友人たちがメイエ村を訪れる。

3.
 僕もホームページを通じてメイエ村のことは少しは見ていたけれど、今回、初めてお邪魔させて頂くことにした。

 ポルトガルからパリに着いてサロン・ドートンヌ用の絵をムッシュ・Mに預けて、それからメイエ村に行っても夜が遅くなってしまうので、先ずその日は1時間か2時間以内で行けるところまで行くことにした。
 2時間ならリヨンがそれにあたる。
 メイエ村よりは距離的には遠いがTGVならド・ゴール空港駅から直接乗ることができる。

4.
 リヨンからはメイエ村の最寄駅、ムーランにも列車が通じているし、今回の旅はそのコースに決めた。
 それに僕がフランスに行くことの大きな楽しみは美術館鑑賞である。パリではない、地方美術館にはそこにしかない絵が埋もれている。そういったものを少しずつでも観たい。
 リヨンは大都市だ、せっかくだからリヨンで3泊をすることにした。
 そのリヨンと「リヨン美術館」についてはいずれ別の機会に書きたいと思っている。

 3日後、リヨンから列車で3時間たらずでムーランに着いた。IKUOさんとロベールさんが駅まで出迎えてくれた。

5.
 例年ならこの時期、フランスの気温はポルトガルより10度低い。
 でも今年のポルトガルがいつもより暖かかったせいか、15度もの温度差だ。
 安かったこともあり、思わずリヨンの露店市で毛糸の帽子と手袋を買ってしまった。

 毛糸の帽子を目深に被り、手袋をはめて、深い霧のメイエ村を散策した。
 紅葉が実に美しい。
 佐伯祐三が描いた様な大屋根の農家が黄葉の中に点在している。
 僕は今のところポルトガル以外は描かないことに決めているが、メイエ村周辺には絵になるところが至るところにある。

6.
 ブナの深い森、サップグリン、クロムイエロ、イエロオーカ、ヴァミリオン、ライトレッド、クリムソンレーキと様々な色がしかもそれぞれの色の明度を一段深くした様な渋い色の重なり、樹木の響きあい、枯れ落ちた小枝や腐葉土を踏みしめる感触。
 オゾンをいっぱいに吸いながらの森林浴、セップ狩り。
 羊がこちらを見ているのに目が合う。遠くでシャロレーという真白い牛が豊かで鮮やかな緑の草を食む。
 樹々や大屋根が漆黒のシルエットをつくり、地平線に太陽が落ちてゆく。
 僕の好きなテオドール・ルソーやドービニーそれにコローやミレーの絵の世界に迷い込んだ様だ。
 さらにはユージーヌ・ブーダンやモネ。
 ポルトガルでは味わえない色合い、大気、質感、匂い、音が共鳴し、バルビゾン派そしてそれに続く印象派を感じさせずにはいられない。

7.
 この様な大気の中だからこそ近代絵画が生れたのかも知れない。などと思ってしまう。
 イタリア・ルネサンスの衰退がなければ、フォンテーヌ・ブローにもし流れが移っていなければ、歴史に<もし>はないけれど、美術の流れは今とは違うものになっていた筈だ。

 美術史に関する本を読み漁り、観たくなればいつでも美術館に足を運ぶ、そしてたまには絵を描く。
 こんな中で近代美術史を研究できれば楽しいだろうな、などとも夢想する。

 メイエ村のIKUOさん宅では、樫の木の大きな梁を見ながら、暖炉のマキのはぜる音を聞きながら会話を楽しみ、庭で出来たという胡桃をあてにアペリティフ。
 可愛いリスの訪問も受け、夢心地の3日間を楽しませて頂きました。

VIT

8.

 

9.サロン・ドートンヌのベルニサージュでピアノコンサート。後ろは僕の作品。

 

(この文は2007年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 日本では通りの名前と住所は必ずしも一致しないのでやっかいだ。
 タクシーに乗って住所を言っても行ってくれない。
 その点、欧米では通りの名前がそのまま住所になっているから、一目瞭然。
 例えば「ヴァスコ・ダ・ガマ通り15番地」という住所は一つの入り口しかない。

 「御堂筋」は北の大阪駅から南下してなんばの髙島屋が終点。
 それは誰でもが知っているが、御堂筋という住所は恐らくないのかもしれない。
 逆に「銀座通り」に面していなくても銀座何丁目何番地という住所は存在する。

 パリのラファイエット通り何番地という住所だと必ず、ラファイエット通りに面している。
 タクシーの運転手に「ラファイエット通りまで」と言っても、「ラファイエットのどちらまで?」とか「何番地まで?」とか必ず聞かれる。
 番地によって随分と道順が違ってくるから、聞くまでは発車できないのだ。

 ニューヨークのブロードウエーはマンハッタンを南北に貫いている長い通りだ。
 同じようにタクシーの運転手に「ブロードウエーまで」と言っても、運転手は困ってしまう。
 「ミュージカルを観たいから」と言えば「ああ何番地くらいのところ」とすぐにわかる。
 ブロードウエーもアップタウンまで行くとハーレムのあたりを越してしまい、とんでもないところまで貫いている。恐らくマンハッタンで一番長い道だ。

 ポルトガルも日本と違い他の欧米とほぼ同じやりかただ。
 番地は向かいどうしで偶数と奇数になっているから判りやすい。
 そして市の中心に近いほうから番地が始まる。

 道の名前には人の名前が良く使われている。
 その土地に功績を残した人の名であったり、歴史上有名な人物であったり、詩人、文学者、音楽家、画家、医者、政治家、軍人など様々だ。それに聖職者、聖人を忘れてはならない。

01.「サン・フランシスコ・ザビエル通り」の表示

02.「ヴァスコ・ダ・ガマ通り」

03.「ヴァスコ・ダ・ガマ通り」の表示板

 セトゥーバルにはヴァスコ・ダ・ガマ通りやサン・フランシスコ・ザビエル通りなどもあるが、知人のご主人の名前と同じ通り名があるので聞いてみると、そのご主人のお父さんの名前とのことであった。教育者としてセトゥーバルに功績を残した人らしい。
 その他に、モザンビーク通り、アンゴラ通り、ギネ・ビサウ通り、ブラジル通りなどかつての植民地などの名前もある。

 フランスのグレ・シュル・ロワンには日本の近代絵画に大きな功績を残した「黒田清輝通り」がある。しばらくはこの地に住み、この地で描いた作品が東京の国立近代美術館や国立博物館などに多く残されているし、教科書などでもお馴染みの絵ばかりだ。

 

04.「黒田清輝通り」の表示板

05.黒田清輝が住んでいたグレ・シュル・ロアンの家


 ポルトガルで面白いのは祭日が通り名になっていること。
 それも「革命記念日通り」とか「共和国制定通り」とかと言うのではなくて、「4月25日通り」とか「10月5日通り」という祭日の日にちが名前。
 他にも「8月1日通り」「3月28日通り」「12月1日通り」「5月1日通り」などいろいろとある。

06.「10月5日通り」の表示板

07.「5月1日通り」

08.「5月1日通り」の表示板


 普段、祭日とは関係のない生活をしている者にとって、うっかり祭日を忘れて買い物に出かけたりする。
 店が閉まっていて「ああそうか、今日はシンコ・デ・オウトブロ(10月5日)か~」などと気付く時もある。

 日本では土地名が替わることがあって、それについては賛否両論あるようだが、ポルトガルでも通り名は時代によって替わることもあるらしい。革命や政変によっても替わる。通り表示には小さく旧名も書かれている。

 先日、ジョゼ・モゥリーニョがイングランド・プレミア・サッカーチーム、チェルシーの監督を辞めた。チェルシーから莫大な違約金が支払われて話題にもなったし、次の動向も注目されている。世界で一級クラスとの誉れも高い監督であるが、セトゥーバルの出身である。
 我が家から少し下った下町あたりに生家があるらしい。
 たぶんサッカークラブのカフェをやっている家だろうと思う。
 その通りは「城に沿った道」という通り名になっているが、城には沿っていないように思う。
 或いは「城と並行に走る道」と訳せるだろうか?
 確かに城とは並行かも知れないが、城からは少し遠いし無理な命名ではなかろうか?それに城にちなんだ名前は他にも多くて紛らわしい。そしてスペルが長ったらしい。
 これはいずれ名前が替わる?替わると思う。「ジョゼ・モゥリーニョ通り」に。

 ロンドンではシャーロック・ホームズにゆかりの地名を訪ね歩くツアーがあるらしい。いかにも実在の人物であったかの様な…。事件現場を見て歩く。観光客も探偵気分になるのか、ロンドンらしく可笑しい。

 「ゴッホの手紙」に出てくる番地を訪ね歩くのは興味深い。殆どが恐らくそのままのかたちで残っていて、100年前にタイムスリップする。

 バルザック、ゾラ、カミュなどの小説にも実際にある通り名、番地が出てくる。小説を読みながら地図を調べたりする。パリではいつも泊るホテルの近所が小説の舞台になっていたりすることもある。地方の都市などは今度行ったら通ってみよう。などと思う。

 日本でも万葉集に出てくる地名がどこなのか研究の対象になっている。
 僕が生まれ育った今川はその時代「息長(おきなが)川」と言って万葉集などにも歌われている。

『鳰鳥(にほどり)の 息長川は絶えぬとも 君に語らむ 言(こと)尽きめやも』 (万葉集4458番)

『百済(くだら)野の 息長川の 都鳥 とぶべき人は 昔なりけり』 国香 (拾遣和歌集)

『まだ知らぬ旅寝に 息長川と契らせ給ふより ほかのことなし』 (源氏物語・第四帖夕顔の巻)

 その後、度重なる大和川の氾濫を防ぐため、現在の様に堺浦へまっすぐ流れを逃した。その結果、息長川は新大和川によって分断され、今はすっかり新しくなったと言う意味で「今川」と名前が替わったらしい。宝永元年(1704年)の付け替えである。これはあくまでも説で本当のところはもっと研究を進めなければならないらしい。(「田辺寄席」世話人会発行、「寄合酒」04.1.18発行より)

 僕たちが子供のころの今川はメタンガスがぶくぶくと噴出すどぶ川であった。今も下水用水路なのだろうが、現代の濾過技術で少しは水が澄んできているのだろう。大きな鯉が泳いでいて、コンクリートで固められた護岸の淵から、たくさんのホームレスの人たちが日がな一日、釣り糸を垂らしている。
 鳰鳥(にほどり=かいつぶり)が遊ぶ川に戻すには無理だろうし、息長川の名前を復活させるというのにも無理がある。いまや今川で歴史は流れている。

 昔のままという地名は大切にしたいが、新しく出来た地名もたくさんある。
 全国各地に「緑ヶ丘」というたぐいの地名がたくさんでき、「ああ山を切り開いて出来た新興住宅地だな」などとすぐわかるのが何か寂しい。
VIT

 

(この文は2007年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 国道10号線からセトゥーバルの街に入る分岐点に数年前、新しくバイパスとロータリーができた。
 そのバイパスとロータリーができたお陰で、我が家からも複雑に入り組んだ市内を通らずに、街の内外に行くことができるようになり、ずいぶん便利になった。
 例えば、大型スーパー<JUMBO>に行く場合、6箇所もの信号を通らなくても済む様になったのだ。

 バイパスは緩やかなカーヴの片側2車線で、ジャカランダの並木道となり、中央分離帯には色とりどりの夾竹桃が植えられている。そしてそれに沿って高い金網が設けられ人の横断を禁じている。人が飛び出してくる心配もないし、信号もないのでまるでカーレース場の様にクルマを飛ばす。でも時々は、ジャカランダの陰になったカーヴのところでパトカーが張っているので要注意だ。

 ロータリーの緑地には3本ばかりのオリーヴの老木とラベンダーがきれいに植栽されている。

 ポルトガルの田舎の町や村の出入り口には必ずといっていいほどロータリーがある。必然的にそこからはスピードを緩める。

 ロータリーは合理的で慣れればすこぶる便利だ。
 知らない街に到着しても、ロータリーを回りながら自分の行き先の標識を見つける。見逃したり、うっかり行き過ぎるともう一周すれば良い。間違えた道に入ってしまっても、次のロータリーまで行き、引き返して来ればよいだけ。無理やり狭い道でUターンする必要はないし、横道に入ってコの字型に戻ってこなくても良い。

 ロータリー内に居るクルマが優先だから、入ってしまえばゆっくり走る。
 ロータリーに入るときだけ一旦停止、左から来る他のクルマに気をつければ事故にもならない。

 クルマの数が多くなりすぎたリスボンなど都会には、ロータリーと信号機が複合している箇所があるが、それはそれで慣れると便利だ。

 パリの凱旋門・エトワールも実はロータリーの代表みたいなものなのだが、夕方ラッシュ時の凄まじさには驚いたことがある。ロータリー内優先、などとは言っておられない。とにかく割り込んで割り込んで、厚かましく行かないとエトワールを抜けられない。

 日本の町並みはどちらかというと碁盤の目状で、ヨーロッパの様に放射状にはなっていないから、元々あまりロータリーは少なかったのかも知れない。でも日本にもかつては各地にロータリーがあった。

 僕の生まれ育った街の近く、美章園街道の突き当たり、杭全(くまた)のロータリーもそのひとつだ。
 6差路か7差路の複雑な交差点で、クルマが多くなり始めた高度成長期よりもずっと以前に、ロータリーは取り払われ、それ以上に複雑な信号機が取り付けられた。
 交差点になってからもしばらくはお年寄りの間などで「杭全のロータリー」と呼ばれていて、ロータリーが杭全の代名詞にもなって親しまれていた場所だ。
 僕たち子供は「おっちゃん、ロータリーはもうないで~」などと言っていたのを覚えている。

 最近ドイツでは、信号機を一切取り払ってしまった街がある。
 何でも信号機がないほうが事故が少なくなるというデータがあるらしい。ある学者がそう提唱して実験的に街の信号機を全て取り払った。

 ポルトガルではもちろんクルマが信号無視をすると莫大な罰金が科せられる。
 でも歩行者はあまり信号を守らない。
 歩行者信号が赤のときは青のクルマが優先には違いないが、クルマが来ないときは赤でも渡る。お巡りさんが前に居ても渡る。それどころかお巡りさんも信号無視して一緒に渡る。これを最初に見たときはあっけにとられたが、とにかくクルマが来なければ信号はないのも同然なのだ。

 逆に青だからといって信号だけを見て走る、などということもしない。確実にクルマが来ないことを確認しながらゆっくり渡る。センターラインでいったん立ち止まって、クルマをやり過ごしてから、残り半分を渡る。

 日本では、横断歩道でクルマが停車してくれていて、歩行者信号が青の場合でも、クルマに遠慮して素早く走って渡ろうとする。日本の小学生などがそうだ。渡ってしまってからクルマに向って帽子を取り、ぺこっと頭を下げる。これは見ていて感じが良い。
 「走らんでもゆっくり渡りや~」と声をかけたくなる。
 走るのは危ない。見ていて危なつかしいと思う。これがまた事故のもとなのだ。クルマの陰からクルマが来る。バイクが来る。自転車が来る。

 とにかく信号を絶対視しない方が賢明なのかも知れない。もちろんクルマではなく歩行者の場合だが。

 クルマは、前に青信号があれば黄色にならない内に早く渡ってしまおうとスピードを上げる。これが重大事故の元なのだ。
 ポルトガルではその信号機に監視カメラが取り付けられ、スピード違反や信号無視に容赦なく罰金を取るシステムが導入された。

 最近、日本では信号機の老朽化により、折れて倒壊する事故が相次いでいるという。当面の危険箇所を取り替えるのに何十億もの予算がかかるらしい。そして老朽危険箇所は年々加わる。いっそドイツの様になくしてしまうことは出来ないのだろうか?

 エボラは城壁に囲まれた世界遺産の街だ。
 城壁の周りを石畳の双方向の環状道路が取り囲んでいる。その環状道路に数え切れないくらいのロータリーが付いている。これが便利で、エボラを経由してどこに行くにも道を間違えたことはない。

 その昔、モロッコにクルマで入った。テトワンという街だったと思う。ロータリー内で少年たちが遊んでいた。その少年たちに道を尋ねた。手招きしてついて来いと言う。ロータリーを走ってクルマを先導しようというのだ。ほぼ一周回って、僕たちが入ってきた隣の道まできて「ここをまっすぐだ」と言うではないか。それなら初めから「その道だ」と指をさせば済むことなのだが…。

 苦笑いして1デラハム(当時約7円)のチップを弾まざるを得なかった。VIT

 

(この文は2007年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 きょうは朝から爽やかな口笛が聞こえている。
 昨日までは電動削岩機の様な暑苦しい不快な音が鳴り響いていて、少々アトリエに入るのがうんざりしていた。
 隣のお屋敷が先日から職人を入れて大規模な庭の改修工事を始めたのだ。

 ポルトガルの家屋敷は時たま改修工事をするようだ。
 まだまだ古びてはいないのに床のタイルを張り替えたり、台所の戸棚の扉を取り替えたり。天井に模様を付けたり。まるで服や靴の新しいのを買うように。そして服に合ったアクセサリーを揃える様に…家屋敷の模様替えを楽しむ。そういった事を日曜大工で行なう人も多いのだが、お隣の庭には職人が入って大々的だ。

 昨日の内に古い敷石を取り除いて、きょうはすっかり赤土が丸見えになっている。昨日で電動工具が終わってきょうは手作業なのか、大きな音は聞こえない。コツコツと少しの音がするだけ。
 そして口笛が聞こえる。

 職人の一人が口笛を吹いているのだろう。伸びのある澄んだ音色で実に巧い。乗っていて、いかにも仕事がはかどっているようにも聞こえる。

 他の職人も聞き惚れているのかも知れない。話し声すら聞こえない。美しいメロディを奏でる。僕には判らないが、ポルトガルの古い曲なのかも知れない。まさか作曲している訳でもあるまい。

 職人の顔姿は見えないし、どんな作業をしているのかも見えない。年恰好も判らないが、この職人の口笛はメルローにも似ている。

 ウグイスが同じメロディを奏でるのとは違って、ポルトガルに住む野鳥のメルローはいつも様々なメロディを囀りまるで作曲をしている様だ。メルローの歌声は春から初夏の頃なのか、そう言えば最近は聞こえない。

 こんな人が仲間にいれば仕事ははかどるのだろう。

 昔から唄と人間の作業は一対だったのだろうと思う。
 農作業や漁業には必ず民謡という唄がある。ポルトガルにも各地にフォルクローレが残っていて、収穫祭などで踊りと共に披露される。

 フォルクローレが都会に出て詩や楽器が洗練され、ファドになったのではないかと僕は思っている。メロディなど共通点も多い。

 僕たちのマンションでは毎月幾らかの共益費を収めている。その中から共同部分の玄関や階段などの掃除を頼んでいて、週に1~2度おばさんがやってくる。

 以前に来ていたおばさんは掃除をしながらファドを唄う。箒のカサカサという音と階段ホールでエコーが効いて実に良い感じに、壁を伝って心地よくアトリエまで聞こえていた。
 僕がもし唄が上手ければここで鼻歌か口笛でコーラスでも入れたいところだが…

 僕は昔から口笛が下手だった。いや恐らく今も下手だ。最近は鳴らしてみたこともない。そしてどちらかと言うと音痴だ。

 子供の頃、人前で口笛を吹くのが恥ずかしかった。フィーフィーと風ばかりで一向に笛にならなかった。小学生の頃、友人に口笛だけでなく、指笛も鳴らすことが出来る奴がいて、僕は尊敬をしていた程だ。
 そう言えば彼はそのあたりのネコジャラシの葉っぱをちぎって草笛も上手く鳴らした。僕は少し練習もしたが、アレルギー体質でやりすぎると唇が腫れた。僕は恥ずかしく、何も鳴らすことが出来ないまま大人になった。

 高校美術部の同級生で絵筆を持つと必ず口笛を吹く奴がいた。曲は決まって何故か「同期の桜」だった。口笛がやがて唄になる。
 「きっさまっとおっれっと~~わっ、ど~きっのぉさぁ~くぅ~らぁ~」絵筆が滑らかに走る様に運んでいたのを僕は見ていた。他の同級生は眉をしかめていた。

 棟方志功の身体には津軽三味線の血が流れていると本人が言っていたのを覚えている。板に直接墨で描き、彫り進めて行く形はまさに津軽三味線のリズムだ。

 僕にもそんなリズムが流れていたらいいのになと思う時もあるが、河内音頭すら唄ったことがないし、歌詞も知らないくらいだから仕方がない。
 でも実際には音は出なくても、心の口笛でも吹きながら絵筆を握りキャンバスに向かうことが出来れば…。
 或いは今からでも口笛の練習をするのも悪くはないかも。
 他人に迷惑をかけない程度なら…。
VIT

 

(この文は2007年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 今年も髙島屋での巡回個展が終った。
 デパートには独特の空気が流れていて、慣れない僕には疲れる。
 お客さんのいない時などは、スタッフの人と話をしたり、額縁のチェックをしたりと結構楽しんでいるのだが…。
 又、多くの友人知人たちも訪ねてくれる。何年ぶり、何十年ぶりという再会もある。懐かしさと嬉しさでついつい話し込んでしまう。
 勿論、初めての出会いも多い…。貴重なひと時だ。お客さんには説明をしたりするが、煩がられてもいけないので気を使う。そして緊張もする。

 そんな中、昼食はほっと一息、楽しみの一つ。
 昼食の間にお客さんが来られてもいけないので、出来るだけ迅速に済ませる。外には行かないで館内の、それに空いている時間を見計らって…。

 たいてい画廊の1階上、食堂街にはいろんな店が並んでいてどの店に入ろうかと迷う。
 最近はデパート直営は少なく、有名なチェーン店がテナントとして入っている。
 画廊の1階上だけではなく、いろんな階にも専門の飲食店が…。寿司、蕎麦、うどん、トンカツ、天ぷら、中華、鰻、洋食そして和食。パスタ専門店やタイ料理さらにマクロビオテックまでがある。
 人気の店には早くから行列が出来上がっていて、「今日は蕎麦でも食べよう」と張り切っていても、急遽トンカツに変更を余儀なくされることもある。

 昔、子供の頃はデパートというと大食堂が楽しみであった。
 父はシュウマイにビールの大瓶、母はハムサラダランチ、兄はオムライス、妹はまだ小さくて何も取らない。デパートの大食堂には和・洋・中華、何でも揃っていた。僕はうどん。僕は子供の頃からうどんが大好物。我が家では何故か、だれも「お子様ランチ」は注文しなかった。

 デパートには何でもあるが、欲しいものがない。などと揶揄されてデパート側も「それではいけない」と思っているのだろう。いろいろと趣向を凝らしてお客獲得にしのぎを削る。そんなこともあってデパート事態随分と変貌を遂げている。
 電気器具売場が姿を消し家具売場は縮小、ブランド品や婦人服売場がやたら広がっている。
 近頃は「デパ地下」が話題に上る。珍しい食材が並ぶ。老舗が軒を連ねる。

 その波が食堂にまで及んでいる。
 大食堂が姿を消しているのだ。「デパートの大食堂には、何でもあるが食べたいものはなかった。」のだろうか?
 確かに時代は変っている。
 でも昔、父は「どこどこのデパート大食堂のシューマイは絶品だ。」などと言っていた。
 デパートの大食堂でしか食べる事が出来ないものなどはいまやないのだろうか。
 母が好んで食べていた、グラタンなども珍しくはなくなった。
 立派なロースハムもどこでも買える。
 横っちょに付いていた、太いアスパラガスも手軽に手に入る。
 それを慣れないナイフとフォークで頂く。スープを音をたてないで、ライスはフォークの背に乗せて。それがデパートの大食堂の楽しみだったのだ。

 街の飲食店も専門店化し、ファミリーレストランが林立。一方、一般家庭でも珍しい食材が容易に手に入るようになって、デパートでしか味わえない楽しみも半減、お茶の間で食べるのと何ら変らなくなってしまったのかも知れない。
 でも家庭ではあの黒の蝶ネクタイと天井の高さだけは手に入らない。

 高級な割烹やホテルのレストランなど行ける筈もなかった。
 料理自慢の母はデパートの大食堂で味を確かめていたのかも知れない。

 それが岡山髙島屋には未だに大食堂が存在するのだ。
 経営は難しいのかもしれない。内装も椅子テーブルも古びている。
 何でもあるから効率は悪そうだし、残念ながら絶品とは言い難い。苦労しているのが伺える。
 消える運命にあるのかも知れないが、貴重な存在。消えないで欲しいと望まずにはいられない。
 天井の高い明るい窓からは、岡山の山並みが見える。すぐ真下には岡山駅、そして街並み。寂しい一人での食事でも退屈はしない。

 デパートの大食堂には夢があるのだ。

 リスボンでは1987年頃だったかの大火事でデパートが全焼した。そのニュースは日本でも報じられた。
 その後、焼け跡は永年、痛々しく残されていたが、数年前ようやく再建され、立派な地区に生まれ変わった。フランスのデパート「プランタン」が入った。
 その後、ジョージ7世公園近くにもスペイン資本の「エル・コルテ・イングレス」というデパートも進出した。

 レストランもあるらしいが残念ながら入ったことはない。もしかするとかつての日本のデパートの様な大食堂があるかも知れない。こんどいつか探検してみるのも悪くない。

 そして2年後の髙島屋での巡回個展が、今から楽しみだ。
 いやその前に来年、四国松山の「いよてつ髙島屋」も…。楽しみが一つ増えた。
VIT

 

 

(この文は2007年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 今年の日本での個展は例年より遅い時期だ。
 帰国まで少し隙間ができたので旅をすることにした。
 ロンドンかマドリッドなど、どこか美術館にでも行ってみたいところだが、どこもここもテロが頻発しているし、治安も悪化していて、なかなか腰が上らない。

 ポルトガルの国境からも近い、スペインのグアダルーペにエル・グレコがあるというのでそれを観に行く事にした。ゴヤとスルバランそれにミケランジェロもあるらしい。グアダルーペならクルマで簡単に行ける。ポルトガルは良い季節、往き帰りで野草の花盛りも楽しめるだろう。

 ということで、3泊分の着替えを詰めて、我が家を朝9時に出発した。
 アライオロスのあたりでアンタ(古墳)の標識を見つけたので休憩代わりに寄っていくことにしたが、あいにく見つからなかった。でも田舎道の牧場脇には珍しい野草がいろいろ咲いていて、一つ一つ見ているとなかなか前へ進まない。
 ボルバでアレンテージョの煮込み料理のセルフサービスで簡単に昼食。
 花を見ている時間が長かったので、予定より1時間遅れで国境を通過。国境といっても [ESPAÑA] という看板が一つあるだけで何もないが…。

 スペインに入って早速ガソリンを満タンに…。ガソリンに関してはスペインはポルトガルよりかなり安い。
 バダホスでうっかり道を間違えて街中に入ってしまう。
 丁度シエスタ(昼寝)前のラッシュ時で、本来は外環の高速道路を通れば、もっと早くバダホスを抜けることができた筈だ。スペインのこのあたりの高速道路は無料だから出入りが自由で助かる。

 メリダも過ぎて、きょうの目的地トルヒーリョに到着したのが、まだ15時にはなっていなかった。ポルトガル時間なら14時。1時間の時差がある。
 宿を決めツーリスモで地図を貰う。

 
 部屋はマヨール広場に面していて、この街の象徴である、紋章のある建物が真正面にある。

1.部屋から見るマヨール広場

 屋根にはコウノトリが巣を架けている。ピサロの騎馬像も左手に見える。

2.フランシスコ・ピサロの騎馬像

 フランシスコ・ピサロ (1471/78-1541.6.26) は南米・ペルーを征服したスペインの英雄だ。
 宿の背後には重厚なムーアの城が聳えている。そのムーア人をレコンキスタ(国土奪還戦争)で追い払った勢いを駆って南米大陸に財宝を求めたのがフランシスコ・ピサロだ。その財宝によりトルヒーリョのマヨール広場には豪勢な邸宅が作られた。

3.モーロ城から望むマヨール広場

 僕たちが泊ったのも15世紀に建てられたラ・カデーナ邸という貴族の邸宅で遺産建造物に指定されている。内部は使い易く現代風にリメイクされていて、部屋は小さく区切られているのだろうと思うが、天井は高い。

 ピサロはスペインに富をもたらした英雄でも、南米のインカ文明を破壊し、キリスト教に改宗させた人物なので、僕の個人的な感情としては、同じモンゴロイドとしてあまり面白くはないし、それ程見たくはないのだが、一応、向学のため 『ピサロ博物館』 を観ることにした。ピサロの父、ゴンサーロ・ピサロの館だった建物で、その頃の生活の様子と2階には南米に趣く変遷と殺害されるまでが時代順に展示されている。

 当時のインカ帝国には既に高度な文明が営まれていた。
 彼らの言い伝えには不幸にも「天上から白い神が現れる」というものがあったのだ。白人であるスペインからの侵略者を神だと讃えたのだ。インカ帝国の人々にとってキリスト教への改宗はいとも簡単に行なわれたのは言うまでもない。フランシスコ・ピサロには運も味方したのだろう。南米大陸には豊富な金鉱脈と銀鉱山そして宝石の原石が眠っていた。その金、銀、宝石は本国のスペインへ、そしてフランスへヨーロッパ各国へと流れて行った。16~18世紀のヨーロッパの華麗な宮廷文化は南米の財宝によって花開いたのだ。
 モーロの城壁の上には何とも可愛いピンクの花がびっしりと咲いている。

4.城壁の上に咲く可憐な野草

 スペイン人の団体観光客が多い。殆どが女性だ。おばさんばかり、何をこの城壁の上、大声でお喋りをすることがあるのだろうか?ことのほか騒々しい。

5.野生のラベンダー(Rosmaninho)が花盛り

 マヨール広場でビールを飲む。セトゥーバルのボカージュ広場で飲む2倍程の値段だ。昼に食べたポルトガルの煮込み料理が案外腹持ちが良くお腹が空かないので、ホテルのバーでワインと3種類(ムール貝のサラダ、芋サラダ、アンチョビの酢漬け)のタパス(つまみ)だけで夕食にする。バーに続々と人が集まってきて、まるで集会所の様な騒ぎだ。ワインも1本空けたし、部屋に退散しようとしたら、その階段のところでプロのカメラマンが撮影をしていた。作家だろうか?そんな雰囲気の人が難しい顔をしてポーズをとらされていた。

 由緒のある建物を改装した宿で経済的な価格にも拘わらず、その夜の宿泊客は僕たち2人だけであった。部屋の窓の上にはラス・カデナス家のものだろう。石の紋章が施されている。



6.部屋の窓の上の紋章

 次の日は朝1番にサンタ・マリア・マヨール教会の祭壇画を見る。

7.サンタ・マリア・マヨール教会の祭壇画

 10時の筈の開場を待ったが、ようやく開いたのは10時15分。スペイン時間なのかも知れない。切符売りの女性が「この券で鐘楼まで登れます。」と言うのでついつい登ってしまったが、鳩の糞がいっぱいで、鳥インフルの心配をした程だ。お蔭で普段運動不足の足がガクガクになった。

8.サンタ・マリア・マヨール教会鐘楼から望むムーア城

 マヨール広場に面したサン・マルタン教会にも入った。トルヒーリョはどこもかしこも少しづつだが、入場料がいる。
 昨日はアマゾン川を探検したホアン・ピサロ・デ・オレリャナの屋敷を見学しようと出かけた。
 入口のところで2人の子供が手芸小物を売っている。初めはジプシーの子供かなと思っていた。その子供たちが「そこのベルを押せば中に入れますよ」と言うのでベルを押した。中から老修道女が出てきて「どうぞ中に入ってご覧下さい」と言う。ここでは入場料はいらない。でも見るものはパティオ(中庭)だけで他には何もない。
 今、この場所は学校として使われていて、2階では授業が行なわれている。老修道女はトルヒーリョのガイドブックを持ってきて「7ユーロですが、できたら買って下さい」と言う。別に欲しくはなかったが、入場料代わりに何となく買わされてしまった格好だ。入口の子供が売っている小物はアフリカの子供たち支援の手作り小物だ。ジプシーではなく敬虔なカトリック教徒の子供たちだったのだ。

9.サンタ・マリア・マヨール教会のステンドグラス

 狭い路地に駐車していた僕たちのクルマにコウノトリだろうか?大きな糞がべっとりとついている。
 いよいよ今日は山道を抜けてグアダルーペへ向かう。と覚悟していたら、案外真っ直ぐで立派な道であった。途中、野生のラベンダーが見事に群生していた。
 グアダルーペの少し手前の村でサンドイッチとノンアルコールビールで遅い昼食。そのサンドイッチがボリューム満点。

 グアダルーペでは修道院の中にあるグレコ、ゴヤ、スルバランそしてミケランジェロを観るのだ。
 その修道院の宿坊をホテルにしたという宿に泊まった。
 着いたのが2時半。3時半からガイドつきの見学が始まる。
 少し町を散策して、部屋に戻り休憩してから見学に臨んだ。

10.修道院宿坊入口の看板

11.修道院回廊中庭のムハデル・ゴシック様式の聖堂

12.修道院の宿坊


 部屋は広く昨夜よりも更に天井が高く豪華であったが、何となくアンバランスなところが可笑しい。壁に架かった額縁はどれも印刷物だが、それもアンバランスだ。でも1枚は何とシスレーの油彩複製画で、昨年訪れた、モレ・シュル・ロアンの風景だ。

 

13.額にはシスレーのモレ・シュル・ロアン

 

14.宿泊した修道院の部屋入口

 

15.修道院宿坊の部屋。グアダルーペのマリア像がベッドの上に


 3時半に入口に行くと大勢の見学者でごった返していた。

 入場券を買ってからも長いこと待たされた。やがてガイドが現れて入場したのが4時。
 羊皮紙に描かれた聖歌の楽譜。豪華絢爛な聖職者が纏う真珠や宝石をちりばめたマント。部屋部屋の天井には絵や模様が施され、壁や床も色とりどりの大理石で敷かれている。

 グレコは思っていたよりも意外と小さくて20号くらいだったろうか?一見してすぐにわかるいかにもグレコらしいキリスト図と、20号Mくらいの縦絵の聖人図が2点、これは珍しい絵で写真を撮りたかったが撮影禁止。せめて帰りに絵葉書でもと思ったのだがあいにく売り切れ。
 ゴヤは例の黒シリーズの6号くらいの小さな習作が1点だけ。ミケランジェロの作とされるキリスト磔刑の像も小さなものであったが、さすがミケランジェロならではの躍動感溢れた彫刻であった。スルバランは大作のシリーズで見事なものであったが、ガイド付きなのであまりゆっくりは観る事ができない。それに修道院内の教会の仰ぎ見るところに架けられていて少し光って観づらい。元々この宗教画はこの場所に設置されるために描かれたものであろうから、美術館で目の高さで観るよりもこれが本来の観かたなのかも知れない。

16.グアダルーペの下町には植木鉢がいっぱい

17.グアダルーペ修道院正面

18.サンタ・マリア・デ・グアダルーペ広場


 最後に背広姿のガイドは僧服の神父さんに交代して、お説教の様なものが始まった。そして神父の言葉に続いて皆でなにやら唱えるのだ。それも「待ってました!」と言わんばかりに…。
 このガイド付き見学に参加している5~60人のうち、我々も含めてドイツやイギリスなど、外国からの観光客も少しは居るが、大半はスペインの巡礼者だったのだ。観光と巡礼を兼ねてスペイン各地から訪れているのであろう。神父は厳かに扉を開けた。そしてスポットライトのスイッチを入れた。そこにはグアダルーペの聖母像が祀られていた。

 巡礼者は順番に聖母像のマントに付いた銀盆の様なものに接吻をするのだ。我々はその儀式は遠慮した。

19.宿坊中庭の壁にグアダルーペ聖母像を模したセラミック

 グアダルーペの聖母像は1300年の頃、一人の羊飼いがグアダルーペの川のほとりで木彫りの聖母像を見つけた。1340年、この聖母像に加護を祈願した直後にモーロ人を破ることができたアフォンソ11世はここに壮大な修道院を築いた。その後、この修道院は聖母マリア崇拝の中心地となり、コロンブスが新大陸からインディオたちをここに連れてきて、最初のキリスト教徒に改宗させたという。

20.修道院レストラン内部

 夕食は開店の9時まで待って修道院ホテルのレストランで定食を食べた。前菜、パン、ワイン、スープ、主菜、デザートとたっぷりだ。毎夜の9時からこんな夕食を取っていたら僕ならすぐに病気になってしまう。

21.Sopa Castellana(ニンニク、卵、パンのスープ)

22.Codorinices Estofada(ウズラの煮込み)

23.Conejo al Romero(ウサギの煮込み)

 修道院レストランの定食(この他にワイン1本とパン前菜(生チーズ)も付く)

24.Helado(アイスクリーム)

25.Flan(プリン)

 帰りもポルトガルの国境の手前でガソリンを満タンにする。
 国境を越える時、猛烈な雨がクルマに叩きつけた。
 ポルトガルでクルマを買って7年になるが、こんな激しい雨は初めてである。ワイパーが外れそうになって、2度、路肩にクルマを停車させた。この猛烈な雨のお蔭でフロントガラスに付いた虫の痕や屋根のコウノトリの糞が綺麗に落ち、まるで洗車機を通した様なピカピカのクルマになって帰ることができた。
 ポルトガルはスペインに比べるとガソリンもかなり高いし、高速道路も有料になる。高速から下りて、一般の田舎道に入った。やはりポルトガルに入ったというだけでなぜかほっとする。5分も走ると、道路は全く濡れていない。
 あの時の国境地点での集中豪雨。あれはいったい何だったのだろう?
 なくなってしまった国境地点を再確認させる雨の様でもあった。
VIT

 

 

(この文は2007年5月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 階下のラジオからファドが流れてきている。
 アマリアの「カモメ」だ。
 「カモメのように自由に空を飛べたら~。」といった内容なのだろうと思う。
 朗々として、なかなか哀愁をおびた好きな歌の一つだ。
 日本でもカモメを歌った唄は多い。


1.
 カモメは波止場など身近なところにいるし、又鳴き声に哀愁を感じて唄になりやすいのかもしれない。
 身近なところだけではなく、絶海の孤島などにも生息しているのだろう。種類も多いようだ。
 トウゾクカモメという恐ろしげな正式名をもつ種属もいるくらいで、意外とどう猛で、ペンギンやツノメドリの雛や卵を狙ったりする。
 波止場では群れになり残飯を漁ったりもしている姿は近寄り難く恐ろしくもある。貪欲な雑食だ。
 白いことが得しているのかも知れない。黒かったらカラスと変わらないのかもしれないが、カラスと違う点は人を襲ったりはしない。カラスよりは少し臆病なのだろう。近寄るとすぐに遠ざかる。


2.
 カモメが我が家のベランダの前を悠々と旋回している。
 何かを狙っているのかも知れないと思って見ていたら、隣の建物のおばさんが毎朝、鳩に投げ与えるパンくずのところに2羽が舞い降りて食べている。鳩はさすがに恐いのだろう。電線に止まって見守って降りては行かない。カモメが翼を広げるとかなり大きく、上下左右に自由自在に飛び回る。

  
3.4.
 我が家から波止場までは直線距離で1キロたらずだろうか?
 春から秋の間はここまで来ることはないが、毎年冬になればやってくる。海が荒れて餌が取れないのかも知れない。
 セトゥーバルでは鳩に餌をやる人は多いが、カモメに餌をやっている姿を見かけたことがない。
 いや、漁師が漁をする準備で仕掛けた餌の残飯を放り投げているのを、待ちかまえて食べたりはしているから、好むと好まざるに拘わらずカモメにも餌を与えているということになるのだろう。

 かつてストックホルムに住んでいた時には、パンくずを持ってよく波止場へ出かけた。パンを放り投げるとカモメは空中でキャッチするのだ。まことに巧いもので、殆ど海面に落ちることはなく、それが面白くて餌やりに時々出かけたものだ。

5.
 今、世界中で鳥インフルエンザが大きな話題になっている。広がる原因の一つに野鳥が揚げられている。渡り鳥には国境がなく、北から南に、南から北に移動する。まさにフリーダム(自由)の象徴だ。
 それが恐れられているのだ。
 鳥インフルエンザ・ウイルスが鳥から人へ、人から人へと変異すると大変なことになるらしい。
 何でも世界中で何百万もの人が犠牲になるとシュミレーションされている。我が家も非常事態に備えて、乾パンなど食料と普段食べる事のない、桃の缶詰めなどを備蓄した。この先、どうなるのか取り越し苦労に終れば良いのだが…。

6.
 かつて人類は鳥が自由に空を飛ぶのを見て、その翼を手に入れたいと願った。
 レオナルド・ダ・ヴィンチなども多くの設計図を残している。まだ自転車もない時代、その自転車や軍用車両などの設計をしているのだが、ヘリコプターのようなものまでも設計しているのには驚かされる。

 ヤマハが軍用に転用可能な無人ヘリコプターを不正に中国に輸出して問題になっている。

 自転車屋のライト兄弟が操縦可能なエンジン飛行機を開発して初めて空を飛ぶことに成功したのが、1903年12月というから僅か100年あまりの歴史だ。しかも初めは百数十フィートだけ空中を飛んだのに過ぎない。
 それから後の進歩は想像をはるかに超えためざましいものがある。
 戦争がそれに拍車をかけた。
 人類はいつの時代も残念ながら戦争によって飛躍的に進歩を遂げることになってしまっている。今、北朝鮮やイランが原子力開発をしているのに世界中が注目している。
 そんな中、原爆保有大国はウイルスやバクテリア、遺伝子など目に見えないものの研究に力を注いでいる。野鳥にばらまけば兵器にもなりうるのかも知れない。かつて軍用に伝書鳩を飼育したのとは訳が違う。

 音速をはるかに超える戦闘機や巨大なエア・バス、ジャンボなど、今、人類は確かに大空をも征服したのかもしれない。
 しかし自由に!とはまだ言い難い。
 小さなネジ1本で大惨事とも隣り合わせだ。
 それにまだ上下左右自由自在のカモメの翼とはすこしかけ離れている。

 もちろんカモメにはカモメの言い分があるだろうし、カモメの苦労もあるのだろう。
 人類はカモメの翼は手に入れないほうが地球の為には良いような気もする。
 でも鉄腕アトムのように自由に空を飛ぶ事が出来る様になるのももうすぐそこまで来ているのかも知れない。

VIT

7.写真は全てセトゥーバルのカモメ

 ポルトガルギターの湯浅隆さんから渡辺真知子さんと打ち上げか何かで一緒に飲んでいる写真と共に『渡辺真知子のかもめが翔んだ日』がネットで送られてきた。「カモメのつながりで…」というコメントが書かれて。最近レコーディングしなおしたものらしく、バックに湯浅氏のポルトガルギターがフューチャーされている。この曲に何とぴったりだ。唄の途中はスペイン語で歌われているのだが、これがポルトガル語ならもっと良かったのに…。しかしこのページをアップして僅か19分後に送られてきたのには驚きである。今や人類自らが飛ぶ必要はなくなったのかも知れない。代りに電波が飛んでくれる。湯浅さん有難う御座いました。

 

(この文は2007年4月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 我が家のベランダからフェリーの往き来が見える。
 セトゥーバルとトロイア半島を結ぶフェリーだ。
 24時間、少ない夜中の時間帯でも1時間に1本、多い時は15分おきにダイヤが組まれている。
 クルマが満杯になれば時間前でも次から次に出航する。
 それの往復だからひっきりなしだ。
 対岸までおおよそ3~4キロ、20分の船旅でクルマと大人2人で6,85ユーロ。
 1隻のフェリーにクルマ30台ほどを載せる。
 夏はそれにクルマなしの海水浴客がおおぜい乗り込む。
 単にトロイアの海水浴場に行くだけではなく、国道として機能しているのだ。

 トロイアから国道をまっすぐ南下すると、アルガルヴェ地方の最西南端サグレス岬まで繋がっている。
 1438年、エンリケ航海王子が、大航海時代の先駆けになった航海学校を開いたところだ。
 それを東に行くとラゴス、ポルティマオン、ファロ、タヴィラなど、古くからの都市を通って、やがてグアディアナ河で国境を越え、スペインのアヤモンテに入る。
 アヤモンテの先には、コロンブスがアメリカ大陸に到達(1492年)した時に船出したウエルバの港町がある。
 そしてそこからセビリアまですぐだ。

 トロイア行きのフェリーの甲板から、運が良ければイルカの群れが見える。
 我が家からフェリーの往き来は見えるが、イルカまでは見えない。

 先日、久しぶりにそのフェリーに乗った。
 クルマ10台程が乗り込んだだけでがら空きだ。
 やがてフェリーは出航する。別にドラなどは鳴らさない。
 何の合図もなく、いつ出港したのかも判らないくらい静かな船出だ。
 我が家からフェリーが見えるのだから、当然フェリーからも我が家が見える。
 知っているから判るけれど、町なみの中に溶け込んでいて目を凝らさないと確認できない。

 進むに従って我が家もセトゥーバルの町なみと一緒に遠ざかっていく。
 サンタ・マリア・デラ・グラサ教会やサン・ジュリアン教会の尖塔がある旧市街。さらに後方にはパルメラの城。
 丘にへばりついて町なみが上に伸びているフランシスコ地区とアヌンシアーダ教会。反対側には丘が迫っているベラ・ヴィスタの界隈。
 セトゥーバルがもっとも美しく見えるのは恐らくフェリーからの眺めだろう。そしてポルトガルらしい風景だ。
 さらに進むと、左手にはサン・フィリッペ城。白い風車小屋群。後方にアラビダ山。岬にはオウタォンの城。
 見えなくてもいいのがその手前にあるオウタォンのセメント工場。大きな貨物船がフェリーを遮る様に停泊している。ドックが空くのを待っているのだろう。

1.我が家からフェリーの行き来が見える。


 宮崎に住んでいた時は毎年フェリーに乗って大阪まで行きNACK展に欠かさず出品した。
 自宅から3時間クルマを走らせ日向のフェリー乗り場にようやく到着。
 込み合うフェリーでゆっくりも眠れず、早朝大阪南港に着岸。
 夕方からNACK展の搬入。1週間後の搬出は父に頼み、再びフェリーで宮崎に戻る。作品があるので飛行機は使えない。クルマに作品を載せフェリーで行く。飛行機よりもかえって高くついた。

 作品が小さい時、1度は750ccのバイクでも行った。自宅から大分の佐伯まで走り、四国高知の宿毛までフェリーで渡る。足摺岬、室戸岬とツーリングして徳島から大阪南港まで再びフェリーに乗った。
 そのフェリーにたどり着いた時には力尽き、メインスタンドを起こすことが出来ずにいたら、他のバイク野郎が見かねて助けてくれた。僕もまだ若かったが、今では元気な時でもナナハンのメインスタンドを起こす力はないであろう…。

 宮崎に住んでいた時には、フェリーで甑島へも渡った。まさに絶海の孤島という感じで自然豊かな美しい島である。
 種子島へも行きたくて調べてはみたのだが、フェリー代が案外と高くついたので断念、未だ果たせていない。
 長崎から有明海をフェリーで渡り天草の島巡りをし、古いキリスト教会などを訪ねたこともある。
 そんなこともポルトガル移住を決断した一因になったのかも知れない。
 そういえば櫻島湾フェリーも何度か利用した。
 九州はポルトガル人宣教師やフランシスコ・ザビエルなどと深くかかわりのある土地である。
 バスク人宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航したのは1549年。その12年前(1537年)ここセトゥーバルにも足跡を残していて、港の公園にその像が建っている。

2.セトゥーバル港公園のサン・フランシスコ・ザビエル像。

 僕はかつてストックホルムに住んでいた。
 スカンジナビアから南のヨーロッパに入るには必ずフェリーに乗る。
 スウェーデンのヘルシンボリィからデンマークのヘルシノアへ僅か1時間たらずの船旅だが、幾度となく乗った。
 デンマークのヘルシノアにはハムレットの城がある。
 更に少し走りロッドビィハムンからドイツのリューベックまで再びフェリーに乗る。そうするとハンブルグは目の先だ。お決まりのコースだった。

 スウェーデンの最南端イスタッドからポーランドのシチェチンへのフェリーにも乗った。
 確か1晩の船旅だったがいつも空いていた。
 僕たちが2度ポーランドを訪れたのはベルリンの壁、崩壊以前で、ワレサ議長率いる「連帯」が発祥した地がそのシチェチンであったと聞いたことがある。その後「連帯」の運動はグダ二スクなどへと広がっていった。
 その頃は、まるで19世紀の古き良きヨーロッパが残っている様に感じたポーランドであった。ブラック・マーケットでの両替は公定の5倍にもなった。遠い昔の記憶の様でもあり、つい先日のことの様にも感じる。

 ノルウェーを北上してノードカップを目ざしたこともある。
 オスロのムンク美術館で今観てきたばかりの不思議な風景。とろける様な太陽を見たのはこの時だ。そんな白夜の中を夢心地で走る。突然国道が途切れて湖が現れる。待っていると前からフェリーが姿を現す。美しすぎる風景の中をフェリーは進む。フィヨルドだ。そんなことを幾度か繰り返し、最北端ノードカップにたどり着くのだ。

 ジブラルタル海峡のアルへシラスからセウタまでフェリーに乗り、モロッコに入ったこともある。
 セウタはエンリケ航海王子が1415年、武力で制圧した土地だが、アフリカ大陸上にあるにも拘わらず、未だにスペインの領土として残されているのは何だか不思議な感じだ。

 気が付かなかったのだが、モロッコに入った時ちょうどグリーンカード(クルマの保険)が切れてしまったところで、それを指摘され1週間だけの割高な保険に加入させられた。
 それとは別に道路にチェーンを張りターバンを巻いたおじさんから通行税も取られたりもした。
 旨い完熟バナナが1本1円程で買えた。何でも5分の1に値切って買物をするのだ。
 市場で老婆が売っているニンジンを値切ろうとしてしまったこともあった。これは観光用ではないから値切ってはいけなかったのだ。だがそのニンジンには割り箸を齧るくらいに硬いスジがあったのもご愛敬だろう。
 実はもっとゆっくり旅を楽しみたかったのだが、保険の関係で1週間だけで断念したのだ。

 そんなこんな旅は体力的に恐らくもう出来ない。
 せめて目の前のトロイアのフェリーにたまには乗って、トロイア半島の付け根、コンポルタ村のコウノトリを見に行くのも悪くない。

VIT

3.フェリー発着場。

(この文は2007年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 ポルトガルに住み始めた一年目、1991年の元旦は個展の関係で日本でした。

 帰省客で混みあう年末、年始の宮崎空港ギャラリーに一年目のポルトガルの絵を並べて観ていただきました。

 その時を除いても今回ポルトガルで14回目のお正月を迎えたことになります。15年前には想像もできなかった歳月です。

 

 最初に海外に住んだのはストックホルムです。もう30数年前、1971年のことでした。1ドルが360円固定相場制で、外貨持ち出し制限もあった時代です。

 『ヨーロッパ経由でインドまで行ってしばらく住んでみる』と言うのが当初の計画でした。でもどういうわけかストックホルムに4年半も費やしたのです。

 その後結局インドには行かず、ニューヨークに一年暮らし、中南米を10ヶ月かけて旅をしたのは《おまけ》の様なものです。

 そのおまけは僕にとっては宝物になりました。

 

 その30年前当時からすれば考えもつかない時代の変化です。

 当時は日本の情報などは皆無と言っても良くときたまに回ってくる日本の新聞紙をむさぼり読んだものです。

 フランスにいる時には日本大使館に出かけ新聞を閲覧させてもらったりもしていました。

 ちょうど『浅間山荘事件』が紙面を埋め尽くしていた頃です。

 ストックホルムでは在住日本人のために『NHK紅白歌合戦』が回ってきます。会場を借り切って『紅白』を上映するのです。毎年楽しみに観に行きましたが4月頃です。

 

 ポルトガルに住み始めてからの日本の情報源はもっぱら短波ラジオでした。毎朝、アフリカ・ガボンを中継してNHKの電波が届くのです。行ったこともないガボンを身近に感じたものです。

 

 数年前から日本のテレビが衛星で写る様になって情報源は格段に進歩しました。なにしろ日本と同時にニュース番組を観ることが出来るのですから。時差の関係でお昼の1時に『ニュース10』で、夜10時から『おはよう日本7時台のスタート』です。

 

 そして今はインターネットもあります。

 いつでも好きな時にパソコンを開いて刻々と変わるニュースを読むことも出来るのです。

 

 2年前には自分でもホームページを立ち上げることになりました。昨年の1月には出身高校美術部OBのサイトも立ち上げました。それもまもなく1年になります。

 当初考えていたのとは少し方向が違ってきている様にも思えます。

 このところの『掲示板』では美術の歴史に関心は移っていて、それはいろんな発見があって勉強にもなりますし面白いものです。当初考えも及ばなかった嬉しい誤算で、サイトを立ち上げてほんとうに良かったと感じている今日この頃です。

 

 当初、思っていたのとは違う方向に行くのはサイトばかりではありません。

 ポルトガルに住んでいること自体もそうです。

 これほど長く住むなどとは当初考えもしなかったし、何の情報もなく偶然住みはじめたここセトゥーバルが大きすぎもせず、小さすぎもせず、身の丈にあった変身を遂げてゆくのが飽きさせないのかも知れません。

 まさに住めば都です。

 

 考えていたのとは違う方向に行ってしまうと言うのでは《絵》などはその典型です。

 スケッチをしながら『どんな油彩にしよう』と頭に描きながら鉛筆を動かします。でもいざキャンバスに向うと自分とは違うもう一人の自分があらぬ方向に導いてゆくのです。そして格闘が始まります。

 格闘が心地よい時もありますが、へとへとに疲れて何も出来ない時もあります。絵を描くことは格闘技です。

 実際、北向きの冷蔵庫の中の様なアトリエでも絵を描き始めると身体が温かくなり一枚ずつ服を脱いでゆくのですから不思議です。

 1人で描いているつもりが、実はもう1人くらい相手がいるのです。そうして気が付いてみると自然に絵ができていたりするわけです。

 

 今までの半生を振り返っても決して電車道を歩いてはいないことは確かです。

 でもその場面、その場面で最善を尽くしてきた様にも思います。

 最善と思っているだけかも知れませんが…今年も一年どんな年になるのか?想像や夢を膨らませながらも、志と誠意をもってその場その場で最善を尽くしてゆくことができたらと思っています。

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

VITこと武本比登志

 

(この文は2005年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 先月のこのコーナーは蚤の市で見つけた古い印刷物から話がはじまった。
 きょうも蚤の市に行きぶらぶら歩き回ったのだが、そこから話は始まる。

 骨董品やガラクタを見て歩くのは楽しい。
 でも我が家は物で溢れ、これ以上ガラクタを買うわけにはいかない。
 見て歩く前から、2人で顔を見合わせ「何も買わないぞ~」と決意する。

 石畳の上にビニールシートが広げられ、ガラクタが並べられている。
 50セントのかたまり、1ユーロのところ、2ユーロの場所、高価な物は台の上に陳列され一つずつ値段が貼ってある。
 貼ってない物は店の人と交渉する。
 「何も買わないぞー」と思いつつ、「何か掘り出し物はないかな~」という目になっている。

 本当にガラクタばかりが並べられている店があって、一見ゴミ捨て場の様相だ。
 でもこういう所に限って掘り出し物がうずくまっている可能性も大なのだ。
 値段は書かれていないがたぶん50セントだろうと思う。
 丹念に見るが「絶対に欲しい」と思う掘り出し物などはなかなかない。
 かなりの数が並べられているが横には未だ品物の入った箱とか袋とかがあって、とても全部は並べ切れないのだろう。
 後ろでガラガラという音がしたかと思うと女将さんが袋からガラクタを乱暴に出しているのだ。
 あれでは焼き物などは欠けてしまう。
 そんな一角に小汚いスーパーのレジ袋に入った古切手を見つけた。

 手に取って見てみると、ずしりと重くかなりの量である。
 封筒から破りちぎった切手の束。
 ポルトガルの切手がほとんどだが、僕たちが住み始めた頃よりも少し古い時代の物の様である。
 僕が実際に郵便を出すために郵便局で買った、その時代の切手はあまりない。
 つまり15~6年以上は前の切手なのかも知れない。
 以前に階下に住んでいたアナモニカと交換で貰った中に入っていた切手も少しある。

 僕は自分に送られてきた郵便の切手をストックブックに並べて楽しんだりする。
 送るのも出来るだけ記念切手を貼って送るようにはしている。
 あらかじめ中央郵便局で記念切手をまとめ買いし、未使用切手を1枚ずつだけストックブックに保存している。
 宛先不明で戻ってきた切手は未使用と交換する。そして未使用は使用する。
 宛先不明で戻ってきた切手は日本を往復して来たのだ。
 未使用よりも世間を見てきた分、グッと存在感が増す。未使用は単に印刷物なのだ。
 だからコレクション用にわざわざ未使用切手を買う事はあまりしない。
 コレクション用に売られている使用済み切手もあまり買わない。
 でも未使用の切手よりも使用済みの切手の方が楽しい。
 切手その物が旅をしてきたのだ。
 世界のどこからか送られてきた郵便物がどんなルートを通過してきたのか、想像するだけで夢は広がる。

 女将さんが近寄ってきたので一応値段を聞いてみた。
 「全部で10ユーロ」という。10ユーロは高い。
 いや高いか安いかは分からないが、そんなに出費する気はしない。
 首を振るとその隣に置かれていた幾つかの封筒に入った古切手も付けるとのことだ。
 その封筒の中身の古切手は更に古い。

 主義に反するが思い切って買った。

 最近は郵便物そのものを出す機会が減った。
 インターネットでメールを出す。手軽で早くて便利だ。
 逆にセトゥーバルの郵便局などは以前に比べても不便になって待たされるし、記念切手など買おうものなら他の客から睨みつけられてしまう雰囲気だ。

 記念切手は実際に使用するのではなく、コレクションの為だけにある。
 美しい冊子に纏められ、解説などが付いていて、そこからちぎって使う気はしない。
 これでは本末転倒で切手コレクションその物の先細りは必至だと思う。

 僕は子供の頃、世界の切手をコレクションしていて、外国への夢が広がった要因の一つになったと感じている。
 美しいモナコの切手、アンゴラの動物切手など世界地図を片手に夢をみていた。
 現代の子供は切手コレクションなどはしないのだろうか。いまや世界は夢ではなく身近にある現実なのだろう。
 それに郵便物そのものが少ないからコレクションの仕様がない。
 ダイレクトメールや電気やガスの使用明細書などは郵便で送られてくるが、切手は貼られていない。確かに時代は変化しているのだ。

 でも使用済み切手を集めてそれを活動資金の一部にしている市民団体もいくつかある。
 封筒に貼られた殆どの切手は捨てられる運命にあるのかも知れない。
 だが廻りめぐって一部はそう言った市民団体の手に渡り活動資金の一部になれば又、有効なのではないだろうか?
 それが発展途上国の子供たちの医薬品になるかも知れないのだ。
 料金別納郵便ではなく、シールでもなく、少し面倒でも切手を貼って投函するというのも、些細なことだが、大袈裟に言えば社会に還元出来るのかも知れないのだ。
 そういう意識を持って企業もダイレクトメールを送ることはできないのだろうか?

 早速、買って帰った古切手の一部を見てみた。
 大量の切手の中に丁寧に紙に包まれて表に文字が書かれている物が幾つかあった。
 「ウルグアイ」とか「南アフリカ」などとポルトガル語で書かれている。
 切手コレクターであった人が選別した証だ。
 余程古い切手の様だ。
 包まれた紙だけがはだけて、バラバラになっている物もある。

 封筒の紙から剥がされた切手を丹念に探してみると、そう言った物がかなり出てきた。
 明らかに僕が生まれる以前の切手だ。
 ヒットラーの肖像のドイツ切手。
 それには1942年12月2日プラハと押された消印が読み取れる。
 プラハがナチスドイツの占領下にあった時代に投函されたものだ。
 菊の御紋のある大日本帝国郵便と書かれた壱拾銭とか弐拾五銭などの切手。
 更には満州帝国の参分切手などが見つかった。

 同時代と思われるブラジル、チュニジア、アメリカ、デンマーク、イタリアなどの切手。これらの切手は世界を旅したのと同時に時代をも旅したのだ。

 大枚10ユーロだが世界と時代を夢遊する。暫くは楽しめそうだ。そして今後も毎回欠かさずに蚤の市を歩くことになりそうだ。

ポルトガルの古い切手。


VIT

(この文は2007年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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