「言志四録」より。

(その後に訳文と原文があります) 

 


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言志録 第百三十七条 死生と変易

 

生物は皆死を畏る。人は其の霊なり。


當(まさ)に死を畏るるの中より、死を畏れざるの理を揀(えら)び出すべし。

 

吾思う、我が身は天物なり。死生の権は天に在り。

 

當に順いて之を受くべし。我れの生るるや、自然にして生まる。

 

生まるる時未だ嘗(かつ)て喜ぶを知らざるなり。則ち我の死するや、応(まさ)に亦自然にして死し、死する時未だ嘗て悲しむを知らざるべきなり。

 

天之を生じて、天之を死せしむ。一に天に聴(まか)すのみ。吾れ何ぞ畏れん。吾が性は即ち天なり。

 

躯殼(くかく)は則ち天を蔵(ぞう)するの室なり。

 

精氣の物と為るや、天此(てんこ)の室に寓(ぐう)せしめ、遊魂(ゆうこん)の変を為すや、天此の室より離れしむ。

 

死の後は即ち生の前、生の前は即ち死の後にして、吾が性の性たる所以の者は、恒に死生の外に在り。

 

吾れ何ぞ畏れん。夫れ昼夜は一理、幽明(ゆうめい)も一理、始を原(たづ)ねて終(おわり)に反(かえ)り、死生の説を知る。

 

何ぞ其の易簡(いかん)にして明白なるや。吾人は當に此の理を以て自省すべし 

 

 

【言志四録 訳文】

 

生物は皆死を畏れる。人間は万物の霊長である。

 

死を畏れる中にも死を畏れない理由を選び出して安住すべきである。

 

私は次の如く考えている。


自分の体は天から授かったもので、死生の権利は天にある。

 

それで、従順に天命を受けるのが当然である。

 

我々人間の生まれるのは、自然であって、生まれた時は喜びを知らない。

 

我々人間の死ぬのも自然であって、死ぬ時に悲しみを知らない。

 

天が我々人間を生み、そして死なすのであるから、死生は天に一任すべきで別に何も畏れることはない。

 

我が本性は天から与えられた物であり、体は天物である本性をしまっておく室なのである。

 

精氣が一つの固まった物となると、天(本性)は、この室に寄寓し、魂が体から遊離すると、天はこの室から離れていく。

 

死ぬと生まれ、生まれると死ぬものであって、本性の本性たる所以のものは、いつも死生の外に、すなわち死生を超越しているから、自分は死を畏れない。

 

昼夜には一つの道理があるが、幽明(死生)にも一つの道理がある。原の始めを訪ねれば、必ず終りがあるもので、これによって死生のことも知ることができる。

 

これほど簡単明瞭なものはない。我々はこの道理をもって、自らを省みるべきである。

 

 

【言志四録 原文】

 

生物皆畏死。人其霊也り。当従畏死之中、揀出不畏死之理。吾思我身天物也。死生之権在天。当順受此。我之生也、自然而生。生時未嘗知喜矣。則我之死也、応亦自然而死、死時未嘗知悲也。天生之而、天死之。一乎天而已。吾何畏焉。吾性即天也。軀殻則蔵天之室也。精気之為物也、天寓於此室、遊魂之為変也、天離於此室。死之後、即生之前、生之前、即死之後、而吾性之所性以為生者、恒在於死生之外。吾何畏焉。夫昼夜一理、幽明一理、原始反終、知死生之説。何其易簡而明白也。吾人当以此理自省焉。