12月10日は江戸時代後期の尼僧で
歌人・陶芸家の
大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)が、
1875年に亡くなった日です。
1791年、
伊賀国上野の城代家老の子として
京都に生まれた
蓮月(本名・誠[のぶ])は、
生後まもなく
京都知恩院の坊官
大田垣光古(てるひさ)の
養女となりました。
7、8歳のころから、
丹波亀山城主松平家に奉公し、
やがて1807年、
養父光古が養子に迎えた
望古(もちひさ)と結婚し、
1男2女をもうけましたが、
いずれも幼くして亡くなった上、
1815年には望古も
亡くなってしまいました。
4年後の1819年、
ふたたび光古が養子に迎えた
古肥(ひさとし)と再婚、
1823年には夫が死別したため
仏門に入ることを決め、
出家して蓮月を名乗りました。
養父も亡くなったため、
蓮月は生まれ育った知恩院を去って、
岡崎村(今の京都市左京区)に
移りました。
その後の蓮月は住居を転々とし、
聖護院村、
方広寺大仏そば、
北白川の心性寺、
西賀茂村など、
「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの
引越し好きとして知られ、
85歳で亡くなったときは、
西賀茂の神光院でした。
蓮月は、幼い時から和歌に親しみ、
歌道を正式に千種有功に学び、
のちに香川景樹、
小沢蘆庵らに
私淑したといわれています。
出家して岡崎村で暮しはじめたころから、
陶芸により生計をたて、
自作の焼き物に
自詠の和歌を釘彫りで施した作品は
「蓮月焼」と呼ばれ、
京のお土産として人気を博すほど
評判になりました。
歌文集に『海人(あま)の刈藻(かるも)』
があり、
幕末京都女流歌人を代表する
一人とされています。
代表作には次のような作品があります。
はらはらと 落つる木の葉にまじりきて 栗の実ひとり 土に声あり
山里は 松の声のみ聞きなれて 風ふかぬ日は さびしかりけり
木の間より ほの見し露のうす紅葉 おもひこがるる 始めなるらむ
蓮月自身は、
質素な生活を生涯続け、
飢饉の際には匿名で奉行所に寄付したり、
資財を投じて賀茂川に
丸太町橋を架けるなど、
慈善活動に勤しみました。
また、若き日の富岡鉄斎を
侍童として暮らし、
鉄斎の人格形成に大きな影響を与え、
幕末の志士頼三樹三郎や
梅田雲浜らとも
親交したといわれています。

















