メトライブビューイング、ヴェルディのオペラ椿姫
2005年ザルツブルク音楽祭で
この演出、、、、
納得です(*^^*)





はたくさんある。
《椿姫》が
その中でも特別だという理由を
探すならば、一人の女性の生き様を、
内面的に凝縮して描いた
作品だからではないだろうか。
オペラがオペラたるゆえん、
それは歌や音楽が
ドラマを重層的に描いていることである。
複数の主人公たちが、
同格の存在感をもって拮抗しあい、
その歌声の全体がダイナミックに
動いていくことこそが
本来の“オペラらしさ”である。
《椿姫》は、
ヒロインの高級娼婦
ヴィオレッタ・ヴァレリーの
心のありようがドラマの常に中心にある。
恋人アルフレードや
その父ジェルモンはわき役に過ぎない。
当時のオペラの王道である
歴史大河群像劇や、
歌を最重視した
ベルカント・オペラとは全く違い、
異例の「現代劇」で、
主人公の心理面を深く掘り下げている。
作曲家ヴェルディが
当時のオペラの風潮に対して挑戦し、
主人公に
高級娼婦という
社会的地位が低い裏社会の女性を選んだ
という点でも
風変わりな「問題作」と言ってもいい。
2005年ザルツブルク音楽祭の復刻版
だが、
それをあえてMETが採用した理由は、
この舞台が、
上記の「内面性」を重視し、
当時としては異例の
シリアスな現代的作品であったことを
正面から見据えた
優れたプロダクションだったからだろう。
《椿姫》の本質とは、
男たちの欲望や好奇の目に
さらされながら、
身を削って生きていかざるを得なかった
一人の女性が、
ほんの一瞬垣間見た、
諦めていたはずの“真実の愛”という
夢の美しさとはかなさに他ならない。
表面的な華やかさばかりの演出では、
その暗い本質はなかなか表現しえない。
「真実の愛なんてばかばかしい。
ありえない」
と笑いながら、
刹那的な享楽に
のめり込もうとするけれど、
少しも楽しくなんかない。
病といつの日かやってくる
破滅への不安を押し隠しながら――。
そうしたパーティシーンで歌われるのが、
第1幕が始まってすぐの、
有名な〈乾杯の歌〉である。
この演出で
舞台に置かれた巨大な時計と
謎の人物は、“死”の象徴であり、
ヴィオレッタの死に対する葛藤を
表現している。
アルフレードとの
運命的な出会いのあと、
パーティの終わりでヴィオレッタが歌う
〈不思議だわ!~
ああ、そはかの人か~花から花へ〉
は、単に技巧的なアリアではない。
ソニア・ヨンチェヴァの
可憐な歌唱は、
信じるに値する愛の幻想を
いっとき見つけた女性の心を
余すところなく描いており、
内面の音楽になっていた。
恋人アルフレード役の
マイケル・ファビアーノ、
その父ジェルモン役の
トーマス・ハンプソン
(息子に故郷へ
帰ろうと諭す〈プロヴァンスの海と陸〉
も端正な歌唱がいい)とも、
抑制された演技と歌で、
この内面的なオペラをよく支えている。
ニコラ・ルイゾッティの指揮は、
要所要所でハッとさせる
新鮮な表情も多く、
この上演全体を
引き締まった緊張感あるものにしている。
今回の舞台を成功に導いた
最大の功労者と言ってもいい。
さすがの実力だ。
今回の《椿姫》、
キーワードは「内面的」
ということになろう。
ともすれば外見上の
華やかさばかりにスポットが当てられがちな《椿姫》の真の奥深さ、
作曲家ヴェルディの本質に
鋭く迫っているという点において、
こんなに重要で
誠実な上演は滅多にない。
今後《椿姫》というオペラは、
このプロダクション抜きには
決して語りえない。




