真実が知りたい! からです。
残念なことに、学校で教科書で習った”日本史”は、本当の日本の歴史ではなかったようです。
やたら暗くて、脈絡がない、経過が意味不明な分、年代や人名などの暗記でごまかしてる風で、それが私が、日本史ではなく世界史を選んだ理由でした。
”神武天皇”ですら、つい最近まで私、存じませんでしたから。初代天皇である神武天皇を。GHQによる戦後教育のためですね。いや単なる無知かも^^。
ところが実は、本物の日本の歴史って、かなり素晴らしいのです~!
(聖徳太子2歳像、叡福寺パンフレットより)
私が整体の仕事をするきっかけとなったのは、年間40兆円もかけている医療で”治らない、原因不明”と言われた病気にかかったことから。
そこでなんとなく、体の真実に沿っていないから、原因不明なのでは、と感じました。
それから体の真実とは、と自分なりに模索してきました。
そうした経験から、真実を理解しないと人を救うことはできない!ラクになっていただくことはできない、と実感しています。
歴史もそうだと思うのです。
自分の生まれた国が、いかに素晴らしい世界最古の歴史の上に成り立っているのか、
どれほど立派な心持ちの日本人が、日本のため、日本人のために心を砕いてきたか、それを知ったらどれほど自分に母国に誇りが持てるでしょう。
日本の場合、真実を本当の歴史を知るだけで、捏造などの必要性全くなしで、子どもたちを幸せにすることが出来るのに、真逆の環境に陥っていることがとても残念だと思います。
というようなわけで、自分自身が理解した本当の歴史、素晴らしい日本の芸術作品など、ご紹介したいと考えます。
■関西2日めは、まずは斑鳩寺(いかるがでら)へ。
(中央が聖徳太子、左の美豆良みづらの少年がご子息、山背大兄皇子、右端が小野妹子、その左で頭を下げているのが蘇我馬子、斑鳩寺所蔵の”勝鬘経講讃図”のレプリカ。太子が勝鬘経(しょうまんきょう)について講義されている図)
そう、仏教にもさまざまな流派があるなかで、太子は、勝鬘経、維摩経、法華経(三経義疏とは、この3つについて書かれたもの)を、日本人にと選ばれました。
お寺など、人々と隔絶した場所で修行するのではなく、妻帯し普通の生活を人々と送るなかで徳を積んでいく、そのようなものを選ばれたようです。
”日本史”では、意味もわからず○○寺は☓☓宗、など無味乾燥な暗記に追われるばかりだったので、つまんなかったですよね。
少しでも、こうした意図があったことを知っていたら、もっと面白かったのに、心揺さぶられたのに、と思います。
聖徳太子による勝鬘経の講義は3日3晩続いたそうです。その内容に深く心打たれた推古天皇が、606年、斑鳩(いかるが)の地の水田百町を太子に与えられ、そこに伽藍がたてられ今日の”斑鳩寺”へ。
ちなみに斑鳩のイカルとは、鳥の名前。
前日の鵲(かささぎ)の森神社も、新羅からもたらされた鵲(韓国の国鳥)から。
斑鳩寺講堂
講堂内部で、説明伺いました。
宝物館にて。中央に釈迦如来、右側が薬師如来、左側が如意輪観音、丈六仏(丈六とは、一丈六尺、4,8メートル。坐像なので3mくらいだそうです)。いずれも国重要文化財。
三重塔
聖徳殿前殿左右に馬の像。太子愛馬の甲斐の黒駒をイメージしたもののようです。
びっくり!植髪されたロンゲ聖徳太子像 @斑鳩寺
講堂の左側、黒駒像の奥に聖徳殿があり、秘仏聖徳太子十六歳孝養像が安置されています。
こちらに限らず、お寺では撮影禁止のものが多く、ご紹介できないものが多く残念なのですが、こちらの聖徳太子十六歳像、素晴らしい作品でした。
一切公開されてないというお像は、凛々しいお顔に実物のお召し物をまとわれたお姿。しかも垂髪、という実際の髪の毛を垂らしたお像なのです。
それも、ご自身の髪の毛を植髪されたとか(アデランスも真っ青の古い歴史)。もちろんお像自体も、聖徳太子がお創りになられたと伝承されてるそうです。
ぜひ、髪の毛のDNA鑑定などお願いしたいところです。
こちらの扉の奥に、聖徳太子さまが。
(聖徳太子孝養像、叡福寺パンフレットより)
イメージ的には、こちらの聖徳太子像に近いです。ただ髪の毛は一切たばねられていません(いわばロンゲ)し、眼光がもっと鋭く真摯な姿勢が伺われ、心に響く美しいお像でした。
■つづいて、墓所のある、叡福寺へ
あ、その前にバスの中でお弁当いただきました。
南大門へ
南大門の金剛力士像
享保17年(1732年)に再建された金堂。
ご本尊は高さ90mの如意輪観音さま。 聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいているそうです。 脇侍は不動明王と愛染明王。
こちらが、宮内庁が管理している聖徳太子御廟、「北古墳」は直径約54m、高さ約7mの円墳だそうです。
620年、聖徳太子ご自身がここをご自分の墓所と定められたそうです。
その翌年621年薨去(こうきょ)された太子のお母さま、穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)がここに埋葬されました。
続いてその翌年である622年に、聖徳太子と、その前日薨去された妃、膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)がここに追葬されました。御三体が合葬された三骨一廟というそうです。
古墳の周囲はこのように。
ですが、怪しくないですか、このように立て続けに聖徳太子のご家族が薨去されるとは。KK母周囲ではありませんが^^
・しかも、殯(もがり、長い期間喪に服する)をやらず、すぐに埋葬されたそうです。これは蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇も同じく殯なしだったそうなので・・・。
・また古墳時代は仏教伝来で終わってますし、つくるとしたら円墳ではなく前方後円墳のはず。
・前日に亡くなられた膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)は、太子の4人のお妃のうち最も寵愛されてらした方。
周囲に太子ご自身がそうお話されてらしたそうです。
当時は一夫多妻は普通で、とりわけ並外れて秀でてらした聖徳太子に自分の娘を嫁がせたい、そんな思いも多かったのでしょう。
叔母である推古天皇は、ご自身の娘と孫を聖徳太子のお妃と、なさいました。(ご皇族について本来適切な動詞があるのでしょうが、わからないのでこのような平易な表現でごめんなさい)
643年には、太子ご嫡男である山背大兄王(やましろのおおえのおう)一家が、蘇我入鹿により自害に追い込まれます。
”古代ロマン”とか言いますが、日本的でないテロリズムが吹き荒れていた時代だったようです。
ですから、645年大化の改新のさきがけとなる、乙巳の変(いっしのへん)で、蘇我家が一掃される流れへ。
ちなみに、聖徳太子のことを”厩戸王(うまやどおう)”などと左翼系の方々が造語されたそうですが、本来は、上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)が正式です。
”うまやど”って、キリストじゃん、と思いませんでしたか?高校時代ナゾだったのですよね。
蘇我氏は、そもそもネストリウス派キリスト教徒だったようです。
それで眉目秀麗、人並み外れて優秀で人望篤い聖徳太子を取り込んで、仏教を経由した後、日本をキリスト教ネストリウス派(景教)の国としたかったのでは、というのが東北大学名誉教授田中英道先生のお考えです。
なにしろ”蘇我氏”とは、我蘇り(われよみがえり)=キリストを体現しているではないですか。
馬子(日本にそもそも馬はいなかった)、蝦夷、入鹿、など人とも思えない名前なのも妙ですよね。「馬鹿じゃないですか」と田中先生がどこかでお話されてたのを聴いて納得。
こうした名前は、後世つけられることが多いようですから。
(奥の小山が、聖徳太子御廟)
このように吹き荒れるテロリズムに対して、自然道である神道を共同宗教として、仏教を個人宗教とする日本人のあり方を、日本のお国柄、国民の安寧のために、身を挺してお守りくださった、そのように思います。
現地を訪れて、田中先生がひとこと、
「彼らは、天皇よりも高い場所に住んでいたんですね」と。
やはりフィールドワークは大切ですね。
叡福寺、藤棚の前で田中英道先生と。
雨にけぶる飛鳥の風景。のどかです。
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