許すってとてもとても難しい。

 

 

自分のキャパがなければ許すことは本当にできないと感じています。

 

 

 

ちなみにこのまやのブログには2つテーマが入っていて、

 

聴くということについてと、

 

そして許すということについてと、2つ。今日は許すについて。


 

 

この世の中には本当にたくさんの、悲しいことや酷く見える出来事がたくさんある。

 

 

子どもの虐待、戦争、児童労働や強制労働、奴隷制の慣習、環境破壊、

 

 

なんで、こんなにひどいことが、と思うことがあるたびに、

 

 

常に心が葛藤してきたように思います。

 

 

 

良いも悪いもなくて、全てはバランスでしかない。

 

 

それもわかってる。

 

 

でも、だからと言って、なぜこんなひどいことが起こるのか、できるのか。

 

 

恵まれない子たちがどうしてこんなに。

 

 

「恵まれない子たち」というその見方そのものが、私が歪んでいるのだろうか。

 

 

 

と、いつもいつも、

 

 

自分の中の光と闇のようなものをどう自分に納得させればいいのか考えてきました。

 

 

未だ胸をはって言い切ることのできる答えは出ないのだけれど、

 

 

人間であるうちはきっと完全な答えなど出ないのだと思います。

 

 

だからと言って、考えることを放棄するということではなく、

 

 

それでもやっぱりわたしたちは元来、光の存在なのだということを私は忘れることができない。

 

 

 

どうしても、諦められないし、

 

 

そしてどうしてもそれを信じてしまう自分がいます。

 

 

 

信じたいというより、信じている。

 

 

わたしたちは光の存在だということ。

 

わたしたちは愛なのだということ。

 

 

わたしには絶望がたくさんあるんだけれど、

(その矛盾はまた改めて書きたいと思います)

 

 

だから、じゃあ、それを、愛であり光であるということを体現するのは誰かって、自分しかいなくて。

 

 

 

これは長い時間がかかる。

だから、すぐに許せるようになるわけじゃないけど、とりあえず、私の一歩として、毎日小さなことを許せるようになろう。

 

小さな一歩。

でもきっと大きな一歩。

 

 

許す。

 

許すって愛がいる。

 

 

私の器を大きくすること。

愛を持って。

 

許す。

 

やってみよう。

小さなことから。

 

やってみよう付けまつげ

 

きっと違う世界が見えると思うから。

 

 

許すということを体験したくて私はここにきたのかもしれないから。

みんなの愛を受け止めて、私も許そう。

 

 

 

そう。

 

 

許すって愛がいる。

 

愛の器が大きくないと、許すことなんてできない。

 

 

許せない相手が目の前に現れると、

 

とても小さな小さな自分が見えて、目を背けたくなる。

 

 

 

自分にはもっともらしい正義溢れる、許さなくても良い正当な理由があり、

 

 

その正当さをぶつけるだけのもっともらしい「悪」が目の前にある。

 

 

 

だから、許さなくても、わたしは間違っていないと、言いたくなる。

 

 

 

だからみんな、ここぞとばかりに叩くのでしょう。

 

 

 

 

けれど、

 

 

何かがちがうって、ずっと思ってる。

 

 

 

だって、もしこれが本当なら、

 

 

なんで許せない自分がこんなに苦しいのか。って、思いませんか。

 

 

 

非難すること、復讐することがもし正しいことなら、

 

 

なぜ、わたしたち「正しい」と思っているひとたちも、

 

 

こんなに苦しそうな顔してるのって。

 

 

 

見ていてつらくなるのです。

 

 

誰かを批判すること、非難すること。

 

ディベートは良いと思いますよ。そうじゃなくて、バッシングは、誰の、なんのために。

 

 

 

 

 

 

この話は、きっと理解してもらえないこともいっぱいあると思うけれど、、

 

 

わたしだって、さっきも言ったように、頭では理解できていても

 

完璧な納得が心にあるわけじゃない。

 

 

そんな状態で書いているけれど、

 

 

でも、とても大事なことだとわたしは思うんです。

 

 

 

それが正しいとかそういうことではなくて、

 

 

綺麗事かどうかとかそういうことではなくて、

 

 

 

 

究極なところ、

 

 

「自分の子どもを殺されても許せるのか」って

 

 

はいと答えられる人はいるのだろうか。

 

 

わたしは、答えられるのだろうか。

 

 

許せるのだろうか。

 

 

 

 

でも、

 

 

そういう話で、これは。

 

 

 

動物虐待を許せないと怒る、優しい人たちがいて。

 

 

とても、とても優しいと思う。

 

 

けれど、その限定された優しさは、どういうバランスなのか。

 

 

どういう世界の眺め方から生まれたものなんだろうって、

 

わたしたちは考えない。

 

 

 

お日様は、良い人も悪い人も、差をつけることなく照らしているのに。

 

わたしたちはとても、限定的。

 

 

 

全てはバランスである、という意味を、本当にずっと考えています。

 

 

言葉にしたらあまりにも簡単でよく聴く言葉だから、

 

 

とても軽くなってしまうけれど、

 

 

バランスって、都合よいものでは、ないはずです。

 

 

 

 

 

 

とてもヘビーでデリケートな話なので、

 

 

多分この記事、伸びないけれど、

 

 

でもすごく今タイミングがきているから、

 

 

どうしたって残しておかなきゃいけないから今書いています。

 

 

 

 

 

許すことは、愛の器。

 

 

愛って、本当に、わたしたちが思っている以上に理解が超えていくものです。

 

 

愛を学ぶって覚悟がいるし、とても辛く思えることもたくさんある。

 

 

けれど、

 

 

それでも一緒に愛を学んでくれる人が、

 

いるといいなぁって、思う。

 

 

 

本当の意味で大きな人って、どういう人なんだろうって、

 

 

本当の意味で愛があるって、どういう状態なんだろうって、

 

 

世界の眺め方をちょっと変えてみるような。

 

 

そうしたら、生き方が変わると思うのです。

 

 

 

 

そういう場所を作りたいなって、思ってる。

 

 

 

 

あんまり自信は未だないけれど。

 

もうかなり背を押されており、心が定まらない最近です。

 

久しぶりに、動けない感覚さえあり。

 

困惑しています。

 

 

 

 

相変わらずわかりにくい文章で、ごめんなさい。

 

 

また、書きます。

 

 

たくさん書かなきゃならないことが、あるように思います。

 

 

届くべき人に届きますように。

 

 

 

いつもありがとうございます。




 

 

こことてもきれいな景色でした。


癒しでした。




 

 

 

 

 

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