ポルトガルに住み始めた一年目、1991年の元旦は個展の関係で日本でした。
帰省客で混みあう年末、年始の宮崎空港ギャラリーに一年目のポルトガルの絵を並べて観ていただきました。
その時を除いても今回ポルトガルで14回目のお正月を迎えたことになります。15年前には想像もできなかった歳月です。
最初に海外に住んだのはストックホルムです。もう30数年前、1971年のことでした。1ドルが360円固定相場制で、外貨持ち出し制限もあった時代です。
『ヨーロッパ経由でインドまで行ってしばらく住んでみる』と言うのが当初の計画でした。でもどういうわけかストックホルムに4年半も費やしたのです。
その後結局インドには行かず、ニューヨークに一年暮らし、中南米を10ヶ月かけて旅をしたのは《おまけ》の様なものです。
そのおまけは僕にとっては宝物になりました。
その30年前当時からすれば考えもつかない時代の変化です。
当時は日本の情報などは皆無と言っても良くときたまに回ってくる日本の新聞紙をむさぼり読んだものです。
フランスにいる時には日本大使館に出かけ新聞を閲覧させてもらったりもしていました。
ちょうど『浅間山荘事件』が紙面を埋め尽くしていた頃です。
ストックホルムでは在住日本人のために『NHK紅白歌合戦』が回ってきます。会場を借り切って『紅白』を上映するのです。毎年楽しみに観に行きましたが4月頃です。
ポルトガルに住み始めてからの日本の情報源はもっぱら短波ラジオでした。毎朝、アフリカ・ガボンを中継してNHKの電波が届くのです。行ったこともないガボンを身近に感じたものです。
数年前から日本のテレビが衛星で写る様になって情報源は格段に進歩しました。なにしろ日本と同時にニュース番組を観ることが出来るのですから。時差の関係でお昼の1時に『ニュース10』で、夜10時から『おはよう日本7時台のスタート』です。
そして今はインターネットもあります。
いつでも好きな時にパソコンを開いて刻々と変わるニュースを読むことも出来るのです。
2年前には自分でもホームページを立ち上げることになりました。昨年の1月には出身高校美術部OBのサイトも立ち上げました。それもまもなく1年になります。
当初考えていたのとは少し方向が違ってきている様にも思えます。
このところの『掲示板』では美術の歴史に関心は移っていて、それはいろんな発見があって勉強にもなりますし面白いものです。当初考えも及ばなかった嬉しい誤算で、サイトを立ち上げてほんとうに良かったと感じている今日この頃です。
当初、思っていたのとは違う方向に行くのはサイトばかりではありません。
ポルトガルに住んでいること自体もそうです。
これほど長く住むなどとは当初考えもしなかったし、何の情報もなく偶然住みはじめたここセトゥーバルが大きすぎもせず、小さすぎもせず、身の丈にあった変身を遂げてゆくのが飽きさせないのかも知れません。
まさに住めば都です。
考えていたのとは違う方向に行ってしまうと言うのでは《絵》などはその典型です。
スケッチをしながら『どんな油彩にしよう』と頭に描きながら鉛筆を動かします。でもいざキャンバスに向うと自分とは違うもう一人の自分があらぬ方向に導いてゆくのです。そして格闘が始まります。
格闘が心地よい時もありますが、へとへとに疲れて何も出来ない時もあります。絵を描くことは格闘技です。
実際、北向きの冷蔵庫の中の様なアトリエでも絵を描き始めると身体が温かくなり一枚ずつ服を脱いでゆくのですから不思議です。
1人で描いているつもりが、実はもう1人くらい相手がいるのです。そうして気が付いてみると自然に絵ができていたりするわけです。
今までの半生を振り返っても決して電車道を歩いてはいないことは確かです。
でもその場面、その場面で最善を尽くしてきた様にも思います。
最善と思っているだけかも知れませんが…今年も一年どんな年になるのか?想像や夢を膨らませながらも、志と誠意をもってその場その場で最善を尽くしてゆくことができたらと思っています。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
VITこと武本比登志
(この文は2005年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)