偉大なる盲導犬 アロマの一生
6、盲導犬ふれあい学習会の開始
私が初めて人前でお話したのは昭和47年24歳の時でした。
その頃、大阪の整骨学校に通っており、同級生の方より大学でマッサージの講演をしてほしいと頼まれ大学に行きました。
この同級生の人は、私よりかなり年上の人で京都教育大学の先生で大阪の整骨学校に来ておられました。
私が講演に行った大学は、この方が勤務している京都教育大学で将来学校の先生に成る人の学校でした。
約1時間マッサージの理論をお話して講演は終わりました。
私にとりまして生まれて初めての経験でとても緊張しました。
でも、同級生の人は、とても良かったと言ってくださり、ほっとしました。
おそらく私が自信を失わないように記づかいしてくれたと思います。
その後、この先生の接待で夕食を頂き大阪のアパートに帰ってきました。
次の講演は、平成5年45歳の時、佐賀の経営コンサルタントの先生の事務所開設の記念行事で私の生き方や考え方を1時間半お話しました。
演題は「だれかが助けてくれた」と言う演題でお話しました。
そしてこの講演がきっかけとなり、自分史「だれかが助けてくれた」と言う本を出版しました。
それからは、年間20回以上の講演依頼がありました。
その頃の講演先は、企業、団体などでした。
平成14年、盲導犬アロマとの生活が始まり、盲導犬のふれあい学習会の依頼が増えてきました。
特に、平成16年佐賀県49の市町村を訪問した時に県内の小学校を訪問して盲導犬の学習会をしました。
前の年は、盲導犬普及の為の全国ツアーでは、各県の知事にお会いして盲導犬のバリアを取り除く活動をしました。
そして、全ての県で盲導犬育成支援の為の街頭募金をしました。
県内ツアーでは、各市町村の首長にお会いして盲導犬の事をお願いする事と各市町村の小学校で盲導犬のふれあい学習会をしようと想っておりました。
盲導犬のふれあい学習会は、二時間で初めの一時間は、私の体験談と盲導犬の現状などをお話しました。
二時間目は、盲導犬とのふれあいタイムで、目隠しをして盲導犬との体験歩行などしました。
学校によっては、全校生徒が対象の学校や三・四年の生徒だけを対象の学校もありました。
子供達は、初めて見る盲導犬とのふれあいを本当に楽しみにして待っていてくれていました。
私は、いつも学習会の最後は、子供達にアロマを触らせていました。
子供達にとりまして盲導犬とふれあう事は、とても良い記念になると思ったからです。
ある時、どこかの小学校に講演に行った時、500名以上の生徒がいたのでお話だけで会場を後にしました。
すると会場にいた子供達が盲導犬を触る事が出来ずガッカリしていました。
おそらく、子供達は、盲導犬にふれる事が出来ると期待していたと想います。
私は、この時の子供達の想いが身体で感じましたのでそれから先は、どんなに生徒の数が多くても盲導犬とのふれあいの時間を作りました。
私は、盲導犬と共に小学校を訪問をして子供達に、盲導犬の事や障害者の事をお話出来て本当に良かったと思いました。
これから先の日本を支える子供達が盲導犬のふれあい学習を通じて人にも動物にも優しい心が育ってくれればきっと良い日本になるのではないかと思いました。
そして、改めて盲導犬を貰って本当に良かったと思いました。なぜなら、もし盲導犬がいなければ私が小学校や中学校に講演に行く事はありませんでした。
盲導犬アロマがいたから子供達ともふれあう事が出来、子供達の想いを感じる事が出来ました。
ですから、私にとりまして盲導犬はたんなる道案内の為だけではなく、知らない人との橋渡しの役割をはたしてくれた最高のパートナーでした。
今、私の体験から言わせてもらうと、盲導犬を使っているユーザーの人は、出来るだけ時間をつくって学校を訪問して盲導犬のふれあい学習会をやってほしいと思っております。
そして子供達の優しい心を育ててほしいと想っております。
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偉大なる盲導犬 アロマの一生
5、アロマ嬉野市の市民に成りました
平成14年12月25日、盲導犬アロマが日本初の町民に認定され佐賀県の嬉野町より住民票を発行して頂きました。
人間以外の.動物が住民票を貰うのは初めての事で、当時、マスコミで大きく取り上げられました。
あれから、三年、嬉野町も平成の大合併でお隣の塩田町と合併し、平成18年1月1日、新市[嬉野市]が誕生しました。
今回、アロマも嬉野市の市民にして頂きたく嬉野市市長[谷口太一郎様]に嬉野市民の証であります、住民票の発行をお願いいたしました。
谷口市長様は、人にも動物にも、とても優しい市長様でアロマの願いを叶えてくださり、アロマに嬉野市より住民票を発行してくださいました。
住民票の交付式は、平成18年3月1日、午後4時、嬉野市総合支所でおこなわれました。
出席者は、谷口市長様をはじめとして嬉野市役所の福祉課の職員さん・嬉野小学校の三年生の子供さん63名と先生・武雄市の御船ヶ丘小学校の五年生の生徒さん4名と父兄の方、岸川マッサージの職員さん、そして、一般の市民の人、合わせて、約100名の出席者がありました。
式典では、谷口市長様より市民の証であります、市民愛犬章をアロマに交付して頂き、嬉しいお言葉を頂きました。
アロマも夢が叶い、うれしそうに、しっぽをふっていました。
その後、アロマから、市長さんへ感謝のお手紙を岸川洋子が代読しました。
最後は、嬉野小学校の生徒さん全員でアロマのテーマ曲[私の名前はアロマです]を大合唱しました。
また、御船ヶ丘小学校の子供達四名がアロマの歌に合わせてダンスを踊ってくれました。
本当に、嬉しい、嬉しい、住民票の交付式でした。
また、アロマパンの販売で盲導犬の支援をしてくださっているアメリカパンさんが、アロマパン180個を寄贈してくださり、参加者全員と嬉野市役所の職員さん全員にプレゼントする事ができ、みなさん喜んで頂きました。
また、盲導犬育成支援の会アロマ基金より、参加してくださった子供さん全員にアロマの下敷をプレゼントしました。
今回、アロマが市民の証であります、住民票を頂いた事は、盲導犬の歴史の大きな1ページであり、本当にすばらしい出来事でした。
嬉野温泉は、九州でも指折りの温泉の町です、
本当に暖かいぬくもりの町です。
でも、それ以上に人の温もりのある町です。
特に、谷口市長は、日本一すばらしい市長さんで、私共嬉野市民の誇りであります。
今回、アロマに市民の証であります住民票を発行してくださいました、嬉野市市長、谷口太一郎様へ心より感謝申し上げます。
また、アロマの晴れの舞台であります、住民票の交付式にご出席頂きました、全ての皆様へ心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
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4、アロマ日本で初めて住民票を貰いました
平成14年12月21日、我が家に盲導犬アロマが来ました。
早速、嬉野町長 谷口太一郎様にご挨拶に行きました。
谷口町長は、人にも動物にも優しい人で、盲導犬アロマの顔をじっと見て、[盲導犬は、一生を目の悪い人の為に尽くす犬だから人間と同じ仕事をしているので、嬉野町の町民として認めます]と言ってアロマに嬉野町の住民票を発行してくださいました。
そして、岸川アロマになりました。
また、役割も[夢先案内人]と言う素晴らしいかたがきを貰いました。
犬が、住民表を発行して貰うのは、日本で始めての事で、全国ニュースになりました。
その後、一ヶ月後に東京の多摩川の[タマちゃん]アザラシに住民票が発行されました。
嬉野町は、谷口町長を初めとして、人にも動物にも優しい町です。
アロマと、町を歩いていると、あちらこちらから、アロマと呼ぶ、子供達の声が聞こえてきます。
今では、アロマは、文字通り嬉野町の住民になりました。
「アロマ」に町民証 佐賀・嬉野町 [毎日新聞1月15日号より]
佐賀県嬉野町は、盲導犬「アロマ」に“町民証”を発行することを決めた。町に初めてやって来た盲導犬で16日、町役場で「嬉野町民愛犬証」を授与する。全国に九つある盲導犬協会によると「盲導犬に“町民証”という話はまだ聞いたことがない」と言う。
アロマは昨年暮れ、長崎と東京のライオンズクラブが支援して、福岡盲導犬協会から同町下宿乙、鍼灸師の岸川美好さん(54)に貸与された。ラブラドルレトリバーの雌で、生後1年9カ月。 岸川さんは全盲に近い視覚障害者。95年に鍼灸院経営を長男に譲り、ボランティアのチンドングループを結成。00年6月には、作曲家、市川昭介さんとの出会いが縁で演歌歌手としてデビューし、現在、福祉施設などへの慰問活動も続けている。
一方で、「障害者支援と盲導犬育成支援」のPRを目的に、昨年1~4月、妻洋子さん(54)と共に、長崎―東京の約1500キロを“二人三脚”で踏破するなど行動派だ。アロマが来て以来、毎日、一緒に散歩などに出掛ける岸川さんは「アロマが来てから家の中が明るくなった。自分の子供のようだ」と話す。 谷口太一郎町長は「町民に一生を尽くす盲導犬は町民と同様だと思う。生き物や動物を大切にする心を町民により育んでもらうためにも、喜んで“町民”と認定することにした」と語る。
岸川さんはアロマに町民証が授与されることに大喜び。「こうした取り組みが広がりさまざまなバリアがなくなることを願っています」と話している。
【米田和俊】
[毎日新聞1月14日] ( 2003-01-14-19:52 )
58回目の結婚記念日
昭和44年6月15日私達夫婦は嬉野の旅館 嬉野館で結婚式を上げてもらいました
元々 妻の両親から歓迎された結婚式ではなく しぶしぶ許してもらった結婚式でした。
私は山口県 宇部市の出身で男兄弟 二人の末っ子で 妻は佐賀県の嬉野町の出身で 女二人姉妹の長女でした
妻の両親は鍼灸マッサージの仕事をしており、妻も小さい頃から親の後ヲ継ぐ事が当然と思い高校を卒業したらすぐに福岡のマッサージ学校に入学しました。
その学校で私達は 知り合い結婚を約束しました。
昭和44年3月30日 仲人を立てて妻を貰いにきました
妻の両親は私達の結婚を許してはくれませんでした
仕方なく二人で家を飛田して 山口県岩国市のマッサージ院で働きました。
それから、三か月後に 長男がお腹に入りしぶしぶ結婚を許してもらいました
結婚の条件は私が妻の家に養子に入ると言うのが妻の両親の条件でした
私もどうしても妻と結婚したいと思い養子と言う条件をのんで佐賀県の嬉野町にきました。
そして、昭和44年6月15日に結婚式を上げてもらいました。
それから、今年で結婚して58年になります
私の両親も妻の両親もこの世には すでにいません
私達夫婦には二人の子供がおり今年55歳になる男の子と50歳になる女の子がいます。
娘には三人の女の子と一人の男の子がいます
本日は佐賀県の太良町の太良観光ホテルに娘と孫4名 そして私達夫婦7名でカニ料理を食べに行きました
太良町はカニが名物でカニを食べさせるお店が沢山あります。
太良観光ホテルは昔からよく行ったお店でとてもゆったり出来るお店です、
以前はよく泊まりに行っていましたが本日は3時間の昼休憩でした
太良観光ホテルの良い所は食後に温泉に入れる事が出来普通の食事の店とはゆったり出来る事です。
私は少しだけ生ビールを飲んでいましたのでお風呂には入らずに1時間ばかり昼寝をしました
娘たちは温泉に入った様でした
今の私の最大の喜びは孫達と美味しい物を食べに行く事です
そして、孫達の嬉しそうな顔を見るのが最大の楽しみです。
いつも 孫達も喜んで参加してくれます
これから先 何度 孫達と食事にいけるか分かりませんが一回でも多く行きたいと思っております。
人生で残せるものはお金や名誉ではありません
思い出だけです
そんな思い出を沢山作って行きたいと思っております。
本日は最高の結婚記念日でした
ありがとうございました
偉大なる盲導犬 アロマの一生
3、 盲導犬の共同訓練
盲導犬の共同訓練は、犬と人間が共に生活し、互いに心を通じ合う為に専門の訓練士が一カ月間付きっきりで訓練をします。
訓練の多くは、一般の路上を犬と歩く訓練です。
通常、午前一回、午後一回、一日に二回の歩行訓練をします。
訓練の場所は、盲導犬の訓練センターがあります福岡県前原市の中心街で、約1時間ぐらい歩きます。
通常、二人か三人の人が同時に訓練を受けます。
私の時は、三人で、初めて盲導犬を貰う人が二人、二頭目の人が一人でした。
始めての人は、約一か月間、二度目の人は、二週間の訓練になっています。
私の訓練の担当は、所長の桜井さんで、始めて盲導犬を貰う人二人が訓練を受けました。
歩行訓練は、訓練センターから車で町にでて歩きます。
私達、訓練を受ける二人の新人さんは、一人づつ交代で歩きます、
一人が歩いている時は、もう一人の人は車の中で待っています。
私達訓練を受ける者は、一回しか歩きませんが訓練士の方は、二度歩く事になります。
ですから、訓練士の方は、一日に四回歩く事になり大変な作業になります。
歩行は、犬と二人三脚で歩きますが、始めの頃は、犬の癖が判らずうまく歩けません。
私達の約5・6メートル後ろから訓練士の方が歩いています。
そして、何か危険な状態になった時は、すぐに飛んで来てサポートしてくれます。
夜は、犬の飼育の事や犬の病気などの講義を受けます。
訓練センターでの宿泊は、約10畳ぐらいの部屋にベットと机そして洗面とトイレがあります。
勿論、犬もその部屋にいます。
朝6時の起床、一番初めの訓練は、犬をおしっこにつれて行く事から始まります。
室内には、犬のトイレなどありませんので外につれて行ってさせます。
その間、訓練士の方は、私達の様子を見ており、決められたやりかたをしないと後で注意されます。
朝食は、午前8時で9時から歩行訓練に出かけます。
昼前に帰って来て昼食を取ります。
その後、少し休憩を取ってまた、午後の歩行訓練に出かけます。
午後5時から入浴、6時から夕食、7時から訓練士の講義と一日ぎっしりとプログラムが組んであります。
午後10時に講義が終わりようやく自分の時間が出来ます。
ベットに入るのは、午前0時過ぎになります。
こんな状態で一か月間訓練を受けます。
訓練が終了してテストがあります。
もし、このテストに合格しない場合は、盲導犬を貰う事は出来ません。
たまに、テストに落ちる人もあるとの事です。
そんな時は、また、後日改めて訓練を受ける事になるそうです。
幸い、私は、テストに合格して予定通り一か月で帰って来る事が出来ました。
偉大なる盲導犬 アロマの一生
2、アロマはこんな犬でした
アロマとの八年半の生活の中でいろんな事がありました。
アロマが私の家に来て二日目、初めてアロマと散歩に行きました。行き先は、嬉野の役場でした。
嬉野の役場は私の家から約700メートルぐらいあります。
その役場にアロマを連れて行きました。
もちろんアロマにとりまして初めて行く場所で私の命令に従って役場まで行きました。
そして、そこでアロマに「ここが嬉野の役場だよ」と教えました。
そして、アロマに家に帰ろうと言いました。
私は、アロマの様子をじっと見ていました。
するとアロマが動き出しました。
方向は今来た道で私の家の方向です。
私は何も言わずにアロマの行く通りについて行きました。
もちろん交差点の所では立ち止まり、私の支持を待っていました。
私は信号が青になりましたのでゴーと言いました。
するとアロマは歩きはじめました。
こうしていくつかの交差点を通り過ぎて我が家に戻ってきました。
我が家に戻った時アロマは私に飛びついて本当に嬉しそうに飛び回っていました。
おそらくヤッターと想ったのではないかとおもいました。
私もアロマの頭を摩ってやりながらこの犬は本当にすごい犬だと想いました。
初めて行った嬉野の役場から私が「家に帰ろう」と言っただけで何も言わずに家につれて帰ってくれました。
翌日、アロマとまた役場まで散歩に行きました。
この時は、家を出てアロマに役場まで行こうと言いました。
すると暫く考えていたようでしたがとぼとぼと歩きはじめました。
私は何も言わずにアロマの行く通りについて行きました。
アロマは昨日行った役場の場所をよく覚えており私をつれて役場の玄関までつれて行ってくれました。
私は、アロマの頭を摩ってやりよくやったとほめてやりました。
アロマもヤッターと言わんばかりに私に飛びついて嬉しそうにしていました。
勿論、帰りも家に帰ろうの一言だけでした。
翌日は郵便局につれて行きました。
前日の役場と同様に郵便局についた時に「ここが郵便局だよ」と教えました。
これでアロマは役場と郵便局を覚えました。
こうして銀行、スーパー、公園など必要な場所を覚えて私をつれて行ってくれました。
まるでタクシーと同じで行き先だけ言えばアロマは安全にしかも確実に目的地までつれて行ってくれました。
私は改めてアロマの頭の良さに関心しました。
それから、こんなこともありました。
アロマが嬉野に来て半月ぐらいたった時、いつものようにアロマと散歩に行きました。
そして、交差点で信号が変わるのを待っていました。
私は信号機が青になったと想いアロマにゴーと言って進もうとしました。
するとアロマは私の前に立ちはだかってバリアを作りました。
そして私が前に進む事が出来ないように私を守ってくれました。
アロマには信号の色は判りません、でも目の前に車が横断しているので危ないと判断して私の前にバリアを作って行けないようにしてくれました。
私は、このアロマの思いやりに強く感動し涙が出ました。
自分の身体を投げ出してまで私の命を守ろうとしてくれるアロマの優しさを生涯忘れる事はありません。
偉大なる盲導犬 アロマの一生
1、 アロマとの出会い
私は重度の視力障害があり今まで妻の手引きで歩いていました。
平成13年3月、知人の勧めで財団法人 福岡盲導犬協会(九州盲導犬協会)に盲導犬の申込をしました。
盲導犬を使用するには、テストがあり私もテストを受けました。
テストの内容は、白い杖で一人で道が歩けるかどうかと言うテストです。
もし、白い杖で道を歩く事の出来ない人には盲導犬は貸与されません。
なぜなら、盲導犬は行き先が判りません、あくまで使用者の命令で動きますので使用者が一人で歩ける事が条件です。
盲導犬の仕事は歩行中の障害者の安全を守事で道案内ではないからです。
幸い、私はテストに合格し盲導犬使用者の資格を貰う事が出来ました。
それから約一年八カ月後の11月、、長崎ライオンズクラブと東京虎ノ門ライオンズクラブの合同で盲導犬を贈って頂く事に成りました。
盲導犬の貸与式は平成14年11月17日[長崎ライオンズクラブ設立45周年の記念式典]で、長崎市グランドホテルで行われました。
当日は、長崎ライオンズクラブの会員の皆様と東京虎ノ門ライオンズクラブ「大山会長」を初めとして、遠くはハワイ・台北・広島よりたくさんの来賓の方がご出席されておられました。
また、福岡盲導犬協会の緒方豊吉理事長と福岡盲導犬訓練センターの桜井所長がご出席され、私に盲導犬を手渡してくださいました。
実は、この時の盲導犬は、アロマではなく盲導犬のテストに落ちた犬でダミーの盲導犬でした。
後日、桜井所長にあの時の犬の名前をお訊ねしたのですが教えては貰えませんでした。
通常、盲導犬の貸与式は盲導犬の共同訓練が終わってからするのですがこの時は長崎ライオンズクラブ設立45周年の記念式があり共同訓練の前に行われました。
尚、アロマとの対面はそれから10日後の11月27日、福岡盲導犬協会の訓練センターでした。
現在、日本で活動している盲導犬は約1000頭で、それに対して盲導犬を必要としている盲人の数は8000名以上おられ、極端に不足しています。
そんな現状の中で私が盲導犬をいただけるのは、本当にラッキーな事です。
私に盲導犬を贈ってくださいました長崎ライオンズクラブ様・東京虎ノ門ライオンズクラブ様に、心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
また、盲導犬支援募金等で募金して頂きました多くの皆様方へ心より感謝申し上げます。
偉大なる盲導犬 アロマの一生
この文章は平成14年11月より 約八年間 私の目となり杖となり常に私を支えてくれた偉大なる盲導犬 アロマの一生です。
僅か八年間と言う短い期間でしたが私にとりましても、また、多くの皆様にとりましてもとても大きな存在になりました。
そんな、一頭のラブラドール・レトリバーの活躍を書きました。
ぜひ、最後まで読んで下さい
また、お知り合いの方にもご案内ください。
アロマプロフィール
犬種 ラブラドール・レトリバー
性別 雌
生誕 2001年3月31日[
死没 2012年10月2日(11歳没)[
2001年3月31日、福岡県大野城市にある繁殖ボランティアの家庭で誕生した。
アロマの名前はかつて福岡盲導犬協会から「功労犬」に認定された同名の祖母に似ているとのことから名付けられた
2001年5月に鹿児島県のパピーウォーカーの家庭に引き取られて育った後
2002年5月に福岡盲導犬協会に移り訓練を実施
同年11月17日に行われた長崎ライオンズクラブ設立45周年記念式典において視覚障害者である
岸川美好に貸与された
2003年1月16日 佐賀県嬉野町からアロマに特別住民票が交付された。
人間以外の動物が住民票を貰ったのはアロマが日本で初で大きな話題になった。
2003年6月 盲導犬のバリアを取り除く為の法律「身体障害者補助犬法」の周知のため岸川美好と共に全国47の都道府県を訪問し各県の知事に陳情した
合わせて盲導犬の街頭募金を行い約200万円を集めた
その後、不足している盲導犬を増やす為に各地で盲導犬の街頭募金を行い 1600万円を集めて盲導犬10頭分の育成資金を九州盲導犬協会に寄贈した。
また、岸川美好と共に県内外の小中学校50カ所以上を訪問し盲導犬のあふれあい学習会を行いました。
また、音楽関係の仲間の協力で10曲の盲導犬ソングとアロマのテーマ曲「私の名前はアロマです」のダンスも出来ました。
引退後九州盲導犬協会より盲導犬で初の功労犬に認定されました。
岸川美好物語
103、今迄に五万枚以上のCDを作り無料で配りました
歌を広めるにはまず、歌を知ってもらわないといけません。
メジャーの歌手の歌はテレビやラジオで放送されます。
以前は有線放送がヒット曲を作っていました、
ところが最近ではあまり有線放送は影響がなくなりました。
CDもあまり売れなくなりました。
私も以前はレコード会社に頼んでCDを作って売っていました。
レコード会社に頼めば2曲入りのCDが1200円ぐらいです。
私達がレコード会社から仕入れる価格は 約七割 840円ぐらいです
一枚売って利益が 約360円ぐらいです
沢山売れれば良いのですが中々売れません
売る為には10倍以上の経費がかかります。
平成14年6月キングレコードより52歳で歌手デビューしました。
デビュー曲は「春びより」 「雪どけ」の2曲です
幸い、テレビ ラジオ 新聞などのマスコミに取り上げて頂き お陰で8000枚以上のCDが売れました。
私達ローカル歌手にとりましてはびっくりするほどの数でした
二枚目のCDからはレコード会社からではなく、直接CDを作る業者に頼んで作りました。
理由はCDの原価を下げる為です。
するとCD一枚の単価が150円ぐらいで出来ました
レコード会社の5分の1の単価です
もっと安く作りたいと思い CDをコピーしてくれる会社を探しました
また、ジャケットや歌詞カードの印刷をしてくれる印刷やさんも探しました
次に、CDや歌詞カードなどを入れる 袋を作る業者を探しました
こうして、それぞれ専門業者に頼んで自宅で組み立てました
初めに作ったCDは嬉野のPRソング「嬉野夢咲音頭」と 高齢化社会を祝って「百歳ぐらいはあたりまえ」の2曲入りのcdでした
枚数は三万枚作りました
そして、嬉野の老人会に頼んで嬉野の高齢者全てに配りました
また、嬉野の夏祭や花火大会でも街頭で配りました
次は、私の作品で通信カラオケに配信されている作品を収録したcdを二万枚作りました
トウタルで五万枚以上のCDを作りました
五万枚のcdの袋入れは大変でしたが1枚 50円で出来ました。
レコード会社の約9分の1の値段です
一枚の単価が下がった事で、多くの人に無料で配る事が出来ました
この様な事が出来たのも、作詞 作曲 歌 全てが私の作品だったからです
他人が入れば こうは行きません
最終的には、五万枚以上のCDを作りました
そして、カラオケ屋さんやスナックで 無料で配りました
また、出会った人に名刺がわりに配りました
CDの内容は通信カラオケに配信されている私の作品です。
新しく通信カラオケに配信されますと新曲入りのcdを作りました
新曲が出たたんびに2000枚づつ作りました
こうしていつの間にか五万枚以上のCDを作っていました
無料で配りましたので、私の歌を唄ってくれる人も少しづつ増えてまいりました。
誰かが通信カラオケで唄えば歌を作った人 作詞家 作曲家に日本音楽著作権協会(ジャスラック)から著作権料が入ります
私も日本音楽著作権協会の会員ですのでカラオケで曲が流れたら著作権料が入ってきます
私共に入る金額は僅かなものです
有名な作詞かや作曲家の先生には年間億の著作権が入っている様です
ちなみに、著作権料は、死後70年間家族に入ると聴いています。
ですから、ヒット曲を沢山作った先生の家族には毎年大きなお金が入る事になります。
その為に家族が争う場合もあるみたいです
私の場合の著作権料はすずめの涙ほどの金額ですから家族がもめる心配はありません。
cdも作る所で値段が大きく違います
ちなみに、私の様に自分でcdを作って無料で配る歌い手さんはどこにもいないと思います。
最近では、cdを作らず ユーチューブにアップしている人も多くなりました
私もユーチューブにアップして歌を聴いて頂いております。
ユーチューブであれば世界中 どこからでも無料で聴く事が出来ます。
とても便利なツールです
私の作品も現在 170曲以上ユーチューブにアップされています。