今日は徹夜で辰濃和男さんの文章のみがき方という本を読んだ。
筆者は長らく朝日新聞の記者であり、「天声人語」も手掛けてきた。
そんな筆者なのだから、さぞ文章を書くことにこだわりとプライドがあるのだろうと考え、コーヒーを片手に読み進めていった。
 これは案の定、筆者の思う良文の定義が書かれていた。そしてその定義を支える文筆家たちの名文が数多く引用されている。文筆家と言っても、文豪から、一般の方まで様々である。
 この本の1番の利点は、文筆家たち豊かな表情技法に触れることができることだろう。引用文を文豪だけに限らない所が、筆者の良いところだと言えるだろう。
それだけに、かなりの読書家でも、新しい発見があるに違いない。
 しかし、この本でのタイトルである、文章のみがき方という観点から見ると、この本は誰に向けて書かれたのだろうかと疑問に思ってしまう。この本に書かれたことを2.3個実践するだけでも、忙しいサラリーマンにとっては、大きな負担となるであろう。新聞記者という立場からすれば、この本人に書いてあることを、ある程度実践してみようという気にもなるが、仕事として文章に触れない人には、先ほど述べた表現技法を知って感心するだけの本になってしまうであろう。
 また、日々文章をつくる立場からして、自分の意見とは食い違う意見もあった。「紋切り型を避ける」という意見である。そもそも筆者が文章の中で多くの紋切り型を使っているのに気付いてないのであろうか?
 紋切り型 というのは、古くから受け継がれてきた型にはまった表現のことである。(走馬灯のように)
(抜けるような青空が、)のような表現のことである。筆者はこのような表現を全く以って使うべきでないと述べる。本当にそうなのだろうか? もちろん全てが紋切り型の表現人間なってしまえば、現代文学の発展は終わる。しかしながら、全く避けるのはナンセンスだ。紋切り型は、文章に於いて盛り上がりに欠ける部分(繋ぎの部分)に使うのに適している。一目見るだけで意味を理解できて、軽く読むことができるからである。もし文章の全ての部分に型に捉われない斬新な表現が使われると、どのようなことが起こるだろうか?読むのに時間がかかりすぎるのではなかろうか?文章の盛り上がり(一番伝えたい部分)にいく前に読者がギブアップしてしまうのではないだろうか?
繋ぎの部分で軽い表現(紋入り型)を使うからこそ、盛り上がりの部分が強調されるのである。
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 この本の欠点があるとすれば、そういうところである。少し過激な表現があるのだ。
筆者の意見は鵜呑みにせず、批判できに読む。
文章に出てくる表現は、全力で感じ取る。
 これがこの本の読み方だと言えるだろう。