お茶のお稽古4 | アルページュの日記

お茶のお稽古4

客:「お茶入のおかたちは?」
点主:「かたつきでございます。」
客:「お窯元
は?」
点主:「瀬戸でございます。」
客 :  「お仕覆のお布地は?」
客 :   「十色間道でございます。」
客:「お茶杓のお作は?」
点主:「 又玅斎でございます。」
客:「ご名は?」
点主:「山苞(やまづと)でございます。」
    (秋の夕暮れ)
客:「ありがとうございました」

左手に仕覆、茶杓を持ち、
右手で茶入を持ってさがります。

柱つきに茶入、茶杓、仕覆を置き、
総礼。
ふすま閉めます。




お玄関のお軸
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李绂
字(あざな)巨来,
号(ごう)穆堂
江西省臨川県栄山鎮の出身、
清代の著名な政治家、理学家、
詩文家である。
康熙十二年生まれ,
乾隆十五年に没,七十八歳。

李绂は幼い時から聡明で神童といわれ、
10歳で詩を作り、
12歳で里の年配者と詩社
(作詩を競うクラブ)を作った。
家は甚だ貧しくて、
風雪の中を300銭を持ち
一人で漢陽の兄を尋ねた、
一か月で三千里を歩いた。

康熙四十七年(1705)
江西の郷試で第一位,康熙四十八年(1709)進士となる。
以後色々な役職を経ています。

雍正元年(1723)に
米の輸送とその損失を少なくし、
また市場の価格をうまく見積もって
銀五千両を蓄えた。

雍正二年(1724)四月,
広西巡撫の時には官吏が
地元民に不正に税などを課したり、
賄賂が横行しているのを正した。

雍正四年三月の大水害の時に
独断で各地の官営の倉を開けて、
救済にあてた。
後で朝廷に上書して自らの罪を詫びたが、
雍正帝は間違ってはいないとして
処分をしなかった。

雍正五年(1727)
雍正帝の寵臣である田文镜の
無法な蓄財を弾劾したが、
逆に徒党を組織しているとの罪を
着せられて獄に囚われる。
しかし彼の家を捜索したときに、
その清貧さに雍正帝
彼の清廉潔白なことが判り、
赦免される。

出獄後は勅命で「八旗通志」、
「広西通志」、「畿辅通志」等を
著述した。

その後官職は戸部尚書まで至る。
乾隆八年に病を告げて故郷へ帰る。
乾隆十五年,七十八歳で亡くなる。

李绂 
○秋山学圃为张韦斋明府题。


庄舄经春只越吟,莱根滋味忆山林。
夕阳千树鸟声寂,凉月一庭花影深。
窣堵波原难作宅,磨兜坚已自题箴。
惟馀结习残书在,窥见羲皇以上心。

(韦斋,匠门弟也。识穆堂于未遇时,
去官后,暂留江右佛寺,穆堂作诗赠之。)

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1454328194より



先生、大変お世話になりました。
ありがとうございましたm(_ _)m