エージェント制について勉強しようという動機から、本書を手にとってみました。

結論から先に書けば、エージェント制をつくったJRAに対する批判の論点は感情的なものが先に立ち、大方の賛同を得られる説得力を持ったものではない、という印象を持ちました。

エージェント制を本書の説明を借りながら要約すると、次のようになります。

()内は私の解説

 

エージェントは「騎乗依頼仲介者」のこと。

「契約を結んだ騎手の代理として、馬主や調教師から騎乗依頼を受けつつ、その騎手の騎乗馬を調整することを、おもな仕事にしている。」(121ページ)

本来、騎乗依頼が多い岡部幸雄騎手が旧知の競馬専門紙記者にスケジュール管理を頼むようになったことが始まりで、2006年5月からJRAが制度として導入した。

(わかりやすく言えば、芸能人の所属事務所兼マネージャーのような存在かな。)

2013年現在、エージェントは約20人いるが、氏名はトレセン内の関係者にしか明らかにされていない。

(つまり、ファンに対する透明性が担保されていない、という問題がある。)

レースに勝つには馬7割に対して騎手3割。

強い馬に乗ればほぼ勝てる。

その強い馬の騎乗依頼をエージェントが差配するから、そのエージェントと調教師とのコネクションや予め定められた騎手の序列で、有力馬の依頼が特定の騎手に集中する。

だから、この制度が始まってから、自分の専属となるエージェントに力がなければ、武豊や藤田伸二などのように技術があっても騎乗依頼が減り、有力エージェントがついている浜中俊や福永祐一など「さほど技量があるわけでもない」のに、騎手リーディングを取ることができるという。

かつては、「競馬において重要なのは『馬七分人三分』」と言われてきたのが、今や「エージェント十分」になってしまったという。

こうした状況を藤田は「つまらない」という。

特に大手クラブ馬主(社台・サンデー、キャロットなどのことだろう)の台頭で、目先のレースに勝たせたい、という短期的な視野で、それまでレースで馬を育てた日本人騎手を見切って、大レースで外国人騎手に切り替えることも、藤田には不満のようだ。

これでは、若手が育たない、と。

これは外国人騎手や大手クラブ馬主が悪いのではなく、こうしたエージェント制度をつくり、改革を怠るJRAにすべての責任がある、という。

 

藤田の騎乗スタイルは、義理人情に縛られる。

先約を優先し、世話になった調教師や厩務員が関係する馬であれば、いくら強くて勝ちそうな馬の依頼を受けても断るという。

こうした長い人付き合いの中で培ってきた信頼関係のもとに、競走実績をつくるというスタイルは、昭和のそれだ。

いまや、ビジネスの世界も国際競争に晒され、どこの会社も目先の利益やコストカットに血眼になり、浪花節的な義理人情や長期的な視野を持てなくなってきている。

競馬界も例外ではなく、国際化の波が押し寄せ、外国人騎手への免許解放が導入された。

こうした流れのとともに、騎手に対する騎乗依頼もドライでシビアなものになってきている。

このような現状を嘆き、問題視するのは、とてもよく理解できる。

でも、これを「つまらない」というひと言で否定し、感情論に押し流されては、衆人の理解は得られないし、懐古趣味と冷笑されるだろう。

事実、アマゾンの「騎手の一分」のレビューには、時代の流れについていけない者の負け犬の遠吠え、というような批判も見られた。

もっと、ロジカルに批判を加えなければ、JRAも重い腰を上げようとはしない。

若手が育たない、という批判も一理あるが、それでも、今年の皐月賞を新鋭の松山弘平が勝ったように、逆境を乗り越えて這い上がる若者も皆無ではない。

 

もとより、JRAという巨大組織は同時に形式主義に捕らわれたガチガチの官僚機構でもある。

そうした、エリートたちがつくるルールの理不尽(ルールがすべて理不尽というわけではない)に抗う反骨精神には、私も大いに共感するところだ。

ただ、先ほども書いたように、いかんせん騎手の世界しか知らない藤田には、理論武装が足りない。

誰か有力なブレーンがついていれば、この主張ももっと違った形で競馬ファンにアピールすることができただろうに残念なことだ、というのが正直な感想だ。