ライムの香りが、記憶の扉を開くとき
─香りが包む、始まりと終わり─
その香りは、不意にやってくる。
ほんの一滴の、ライムの精油。
いつもの朝、いつもの洗面所。
でもその香りが、
まるで古い引き出しの鍵を回すように、
あの日の午後の記憶をそっと呼び起こした。
代官山の夏。
彼とふたりでよく通った...
メキシカンレストラン「ラ・カシータ」。
白壁とカラフルなタイル、風が抜けるテラス席。
炭酸もお酒も苦手だった私に、
彼が教えてくれた、初めてのビールの飲み方。
テカテ──
缶ビールの縁にライムを擦りつけて、塩をひとつまみ。
キュッとライムを絞って、そのまま缶に押し込む。
最初は戸惑ったけれど、
ライムの香りがビールの苦味を和らげて、
飲みやすくなっただけじゃない。
その香りが、私の中の何かをほどいた。
「たまに…枠を飛び越えていいんだよ」と、
彼がそっと背中を押してくれた気がした。
そして──
それからしばらくして迎えた、ふたりの最後の夜。
選んだのは、偶然なのか必然なのか、
同じ「ラ・カシータ」だった。
目の前にいたのは、
もうすぐ手放すことがわかっていた、
最後の彼。
でも、グラスの縁には、またライム ──
塩を振って、静かに乾杯して、
その香りだけが、ふたりの間にやさしく残った。
不思議だった...
涙が頬を濡らしていても、
ライムの香りは、あの夏とまったく同じ…
彼への気持ちを思い出させる香りだった。
あれから季節がいくつも巡って、
私はもう、彼のいない暮らしにも慣れている。
そして今…
ライムの香りを嗅ぐたびに思い出すのは、
あのときの私が、少し自由になった瞬間。
香りが、愛した人の記憶を連れてくることもある。
でもその香りが、
今の私を少しやさしくしてくれるなら...
それも悪くない。
ライムの香りが、また新しい記憶にもそっと火を灯してくれますように。
また、新しい風が…どこかではじまる——。
そんな予感に包まれて...
