”ヴォギュエ伯爵夫人とヴィコント城”❤️再訪
10年ぶりの
ヴォールヴィコント城です![]()
パパと再訪でき、
有難い限りです![]()
![]()
ドームの上に登って。。。
高所恐怖症のわたしは
写真どころではなく、、、
ヴォールヴィコント城と
城主について、
以前発表したスピーチの原稿↓
わたしの世界遺産
欧州への旅行で、
今まで様々な世界遺産を訪れました。
スピーチのために一か所を選ぶのは
とても困難で、あきらめました。
かわりに、これらの世界遺産に
勝るとも劣らないわたしの世界遺産候補を
ご紹介いたします。
それはヴェルサイユ宮殿の見本となった
ヴォールヴィコント城です。
その初代の城主の生い立ちとその後についてお話ししたいと思います。
時は17世紀、フランス、ルイ 13 世から 14世の時代です。
名前は、ニコラフーケ。
パリに生まれ、有力な貴族の家柄であり、イエズス会で予備教育を受けた後、 13 歳でパリ高等法院の弁護士として認められ、 1650年には、パリ高等法院の検事総長の地位獲得が認められました。二度のフロンドの乱という王権への反乱が起きたときに、宰相マザランは亡命しましたが、その間もフーケは抜け目なくマザランに忠誠を誓い続け、彼の財産を守り、法廷の状況を知らせ続けました。
マザランが帰国すると、フーケは見返りとして大蔵卿の地位を要求し、1653年これを獲得しました(政府が混乱する中、フーケはこの地位を手に入れたことで、政府の基金を扱う権限はもちろん、国王に対する債権者との交渉権も手に入れました)。この地位には資産家を任命することが多く、フーケも1651年資産家貴族の娘マリー・ドカスティーユとの結婚によって資産を大幅に増やしていました。
パリに生まれ、有力な貴族の家柄であり、イエズス会で予備教育を受けた後、 13 歳でパリ高等法院の弁護士として認められ、 1650年には、パリ高等法院の検事総長の地位獲得が認められました。二度のフロンドの乱という王権への反乱が起きたときに、宰相マザランは亡命しましたが、その間もフーケは抜け目なくマザランに忠誠を誓い続け、彼の財産を守り、法廷の状況を知らせ続けました。
マザランが帰国すると、フーケは見返りとして大蔵卿の地位を要求し、1653年これを獲得しました(政府が混乱する中、フーケはこの地位を手に入れたことで、政府の基金を扱う権限はもちろん、国王に対する債権者との交渉権も手に入れました)。この地位には資産家を任命することが多く、フーケも1651年資産家貴族の娘マリー・ドカスティーユとの結婚によって資産を大幅に増やしていました。
個人の資産力と常に自信あふれた態度により、フーケは政府からますます信用されるようになり、さらに高等法院の検事総長だったので、その地位によって、資産調査や逮捕は免れていました。フーケが大蔵卿になったことで、マザランはフーケに嘆願する側の立場に変わりました。フーケの資産はマザランの資産さえ上回るようになりましたが、マザランは、過去にフーケと同様の手段で私腹を肥やしてきたために、フーケを取り締まることはできませんでした。
やがてマザランが死去し、フーケ自身は、政府内でも有名な政治家となった自分こそ、政府の頭首になれると期待していました。しかし、彼の隠しようもない野心をルイ 14 世は不快に思っていました。さらにマザランの後任コルベールは、フーケの欠点や、フーケがかかわった最悪の事例を洗い出し、それをルイ14 世に報告しました。この報告や、フーケによるとんでもない支出額を眼にして、王の不信感は増していきました。
やがてマザランが死去し、フーケ自身は、政府内でも有名な政治家となった自分こそ、政府の頭首になれると期待していました。しかし、彼の隠しようもない野心をルイ 14 世は不快に思っていました。さらにマザランの後任コルベールは、フーケの欠点や、フーケがかかわった最悪の事例を洗い出し、それをルイ14 世に報告しました。この報告や、フーケによるとんでもない支出額を眼にして、王の不信感は増していきました。
マザラン枢機卿によりルイ 14 世の財務長官に任命されたフーケは
1641 年ムーラン近郊の土地と
小城であったヴォー ル ヴィコントを購入、土地を平らにする工事を開始。
小城であったヴォー ル ヴィコントを購入、土地を平らにする工事を開始。
1656 年、 その地位と財産にふさわしい城を建設することを決めました。
ラ・フォンテーヌ、セヴィニエ夫人、スキュデリ嬢、 ペリソンほか多数の芸術家たちの親しく威信あるメセナであるフーケが新築の設計をゆだねたのは、 その才覚によって初めて抜擢したチーム、すなわち建築師ルイ・ル・ヴォー、絵師・装飾家シャルル・ル・ブラン、 庭園造営師ル・ノートルです。
ラ・フォンテーヌ、セヴィニエ夫人、スキュデリ嬢、 ペリソンほか多数の芸術家たちの親しく威信あるメセナであるフーケが新築の設計をゆだねたのは、 その才覚によって初めて抜擢したチーム、すなわち建築師ルイ・ル・ヴォー、絵師・装飾家シャルル・ル・ブラン、 庭園造営師ル・ノートルです。
このバロック様式の城は巨大で、見事な装飾が施されました。この装飾は後にヴェルサイユ宮殿にも採用されることになり、フーケが用いたこの 3 人はヴェルサイユ宮殿の建設にも起用されました。フーケはこの城に貴重な本や最高級の絵画、宝石や骨董品を取り揃え、芸術家や著述家に囲まれて過ごしました。料理人フランソワ・ヴァテールが采配を振った食卓には、才能のある人ならば誰でも客人になることができました。
1661 年 8 月、ルイ 14 世は、すでにフーケを失脚させると心に決めながらも、フーケがヴォーで開催したパーティーに参加しました。これはフランス史でも 1 、 2 を争うような豪華なパーティーで、 モリエールのコメディ・バレエ「はた迷惑な人たち( Les Fâcheux )」も初演されました。この豪華さを王は嫌い、フーケの運命が完全に決定されました。とはいえ、王は、これほどの力のある大臣にそのまま対立することを恐れました。手の込んだ企みによって、フーケは、まず自分のパリ高等法院の検事総長の地位を売り渡すように仕向けられ、それによって特権の保護を失い、そして代償を国庫に支払うことになったのです。
ルイ 14 世がヴォーを訪問した 3 週間後、王はフーケを伴ってナントを訪れました。フーケは、自分が大切にされていると喜びましたが、御前を離れたときにマスケット銃士隊長のダルタニャンの手で逮捕されました。裁判は 3 年間続きましたが、この裁判は正規の進め方から逸脱していたと言われ、 21 世紀になってもフランス法曹界では学術論文の題材としてしばしば取り上げられています。一般大衆は概ねフーケに同情しており、フォンテーヌやセヴィニエ夫人など多くがフーケを擁護する文を書きました。
しかし、フーケに国外追放の判決が下り、さらにその刑に失望した王によって、終身刑に替えられました。
フーケは 1665 年の初頭にピネローロの要塞に送られ、 1680 年 3 月 23 日にそこで死去しました。
1661 年 8 月、ルイ 14 世は、すでにフーケを失脚させると心に決めながらも、フーケがヴォーで開催したパーティーに参加しました。これはフランス史でも 1 、 2 を争うような豪華なパーティーで、 モリエールのコメディ・バレエ「はた迷惑な人たち( Les Fâcheux )」も初演されました。この豪華さを王は嫌い、フーケの運命が完全に決定されました。とはいえ、王は、これほどの力のある大臣にそのまま対立することを恐れました。手の込んだ企みによって、フーケは、まず自分のパリ高等法院の検事総長の地位を売り渡すように仕向けられ、それによって特権の保護を失い、そして代償を国庫に支払うことになったのです。
ルイ 14 世がヴォーを訪問した 3 週間後、王はフーケを伴ってナントを訪れました。フーケは、自分が大切にされていると喜びましたが、御前を離れたときにマスケット銃士隊長のダルタニャンの手で逮捕されました。裁判は 3 年間続きましたが、この裁判は正規の進め方から逸脱していたと言われ、 21 世紀になってもフランス法曹界では学術論文の題材としてしばしば取り上げられています。一般大衆は概ねフーケに同情しており、フォンテーヌやセヴィニエ夫人など多くがフーケを擁護する文を書きました。
しかし、フーケに国外追放の判決が下り、さらにその刑に失望した王によって、終身刑に替えられました。
フーケは 1665 年の初頭にピネローロの要塞に送られ、 1680 年 3 月 23 日にそこで死去しました。
逮捕後は2度と城に帰ることはできず、当時貴重であったオレンジやツゲの木々、城の豪華な装飾品や家具、織物、彫刻、絵画はルーヴル宮やヴェルサイユ宮殿に没収されてしまうのです。
お城がフーケ夫人のものとなったのも 12 年後だったといいます。
獄中フーケは不屈の精神を貫き、牢においても何冊かの翻訳作業なども行ないました。フーケの裁判に関する 15 巻の記録が、コルベールがフランス三部会で抗議したにもかかわらず、オランダにおいて 1665 年から 1667 年の間に出版されています。
獄中フーケは不屈の精神を貫き、牢においても何冊かの翻訳作業なども行ないました。フーケの裁判に関する 15 巻の記録が、コルベールがフランス三部会で抗議したにもかかわらず、オランダにおいて 1665 年から 1667 年の間に出版されています。
未亡人となったフーケ夫人は、辛うじて城を守り続け、
44 年間、フーケの兄弟の援助を受けながら夫の莫大な借金の返済に奔走しました。
44 年間、フーケの兄弟の援助を受けながら夫の莫大な借金の返済に奔走しました。
1705 年、 ルイ 14 世が戦功報償により公爵ならびに王国貴族に叙したヴィラール元帥に売られました。
ヴィラール夫妻は城を手厚く管理しましたがヴィラール元帥の死後
父の名声以外には取り柄がなかった息子は領地の管理に興味を失い、
プラスラン公爵ことセザール ガブリエル ドゥ ショワゼルに譲渡しました。
父の名声以外には取り柄がなかった息子は領地の管理に興味を失い、
プラスラン公爵ことセザール ガブリエル ドゥ ショワゼルに譲渡しました。
フランス革命の直前に城館をフランス国家に寄贈したため、革命の破壊からは逃れることができたようです。
19 世紀に入り、領地の管理は経済的に窮地に追い込まれます。
1875 年、領地をガストン ドゥ ショワゼルは競売にかけるに至りました。
1875 年、領地をガストン ドゥ ショワゼルは競売にかけるに至りました。
城は長年無人のままで廃墟と化し、 庭園は見分けもつかず領地は分散の危機にさらされていました。偶然にヴォーを訪れた、砂糖の精製業で財をなしたアルフレッド・ソミエ氏は、このフランスの宝を保存し、 17 世紀にあった面影を蘇らせる決心をしました。
競り落として買収、建物を修復、庭園を復元し、 家具が何もない状態であった城全館を調度品で備えることに生涯を捧げました。
アルフレッドの長男エドゥム ソミエは父の計画を完遂すべく
アシール デュシェーヌのデザインで
見事なツゲの模様花壇を再現し、
また貴重な家具調度品も取り寄せました。 夫人のジェルメンヌ カジミール ペリエは、
情に深く誠実な人柄で第一次大戦中には城を第 23 補助病院 として運営し
また、次の大戦までは領地の付属建物を
ラ ヴィレットの恵まれない子ども達のための休暇合宿所として解放しました。
後継者のいなかったエドゥムの死後、領地は甥のジョン ドゥ ヴォグエに遺贈されますが、
実務はエドゥム ソミエ夫人に委ねられ
1945 年から 1967 年まで城を管理した彼女の業績は偉大でした。
1968 年以来、パトリス及びクリスティーナドゥ ヴォグエ伯爵夫妻が
これを引き継ぎ、常時一般公開され現在に至っています。
アルフレッドの長男エドゥム ソミエは父の計画を完遂すべく
アシール デュシェーヌのデザインで
見事なツゲの模様花壇を再現し、
また貴重な家具調度品も取り寄せました。 夫人のジェルメンヌ カジミール ペリエは、
情に深く誠実な人柄で第一次大戦中には城を第 23 補助病院 として運営し
また、次の大戦までは領地の付属建物を
ラ ヴィレットの恵まれない子ども達のための休暇合宿所として解放しました。
後継者のいなかったエドゥムの死後、領地は甥のジョン ドゥ ヴォグエに遺贈されますが、
実務はエドゥム ソミエ夫人に委ねられ
1945 年から 1967 年まで城を管理した彼女の業績は偉大でした。
1968 年以来、パトリス及びクリスティーナドゥ ヴォグエ伯爵夫妻が
これを引き継ぎ、常時一般公開され現在に至っています。
ヴィコント城は、会議や結婚式などに使うことも出来、
花火の打ち上げ、仮装パーティ、マラソン大会など様々なイベントが催されています。
なによりクリスティーナ ドゥ ヴォグエ伯爵夫人の気さくで温かい人柄に
とても居心地の良い空間となっています。
クリスティーナは、
イタリア貴族の血を引く外交官の父と
ロシア人の母との間に生まれました。
13から15世紀頃のイタリア、ナポリ王国までさかのぼる家柄で
ロシアの王室にも繋がりがあります。
クリスティーナが
フランス人のヴェグエ伯爵と結婚したときに、
ヴォー ル ヴィコント城を
贈られました。
ヴェグエ伯爵家は
ベーキングパウダーの権利で財をなした一族です。
ヴィコント城へは、
パリからは、現地発着ツアーが効率よくまわれます。
ヴィコント城がなければヴェルサイユ宮殿はありませんでした。
ヴィコント城の庭園がなければ、
ヴェルサイユ宮殿の庭園も生まれることはありませんでした。
ヴェルサイユ宮殿の見本となった
ヴィコント城を、ぜひ世界遺産に、
と願います。



















































































しました♪♪♪
























