岸川美好物語
85、岸川美好、嬉野市長選に立候補
平成30年1月14日、嬉野市の市長選と、市会議員の選挙がありました。
この市長選に私 岸川美好が立候補しました。
今回3期市長をされていた谷口太一郎市長が引退されたので新人三名の選挙になりました。
谷口市長は2006年2月に旧嬉野町と旧塩田町の合併により嬉野市が誕生し初めての嬉野市の市長に当選し三期12年市長をされました。
尚、旧嬉野町の時代も三期嬉野町の町長をされていました。
今回の市長選には私を含めて三名の方が立候補されました。
お一人は商業コンサルタントの藤山勝済さん67歳もう一人は佐賀新聞の記者で村上大祐さん35歳の方です。
藤山勝済さんは前回の市長選(四年前)の選挙に立候補され落選され今回が二度目の
挑戦でした。
もう一人の村上大祐さんと私は始めての挑戦でした。
私、以外のお二人は四年前から今回の市長選の準備をしておられいろんな組織や団体
から推薦を貰っておられました。
私が立候補の決心をしたのが告示から一週間前の1月6日の朝です。
1月6日の朝、急に今回の市長選に出ようと想いました。
早速、妻 洋子に市長選に立候補したいと言いました。
妻は一も二もなく反対しました。
妻が反対したので無理かなと想っていましたら妻がさっきの話だけどもう一度聞かせてと言いました。
私は、、妻に想いを本気で言いました。
すると妻は想った通りやったらと言ってくれました。
そして、今回選挙の責任者をしてくださいました宮崎誠一さん、ご夫妻に電話をしたらと言いました。
私はすぐ宮崎誠一さんに相談があるのでぜひ、会いたいとー電話をしました。
するとすぐ来るからと言われ1時間後にご夫婦で来てくださいました。
早速、宮崎ご夫妻に市長選の立候補の事をお話しました。
宮崎さん、ご夫婦とも私の市長選への立候補に賛成してくださり私の市長選への立候補が正式に決りました。
また、選挙の責任者にもなって頂きました、。
宮崎誠一さんは、妻が経営しているカラオケアロマのお客様で私達、歌好きの仲間です。
実は、嬉野市長選への立候補の想いは今から20年前(旧嬉野町)の時代嬉野町長への立候補を考えていました。
当時は今ほど嬉野温泉が寂れてはいませんでした。
でも、寂れる予感がしていました。
その頃自分が嬉野の町長になってこの町をなんとかしたいと言う想いがあり立候補を考えていました。
ところが、その頃は仕事の関係で町長になる事が無理で立候補の決心がつきませんでした。
でも、今回は以前の嬉野に比べてとても寂れており自分が何とかしたいと想う心が強く市長選に立候補する決心をしました。
1月6日(土曜日) 市長選に立候補を決めた夜カラオケアロマにてカラオケのお客様に市長選に立候補する事をお話しました。
すると噂があっと広がり、報道関係者の耳に入りました。
2日後の1月8日(月曜日)の午後佐賀新聞の記者の方より電話があり取材に来たいとの電話でした。
午後4時、佐賀新聞の記者の方が取材に来られました。
約2時間今回市長選に出る動悸や公約など聞かれました。
そんな中、西日本新聞の記者の方より電話があり取材をしたいと電話がありました。
6時には終わると想い6時に会う約束をしました。
ところが佐賀新聞の取材は2時間たっても終わりませんでした。
午後6時、西日本新聞の記者の方と共に数社の新聞者の方やテレビ局の方がこられました。
私はプロフィールや公約など書いた印刷物を取材にこられた記者の方にわたしました
翌1月9日の朝刊に掲載されました。
1月9日(火曜日)朝8時30分に嬉野市役所の選挙管理委員会に宮崎誠一さんと妻の三人で行きました。
そして、立候補する為の必要書類を頂き午前10時30分に自宅に帰ってきました。
自宅には報道関係の方が沢山待っておられました。
早速、記者会見、いろんな事を聞かれました。
約1時間の取材が終わり遅めの朝食をとりました。
1月6日市長選に立候補を決めた日の午後からは選挙に使う宣伝カーの手配、ポスターの手配、運転手やうぐいす嬢その他選挙を手伝ってくれるスタッフさがしをしました
1月9日、市役所の選挙管理委員会からもらった提出書類の記入、選挙公約の作成報道関係の書類などとても忙しい時間でした。
1月11日 選挙に出る為の供託金の振込みをしました。
選挙に出るには供託金をはらわなければ出る事が出来ません。
供託金の金額は選挙の種類によって異なり市会議員は30万円、市長は100万円、県知事、及び国会議員は300万円になっています。
この供託金の制度は本当に立候補の意思のあるかどうかの確認の意味です。
面白半分やひやかし半分で出る人を除く為の制度です。
供託金は一定の表がないと没収となります。
没収となる最低の表は有効投票数の10パーセントとなっております。
今回、嬉野市長選の有権者数は 22,453人、投票者数は 15833人 投票率は70.52%
でした。
従って15833表の10パーセント、1538表が必要です。
これ以下は供託金は没収となります。
また、選挙に必要な宣伝カー、ポスター、チラシ、運転手の給与、ガソリン代などの補助も出ません。
1月11日午後銀行から供託金の100万円をおろし武雄の佐賀銀行から武雄法務局へ振り込みました。
その後、法務局に行き振込み官僚の証明書を頂き帰宅しました。
これで一様選挙に出る事ができるようになりました。
1月13日、告示の前日、昼12時よりカラオケアロマの一月の月齢発表会があり参加しました、
発表会の参加者は二十数名の方がおられその場で今回の市長選への立候補の想いをお話しました。
みなさんとてもおどろいておられました。
午後5時、嬉野公会堂に妻と二人で行きました。
この日は嬉野商工会青年部主催の市長候補の公開討論会が予定されており私も参加しました。
公開討論会は以前から計画されており、町のいろんな所に案内の掲示物が貼ってありました。
当初はお二人だけの討論会でしたので討論会のやりかたが違っていましたが私が出た
事でやりかたがかわったそうです。
内容はコーリネータがあらかじめ指定している項目を一人一人候補者に質問する形式で5つの項目がありました。
公開討論会の項目は1、教育・ 2、子育て、 3、医療福祉、 4、地域活性化・ 5
、まちづくりの五つでした。
他の二名の候補者はあらかじめノートに書いておられましたが私は文字を読む事が出来ませんので全て言葉で伝えました。
会場には200名の方が来ておられました。
また、この討論会の様子が地元ケーブルテレビで生放送されました。
1月14日、いよいよ選挙が始まりました。
今回、岸川美好の選挙事務所は嬉野本通りのカラオケアロマが事務所です。
午前8時30分選挙責任者の宮崎さんが嬉野市役所の選挙管理委員会に行き、立候補の
申し込みをして選挙の七つ道具を貰ってきてくださいました。
また、ポスターを貼る為の掲示板の場所の籤んがあり1番をひかれました。
午前10時事務所で出陣式を行いました。
事務所には20名の支持者と報道関係の10名の方がこられました。
私は市長候補 岸川美好と書いたタスキと選挙管理委員会から頂いたリボンを胸につ
けて今回立候補した目的をお話しました。
最後に私の想いを込め私の作詩作曲の(人生)を力を込めて歌いました。
みなさん、大きな拍手と声援をくださいました。
今回の市長選の私の公約は下記の通りです。
私が市長になってやること
①嬉野市を日本一の観光地にします。
・日本中・アジア中に嬉野市を宣伝します。
・嬉野伝統の文化芸能を保護し継承していきます
・吉田焼・志田焼を日本中、世界中に発信します
・嬉野市独自の食文化を守り育てます。
②若者がこの町で働く事のできる企業誘致
・新幹線、高速道路網のアクセスを生かす町作り
・研修生制度を利用した農業・産業の活性化
③高齢者、障碍者が安心して住める優しい町作り
・今の政策を更に住民に寄り添った政策にします
・未来の嬉野を担う子供たちへの教育の充実
・教職員の負担減の政策を考えます。
・現在の図書室を充実した図書館にします。
・嬉野幹部派出所を警察署へ格上げします・
以上が公約です。
いよいよ一週間の選挙選がはじまりました。
スタートは嬉野の本通を、妻の手引きで支持を訴えながら歩きました。
その後、宣伝カーに乗り、市内をうぐいす嬢のメッセージと共に私がマイクで挨拶しました。
車は二台、一台は私が乗る選挙の宣伝カー
もう一台は伴奏者でスタッフの方が乗っていました。
この日の伴奏者はポスター貼りで市内102ヶ所の掲示板に私のポスターを貼りに行ってくれました。
選挙の掲示板は市内に102ヶ所あり決められた場所にポスターを貼ります。
1月14日の朝、立候補の届けを出した時くじ引きで貼る場所が決ります。
私の場所は、1番の場所で102ヶ所全て1番の所に貼りました。
朝10時30分からポスター貼りをしたのですが終わったのは午後5時でした。
事務所ではスタッフの方が新聞に入れるチラシに選挙管理委員会からもらったチラシに貼るシールを一枚づつ貼ってくれていました。
新聞に入れるチラシの枚数も決っており16000枚しか入れる事ができません。
このシールのないチラシは配る事ができません。
もし、シールの無いチラシを配ると選挙違反になります。
妻は、選挙を手伝ってくれるスタッフの食事の準備で一日中忙しくしていました。
午後7時、外延活動を終えて事務所に帰って来ました。
みなさん本当に一生懸命に頑張ってくださいました。
今回私は100回以上の演説をしました。
 場所によっては5分、10分と時間は異なりましたが一生懸命に自分の想いを伝えました。
今回、市長選に3名、市会議員選挙に18名の方が立候補しましたが演説をしたのは私だけだったそうです。
1月20日、選挙の最終日朝8時から車で嬉野市内を外延しました。
午後4時スタッフ全員で嬉野の本通を歩いて最後の訴えをしました。
途中10ヵ所で最後の演説をしました。
声は、前日でかれていましたがこれで終わりと思い最大限の大声で演説しました。
当日は盲導犬アロマも参加しました。
実は、平成15年盲導犬のバリアを取り除く為に全国47の都道府県知事への訪問の時四国のデパートにあった盲導犬の人形(等身大)を荷車に載せてハーネスを付けて町を歩きました。
六年ぶりの盲導犬との歩行でした。
町の皆様も天国に行ったアロマの事を思い出してくださいました。
午後8時、一週間の市長選が終わりました。
とても短く感じました。
今回、初めて選挙を戦い改めて人様のぬくもりを感じました。
また、厳しさも感じました。
この人はきっと入れてくれると想った人が(今回はもうすでに投票する人を決め手いるすまないけど許して)と言う言葉を沢山聴きました。
とても正直な方です。
また、その気も無いのに入れるよという人もあり人様の心を見たような気がしました
1月21日、午前11時、妻と二人で投票場に行きました。
初めに市長の選挙の投票用紙を頂きました。
選挙の時はいつも同じですが係りの人に代理で書いて頂いています。
今回も書いて頂きました。
係りの人は市長は誰に入れますかとたずねられました。
勿論岸川美好と頼みました
係りの人も勿論解っていましたが一様たずねてくださいました。
そして、投票箱に自らの手でいれました。
当選させてくれと心の中で祈りました。
その後市会議員の投票がありそれも代理で書いていただき投票しました。
今回、生まれて初めて投票に行って自分の名前を書く事がとても不思議でした。
今迄の選挙はいつも他人の名前を書いていました。
今回は、一生忘れられない投票日になりました。
午後7時投票が締め切られ選挙が終わりました。
私達夫婦は午後7時に選挙事務所に行き応援してくださったスタッフの皆様や指示してくださった方を待っていました。
次から次と支援者の方が集まってこられ事務所はわきあいあいと楽しい空気になりました。
午後8次嬉野市体育館で市長選の開票が始まりました。
選挙責任者の宮崎さんが体育館に行き開票の情況を見守ってくれていました。
午後9時30分宮崎さんより電話があり一回目の開票の票数の報告がありました。
村上さん 5000表 藤山さん5000表 岸川美好350表の報告でした。
開票率65パーセント時点
私は事務所で待機している支援者の方にこの数字をお伝えしました。
みなさんいままでの元気はどこかに消えてシーンとなりました。
敗北が決定した瞬間でした。
さすがに元気な私もこの時だけはとても辛い想いでした。
でも、今私が元気をなくしてしまうと応援してくださった皆様に申し訳ないと想い(
まだ65パーセントの開票ですからきっと逆転しますよ)と言いました。
もちろん5000表と350表の差はちじめる事は出来ない事はだれよりも私がよく知っています。
午後11時全ての開票が終わり村上大祐さんが当選しました。
 1 村上大祐 無新 7890 2 藤山勝済 無新 7312 3 岸川美好 無新 415
当選した村上さんと落選した藤山さんの差は僅か580表の差で落選藤山さんはとても悔しい思いではなかったかと想います。
私はお二人の20分の1の投票でしたので落選しても特別にショックはありませんでした。
むしろこれだけの表を頂いた事に感謝の心でいっぱいでした
落選が決り事務所にこられていた支援者の方も落胆して帰っていかれました。
最後に新聞社の取材があり今回の結果についての感想をたずねられました。
私はこの様に、感想を言いました。
1、今回の選挙は負けたとは想いません
なぜなら、私が立候補したのが告示から一週間前で準備の時間がなかった事です。
他の候補者は4年前から準備されていました。
私は一週間で415表他の方は4年間で7000表日割りで計算すると私の方が勝手いますよと言いました
2、今回私が負けた理由の多くは私が目が見えないと言うハンデーがあった事です。
多くの人は目が見えない人は何も出来ないと想っておられます。
その事が敗因の大きな原因だったと想います。
確かに、目が見えないと、読んだり書いたりは不十ですが、そんな物はどうにでもなります。
市長として一番大切なのは考え方やアイデアー実行力です。
また、周囲の方からのしがらみです。
選挙を応援してくれた人から要望があった時本当に断る事が出来るかどうかです。
市民の方に向いて政治を行うのか、支援者の方を向いて政治をするのか
3、私は今回残念ながら落選しましたが気持ちは嬉野市長になったつもりでこれからも嬉野の為に頑張って行きます。
公約でも言いました通り嬉野市は観光の町です、今とても厳しい情況です。
現在は外国人の観光客で少しはうるおっていますがいつ来なくなるかもわかりません
ですから今の内九州はもとより日本全体に嬉野のPRをしなければなりません。
後四年後に長崎新幹線が開通して嬉野に駅が出来ます
その時に一人でも多くの人に嬉野におりていただきたいと心から願っています、
私の心は嬉野の市長をやっております。
これからも全国に向けて素晴らしい嬉野の魅力を発信して行きます。
今回、私の為にお手伝い頂きましたスタッフの皆様、また、今回私に投票してくださいました全ての皆様へ心より感謝申し上げます
本当にありがとうございました。


 

岸川美好物語
84、インプラントへの挑戦
平成29年4月24日、上の歯6本を抜いて、上の歯が全て無くなり、総入れ歯になりました。
下の歯は真ん中の5本だけで左右の奥歯も無く入れ歯でした。
平成11年10月より半年間かけて佐賀市の歯科に通院して歯の治療をしてもらいました。
その時インプランドが出来ないでしょうかとお尋ねしました。
結論は出来ないとの事でした。
理由は私の歯の根っこがとても薄くインプランドのビスを入れる事が出来ないとの解答でした。
インプランドのビスを埋め込むには最低10ミリの骨がないと出来ないとの事、ところが私の場合1ミリしか無いので絶対に出来ないと言われ仕方なく普通の入歯にしました。
入歯は何かしっくりこなくてはずしている事が多く会わなくなってきました。
平成29年4月24日
嬉野の歯科で上の歯6本を抜いて上の歯が総入歯になりました。
総入歯はとても不自由で入歯安定剤をつけないとすぐにとれてしまい食事をする事もできません。
また、通常の会話もしにくく言葉がはっきりしません。
特に、歌など歌う時とても歌いにくく不自由な感じがしました。
今から先何年生きるかわかりませんが例え短い命であっても不自由な生活はしたくないと想っていました。
そして、もう一度インプランドにしたいと想いました。
5月8日 抜歯後初の歯科に診察に行きました。
そしてインプランドの相談をしました。
すると先生がここでは出来ないけど博多に行けば出来るかもわからないと言われインプランドの出来る歯科を紹介してくださいました。
早速、その日の夕方博多の歯科(デンタルチームジャパーン)に電話をしました。
そして、翌日5月9日の17時に診察の予約をとりました。
実は、5月9日は新曲アルバムの最後のレコーディングの日で福岡のスタジオに行く日でした。
レコーディングは午前11時から午後4時までの予定でしたので5時に歯科に行く事が出来ました。
5月9日 朝8時の高速バスで博多に行き11時から最後の吹き込みをしました。
午後4時予定通り吹き込みが終わりタクシーで博多駅前の歯科に行きました。
早速、歯のレントゲンなど取って頂インプランドが出来るか出来ないかの診察をして頂きました。
結論は、出来るとの事、但し費用と時間がかかるとの説明でした。
費用は上下全てインプランドにした場合460万円との事、期間は約八ヶ月ぐらいかかるとの説明でした。
通常の場合歯を埋め込む骨が10ミリぐらいあればもう少し安くできるのですが私の場合、1ミリしかないので下地の骨を再生するのに普通より費用も時間も沢山かかるとの事でした。
期間はともかくとしても費用が500万円近くかかるのでどうしようかと妻に相談しました。
妻は、一も二もなくすぐにしてもらったらと言いました。
妻の後押しでインプランドの治療をお願いしました。
最終的な費用は30万円まけてくださり430万円で契約しました。
契約が完了後、早速治療の準備の為CTの撮影がありCTを取ってもらいました。
そして、第一回目の治療の日を予約して帰宅しました。
●一回目の治療 平成29年5月16日
右の下の奥歯にインプランドの根っこのビスの打ち込みと左下のダメになった歯を一本抜いてその場所に血液を入れ込む治療でした。
治療時間は約2時間ぐらいかかりました。
18回目 平成30年7月26日
治療の最終日でインプランドの歯が入りました。
今までかりの歯でしたが今回は正式なインプランド用の歯を入れてもらいました。
歯の材質はセラミックでツヤがありとてもきれいな歯が入りました。
歯の数は上が14本下が四本で合計で18本でした。
これで、全ての歯が入りました。
19回目 平成30年8月6日
本日は最終的なインプランドの確認の為の来院でした。
従って治療はありませんでしたがレントゲンの撮影がありました。
その後、医師からの説明とメンテランスの説明があり治療前と治療後のレントゲン写真の資料をいただきました。
また、三年間の保証の証書を頂き今回の治療が全て終了しました。
昨年5月より約15か月 計18回の治療と費用も4300000円と高額でしたがインプランドにして本当によかったと思っております。
レンタルチームジャパーンは医療技術もスタッフの態様もとても良く素晴らしい歯科ではないかと思います。
今回、私の治療の為に素晴らしい技術で治療にあたってくださいましたレンタルチームジャパーンの医師並びにスタッフの皆様に心より感謝申し上げます。
また、私のインプランドの治療の為に私の手引きをして通院の手伝いをしてくれた妻洋子と妹清子に心より感謝申し上げます。
後は、一日でも長く生きて社会に貢献する事が今回お手伝いしてくださいました全ての人への恩返しではないかと思っております。


 

岸川美好物語
83、四枚のCDを発売致しました
平成29年5月24日に岸川美好が作りました四枚のCDが発売されました。
一枚目のCDは岸川美好が歌っている六曲入りのアルバムで二つ目のCDも岸川美好が歌
っている六曲入りのアルバムです。
三枚目は岸川洋子が歌っている二曲入りのシングルCDです。
四枚目は林 進一が歌っている二曲入りのシングルCDです。
岸川美好のアルバムの12曲は男の道   日陰の女   悲しみの札幌   男の夢
女の意地   別れ宿 小樽の恋  二人で越えよう   三年ぶりだね 嘘で生き
てる女です 俺は流しのギター弾き もういらなくなったのね   花は黙って咲い
ている
岸川洋子のCDは おかみ   極楽とんぼのあんたに惚れた  の二曲です
林 進一のCDは博多屋台のおやじ   冬の花  の二曲です。
上記の16の作品です。
作詩は全て岸川美好の作詩で作曲は悲しみの札幌と博多屋台のおやじの二曲は札幌の
作曲家(小松だ哲夫さん)にして頂きました。
この二つ以外の14曲は岸川美好が作曲しました。
CDの発売は平成29年5月24日、ケーミュージックから発売されました。
岸川美好の(悲しみの札幌)と岸川洋子の(おかみ)は来年、ダムの通信カラ
オケに入る予定です。
悲しみの札幌は北海道最大の都市札幌のススキので働いている夜の女性をテーマにし
た作品で北海道から全国に発信されヒットしていけばいいと願っております。
岸川洋子の(おかみ)は旅館で頑張っておられるおかみさんをテーマにした作品でお
かみさんの応援かになればと思いつくりました。
林進一の博多屋台のおやじは博多の名物の屋台をテーマとして作りました作品で博多から全国に広がっていくのではないかとおもいます。


 

岸川美好物語
82、日本作曲家協会に入会しまし

平成29年8月18日日本作曲家協会に入会しました。
この会は日本で最も権威のある作曲家の会で今年で60年に成ります。
初代会長は古賀政男先生でその後、服部良一先生 船村徹先生
遠藤 実先生 服部克久先生 叶 弦大先生と日本の代表的な先生の団体です。
今年から今最も売れている弦 哲也先生が会長をされておられます。
入会には厳しい査定がありその後、作曲家協会の理事の先生の面接がありました。
平成29年8月18日午後1時30分日本作曲家協会の会館で面接がありました。
私を面接してくださった先生は 理事の徳久広司先生と水森英夫先生の二名で約1時
間お話をしました。
今回、日本作曲家協会に入会出来て本当に良かったと思っております。
これからは、先輩の先生方にご指導を頂き、人様の心に夢と感動を与えられる作品を
作って行こうと想っています。
平成29年9月25日東京の帝国ホテルで日本作曲家協会の60周年のパーティーがあり妻
と妻の妹の清子と三人で参加
しました。
参加者は約400名で日本を代表する音楽関係の方が沢山こられていました。
勿論作曲家協会の理事の先生と会員、作詞家協会の会長さんやレコード会社の代表の
方と普段会う事の出来ない人ばかりでした。
また、歌手の人も沢山こられていました。
歌手の代表は北島三郎さんでご挨拶をされました。
乾杯の音頭は歌手の五木ひろしさんでテレビでしか見る事の出来ない人ばかりでした
私がきずいた歌手は 細川たかしさん 八代アキさん 大槻みやこさん 氷川きよし
さん 川中みゆきさんでそれ以外にも30名ぐらいの歌手が参加しておられました。
会場には生 ばんドが入っており当日参加されていた歌手のヒット曲を演奏しておら
れました。
約2時間のパーティーでしたが飲み物も料理もとても美味しく楽しいパーティーでし
た。
次回は10年後の70周年のパーティーと想います。
それまで元気で頑張ってぜひ、70周年のパーティーにも参加したいと想っております
平成29年10月30日熱海の後楽園ホテルで日本作曲家協会の研修旅行があり妻と二人で
参加しました。
その日、午前11時より今年7月21日にお亡くなりなられた作曲家の平尾昌晃先生のお
別れの会が東京の青山葬儀上であり研修旅行の前に参加しました。
当日の飛行機では間に合わないので前日の10月29日の飛行機で行きました。
歌手の人も沢山来ておられとてもすばらしいお別れ会でした。
参列者も2200名以上が来ておられ献花の時間もずいぶんかかりました。
その後新幹線で熱海に移動して作曲家協会の研修会に参加しました。
参加者は108名でとても楽しい懇親会でした。
テレビでしか見る事の出来ない先生ともお酒を飲みながら楽しくお話しました。
懇親会終了後先輩の先生のお部屋で珍しいお話を沢山聴く事が出来とても勉強になり
ました。
また、来年の研修旅行にも参加したいと想っております。


 

岸川美好物語
81、愛再びと言う曲が出来ました
平成29年10月25日、古家裕子さんとの、デュエット曲、愛再びと言う曲が発売されました。
この作品は作詩が私 岸川美好、作曲が白河匠先生、歌は岸川美好と古家裕子さんで
歌っています。
古家裕子さんは東京の女性の歌手で、私の作品を見てぜひ、私に詩を書いてほしい、私と一緒に歌いたいとの希望があり、この作品を作りました。
レコーディングは東京のスタジオで29年8月20日に古家さんと一緒にしました。
作品の内容はある日偶然、町で以前つきあっていた彼女に出会いもう一度つきあって
ほしいと言うラブソングでとてもムードのある作品に仕上がりました。
レコーディングは8月20日東京で行いました。
今回8月18日に日本作曲家協会の入会の為の面接が東京の作曲家協会の事務所であり
面接をしました。
その後、東京の新宿の和風のレストランで古家さんとお食事をしました。
レコーディングの二日前の夜でした。
一緒に歌うには相手の人柄など知っておく必要があり約3時間食事をしながらお話しました。
お陰で二日後のレコーディングはスムースに終わる事ができました。
今回、まったく知らない人から作品の依頼と歌の依頼がありとても良かったと想っています。

 

岸川美好物語
80、岸川美好デビュー17周年の記念アルバムを作りました
   私は平成10年日本作詞家協会の会長の星野哲郎先生の推薦で日本作詞家協会に入会しました。
   そして約10年間作詞活動をしました。
   平成20年から大腸ガンの為に作詞活動を休止していましたが平成25年7月に再び日本作詞家協会に復帰しました。
   早速、作詞をしようと思い新たな目標を設定しました。
   その目標とは今年の12月31日までの約160日間で100の詩を書く目標でした、
   ところが、思った以上に早く出来て75日で100の詩を書く事ができました。
   それから2年後の平成27年7月にこの時に作った100の詩の中から16曲の詩を選んで岸川美好デビュー17周年の記念アルバムを作る事にしました。
   最初の作業は100の詩の中から16曲を選ぶ作業でした。
   妻と二人で16曲を選びました。
   そして、cdの作成をしてくれるレコード会社に16の詩を送りました。
普通は2曲のシングルを作る人が多い意のですが私は2曲ぐらいでは満足できずに思い切って16曲のアルバムにチャレンジしました。
   作曲と編曲はレコード会社所属の作曲家の先生が作ってくださいました。
そして、7月の末に一つ目の曲がメールで送ってきました。
   その後、二曲目、三極目と曲が送ってきました。
そして、11月には16の全ての曲が送ってきました。
出来るだけ早く作品を作りたいと思い毎日歌の練習をしました。
レコーディングは東京のスタジオで翌年1月20日から三日間で終了しました。
レコーディングはとても時間がかかり一曲仕上げるのに4時間ぐらいかかります。
   ですから一日に2曲が普通です。
今回、16曲のレコーディングですので、通常は8日間かかりますが、頑張って3日間で吹き込みを完了しました。
初日7曲、二日目6曲、3日目3曲、吹き込みをしました。
発売日は平成27年4月1日でした。
今回、選びました曲はいろんな人の生き方や思い肩を私なりに表現した作品で私の自信作です。
作品名は   ①さだめ      ②ぶこつもの      ③とうさんありがとう④跡継ぎ ⑤かあさん一緒に暮らそうよ⑥母さんみてるか⑦金婚式⑧博多の男と浪花の女⑨俺の大事な馬鹿なやつ⑩        着たきりすずめ⑪道頓堀よありがとう⑫都会の中のふるさと酒場⑬湯の町嬉野しのび宿⑭憎いあいつ⑮雨の長崎尋ね人⑯        母の願いの16曲です。
特に力を入れて作りましたのが(湯の町嬉野しのび宿)と言う曲です。
この曲は地元嬉野を全国にPRする為に作った曲でこの曲だけ
1万枚のサンプルCDを作り全国に無料で配りました。
今回のアルバムはとても良く出来たと思っております。


 

岸川美好物語
79、武夫と嬉野でカラオケ屋さんを始めました
平成28年2月佐賀県武雄市に作りました岸川健康増進センターでカラオケ喫茶をオープンしました。
屋号はカラオケアロマ武夫店で通信カラオケはダムのカラオケを入れました。
現在通信カラオケの会社はダムとジョイサウンドが98パーセントでその内ダムが70パーセントをしめております。
室内には一坪ぐらいのステージを作りそこで歌って頂きました。
営業時間は昼12時から17時までで料金は歌い放題でお一人500円で始めました。
特に宣伝はしませんでしたので、そんなに多くのお客様は、こられませんでした。
でも、一度こられた方が知り合いの人にPRをしてくださり一日に4 5人来られるようになりました。
私は一人でも多くの人に来て頂きたいと思いイベントをしました。
7月に夏の紅白歌合戦、9月に秋の紅白歌合戦 11月に第一回歌謡選手権とイベントをしました。
紅白歌合戦はNHKの紅白歌合戦をまねして、男性20名女性20名が参加して、得意の歌を歌って頂くイベントで審査委員が白玉 赤玉を箱に入れて勝ち負けを決めるイベントです。
皆様とても楽しそうに歌っておられました。
平成28年.10月嬉野の本通りに30坪の土地に古い二階建ての売りやが出ました。
妻はぜひ、この建物を購入したいと言い出しましたので見に行きました。
以前はおみあげ店でしたので一階は何もありませんでしたのでカラオケ喫茶に向いていると思い購入しました。
早速、室内を改築しました。
壁や天上 床などを張り変えてステージを作り少し形に成ってきました。
約一週間で改築が終わりカラオケ屋さんの営業を始めました。
屋号はカラオケアロマ嬉野店としました。
料金はお一人歌い放題1000円でスタートしました。
嬉野店は嬉野温泉の中心部にありますので観光のお客様も時々来られて楽しいひとときを過ごしておられます。
また、平成29年3月より毎月第二土曜日の昼1時から月例発表会を開始しました。
発表会ですので皆さん気軽に参加して楽しい時間を過ごされておられました。
現在、カラオケの店は大きく分けてカラオケボックスとカラオケ喫茶の二つがあります。
カラオケボックスは比較的若い人が多く利用しておられ気の合った仲間が利用しています。
カラオケ喫茶はオープンでいろんな人が同じ場所で歌っています。
こちらは比較的高齢者の人の利用が多く平均年齢が70歳ぐらいです。
カラオケに来られる人はお年寄りでもとても元気で若々しい感じがしております。
歌を歌うことはとても体に良く、健康で長生きできる一番の特効薬ではないかと思います。
今回、カラオケ屋さんを始めて本当に良かったと思います。
なぜなら、皆さんの遊ぶ場所がつくれた事です。
正直言ってカラオケ屋さんの経営はあまり楽ではありません。
どこのカラオケ屋さんも厳しい経営をしておられます。
でも、どこのオーナーもお客様が楽しく歌っておられる姿を見て一日でも長く続けたいと頑張っておられます。
私たちも出来るだけ長くカラオケ屋さんを続けて地域の皆様の役にたちたいと思っております。

 

岸川美好物語
78、岸川健康増進センターのオープン
   平成27年11月、妻洋子が佐賀県武雄市西川登町にあった古い木造の家を買いたいと言い出しました。、
   場所は国道34号線に面しており武雄から嬉野に行く途中で、日の出城の信号のすぐそばでした。
   この家は昭和23年に立てられた家で築68年たっており室内はボロボロで柱もシロアリ
   に食われており、床もぶあぶあで今にもくずれそうでした。
   私は妻からこの家が欲しいと言われた時、大反対しました。
   なぜなら、人が住める様な家ではなかったからです。
   場所も嬉野の自宅から車で約8分ぐらいかかり行き来するには少し不便な場所であっ
   たからです。
   敷地は53坪で建物は約35坪の小さな二階建ての家でした。
   一階に六畳と八畳の畳の部屋があり六畳の台所と十畳ぐらいの土間がありました。
   二階は四畳の部屋が二つありどちらも天井が低く背の高い人なら頭がつかえます。
   車を止めるスペースは一台分しか無く店舗にする事も出来ません。
   今年の三月まで女性の人が一人で住んでいたそうですが出られたので家主さんが次の
   借り手を捜してほしいと武雄の不動産屋さんに頼んだのですがあまりにボロボロの為
   に今時こんな家を借りる人はいません、もし、貸家にするのなら室内を全面的にリホ
   ームしなければ借りてはないと言われたそうです。
   むしろ、買う人がいたら売った方が良いと言われて売りに出したそうです。
   それから、八ヶ月後の11月、妻がこの家を見て私達が買う事になりました。
   私は妻と二人でこの家を見た時、正直言ってぜったいに買いたく内と想いました。
   なぜなら、畳はボロボロ壁もボロボロ、匂いはカビ臭く少しの時間でもいたくない感
   じでした。
   土間に行きますと崩れたクドと井戸がありました。
   妻がこの家を欲しいと想った大きな理由はクドがあったからだそうです。
   それともう一つは国道34号線に面していたからだそうです。
   子供の頃から国道34号線ぞいに土地が欲しいと想っていたそうでこの二つの欲しい物
   がこの家だったそうです。
   ずいぶん反対したのですがどうしてもあきらめる様子がありませんでしたので仕方な
   く買う事を許可しました。
   買う事が決まりますと次はこのボロボロの家を生かす事を考えました。
   自宅は十数年前に嬉野に作りましたので住み屋は必要ありません。
   借家にしてもかなりリホームしなければなりません、しかも借家にしても家賃はせい
   ぜい3万円から4万円程度です。
   店舗にするには駐車場が一台しかありませんので店舗にもなりません。
   この場所は武雄と嬉野の中間で建物はほとんど無く、だれも歩く人はいません。
   道路は長崎と佐賀を結ぶ国道で一日に何万台もの車が通っております。
   私は店舗にする事を考えていましたので近くに売り地がないかと妻に言いました。
   するとすぐ横に47坪の空き地がありました。
   その土地の地主さんに電話をして売ってほしいと頼みました。
   すると先方も売りたいと想っていたとの事でとんとんびょうしに話が決まり初めの53
   坪の土地と隣の47坪の土地を同時に購入して会わせて100坪の敷地が出来ました。
   ところが、二つの土地の間には、約1メートル幅の溝がありこの溝が二つの土地を分
   断していました。
   溝の所有者を調べますと武雄市の所有でしたので武雄市に払い下げてほしいと頼みま
   した。
   ところがこの溝は現在農業用水が流れているので売る事はできないとの回答でした。
   では、この溝に蓋をさしてほしいと頼みました。
   すると武雄市の言うとおりにすれば蓋をしても良いとの回答があり専門業者にお願いして蓋をして頂きました。
   ちなみに、蓋の工事費だけで約80万円ぐらいかかりました。
   でも、二つの土地が繋がってとても使いかってが良い土地になり車も8台ぐらい止め
   る事が出来る様になりました。
   次に、室内のリホームです。
   畳をはぐると床板は腐っており柱もシロアリに食われておりスカスカでした。
   早速知り合いの大工さんに来てもらい室内を見てもらいました。
   大工さんはこの家ょ何の店にするかと聞かれました。
   とうぜんの事です。
   店の内容によってリホームの仕方が違うからです。
   私は、当初、鍼灸とマッサージの治療院をしようと想いました。
   工事に入り途中で何度も変更になりました。
   それは、井戸を掘る事を考えたからです。
   実は、この地区は嬉野温泉と同じ地下水が湧き出る地区で周囲のホテルにもツルツルスベスベの地下水が出ると聞いていたからです。
   早速、近くのホテルに妻と二人でお風呂に入りに行きました。
   予想通りツルツルスベスベのローションみたいな素晴らしいお湯でした。
   結局出たり入ったりして5回もお風呂にはいりました。
   帰りにはホテルの人にお願いしてペットボトルを貰いお湯を汲んで帰りました。
   そして、そのお湯で豆腐を炊いてみました。
   すると嬉野温泉名物の温泉湯豆腐が出来上がりました。
   嬉野の湯は弱アルカリ性のお湯でこのお湯で豆腐を炊くと豆腐がとろけて温泉湯豆腐
   になります。
   この嬉野の湯と同じ泉質のお湯でした。
   私は、妻と相談して井戸を掘る決心をしました。
   早速、地元の井戸を掘る会社に電話をして井戸を掘ってもらいました。
   約二週間五に待望の地下水が出てきました。
   当初、建物の外に風呂を作る予定でしたが大工さんが工夫して今迄土間だった所に風呂を作る事が出来ました。
   風呂は最新式のユニットバスで最も大きな浴槽の物を作る事が出来ました。
   次に、この地下水を使って湯豆腐の店をする事にしました。
   これで、鍼灸院と貸切家族風炉と湯豆腐の店をする事にしました。
   そして、ついでにカラオケ屋さんもしようと思い第一興商の通信カラオケを入れました。
   カラオケ屋さんは保健所の許可は必要ありませんが治療院と湯豆腐の店と貸切風呂は
   保健所の許可が必要です。
   治療院の許可は比較的取りやすいのですが飲食店の営業許可と風呂やの営業許可がな
   かなかおりませんでした。
   特に、風呂屋(公衆浴場)の許可がなかなかおりませんでした。
   普通の水道水を使うのなら簡単に許可が出るのですが地下水を使うので水質検査が厳しく何度も水質検査をしました。
   合格するには15ぐらいの項目があり全てが基準値以下でないと合格しません。
   検査の項目は水の濁り、カルシュームやマンガンの量、細菌や大腸菌、ペーハーなど
   いろいろとありました。
   水質検査の費用は一回の検査料が約2万円結局5回検査をして10万円ぐらいかかりました。
   始めの水質検査では15項目の内、13項目ぐらいアブトでした。濁りやマンガンが多く
   専用の機械を付けて二度目の水質検査をしました。
   すると二つの項目が合格しました。
   こうして基準をみたす為の機械を付けてようやく五回目で合格して四か月後の4月に
   公衆浴場の許可を保健所からもらいました。
   これで、すべての営業許可をもらい岸川健康増進センターは全面的にオープンしました。
   お風呂に入り治療を受けて名物の温泉湯豆腐を食べてカラオケを歌って一日ゆっくり
   遊べる施設のオープンです。
また、後日近くの250坪の土地を買って第二駐車場も作りました
   私たち夫婦、今までいろんな人に助けて頂きここまで来る事が出来ました。
   そんな感謝の思いで作ったのが岸川健康増進センターです。
 

岸川美好物語
77、再び不動産に
平成9年に自宅を建てて、暫く不動産の購入はやめていました。
この間、歌の活動 盲導犬の支援活動 大腸がんの治療などいろんな事がありました。
平成22年、盲導犬アロマが引退して鹿児島の老犬ボランティアの所へ行って少し寂しい思いをしていました。
そんなある日、福岡のモデルハウスに家を見に行きました。
特に、家が欲しいわけではありませんでしたが、気分転換にモデルハウスに行きました。
福岡には大きなモデルハウスがあり、30ぐらいの会社がいろんな家を建てています。
一日かかっても全ての家を見る事が出来ません。
モデルハウスには、来店名簿を書く様になっておりこちらの住所を書きました。
すると数日後、ハウスメーカーから営業の電話がかかってきました。
あるメーカーからの電話でぜひ、お合いしたいとの電話があり、合う事にしました。
勿論、家のセールスです。
当時、200坪の空き地を持っていました。
そこは、以前ビジネスホテルをしていた所で火事で焼けた所です。
特に、利用する予定がありませんでしたのでそのままにしておりました。
その土地をハウスメーカーの営業の人に見せました。
ハウスメーカーの人は私が自宅を建てるつもりと思い一戸建ての家のプランをしてきました。
自宅は十数年前に建てたばっかりでいらないと言いました。
むしろ借家の方が良いと思いプランを立ててもらいました。
数日後、一戸建ての借家のプランを持ってこられました。
敷地が200坪ありますので四つの家が建てられるとの説明でした。
建築費の見積もりを見ますと思った以上の価格で手が出せない価格でした。
借家は建築費と家賃のバランスがとれていないと経営ができません。
値段の交渉をしたのですが大手のハウスメーカーはいろいろと経費がかかる為にこちらの希望する価格にはなりませんでした。
せっかく、建てる気になっていたのに予算があわずに頼む事が出来ませんでした。
その後、以前自宅を建てた建築屋さんにプランを見てもらいました。
すると約三割安く出来るとの返事でした。
早速、注文しました。
実は、二年前に購入していた佐賀のアパートの横の土地(100坪)が空き地でしたのでそこにも二個建てる事にしました。
嬉野に四個、佐賀に二個と合計六個の家を建てました。
暇つぶしに行ったモデルハウスの見学が六個の家を建てる事になりました。
ちなみに、建築費の総額は6000万、家賃は一か月45万円でした。
次は、武雄市の古い家の購入でした。
土地が50坪で30坪の家が建っていました。
価格は家と土地で230万円でした。
昭和23年に建てた家で中はボロボロでした。
私はあまり気が進みませんでしたが妻がどうしても欲しいと言うもので仕方なしに購入しました。
その土地の横に違う人の持ち物で50坪の空き地がありましたのでそこも同時に購入しました。
所が、初めに買った土地と後で買った土地の間に1メートルぐらいの溝があり二つの土地が切断されていました。
この溝に蓋をすれば二つの土地が一つになると思い武雄市に溝の蓋の設置許可をお願いしました。
幸い、武雄市も私が目が悪い事を理解してくれて特別に蓋をする許可をしてくれました。
おそらく、私が溝に落ちたらあぶないと思ったからでしょう。
早速、家のリホームです。
床から壁のリホームで新しい家を建てるぐらい費用が掛かりました。
また、ボーリングをして素晴らしい水がでました。
この場所は嬉野温泉と武夫温泉の中間にあり、つるつる すべすべの素晴らしい水が湧いて出ていました。
その水を沸かしたお湯はとても良いお湯になっています。
私たちはその家を使って鍼灸マッサージ 飲食店 貸し切り風炉 カラオケ喫茶など始めました。
また、そのお湯を使って無料の足湯を作りました。
後日、すぐ横に250坪の売地がありましたので駐車場にする為に購入しました。
初めは、小さな投資でしたが、やる内に規模が大きくなり大きな投資になりました。
次は、嬉野の本通り商店街の空き屋の購入でした。
妻が.見つけて来てぜひ、欲しいと言い出しました。
この家も昭和の初めに建てた家で下が店舗で二階が座敷になっていました。
私は妻の案内で家を見に行きました。
場所も良いし価格も比較的安かったのですぐに決めました。
そして、一階の店舗を改造してカラオケハウスにしました。
次は、嬉野の中心部で国道に面しており200坪の土地に三階建ての家が建っており一階は店舗 二階三階は住宅になっており駐車場が十数台ありました。
一階の店舗には入居者があり上の住宅は空き家でした。
購入後、上の住宅部分は借りてがあり、現在上下借りて頂いております。
平成9年に自宅を建てた時もう、不動産の購入はやめようと思っていましたが妻の強い希望に負けてまた、大きな買い物をしてしまいました。
正し、今回は全て現金で購入しました。


 

岸川美好物語
76、鍼灸整骨院の経営を始めました。
昭和50年嬉野町で整骨院を開業しました。
当時の佐賀県には18件の整骨院があり私の整骨院は19番目の整骨院でした。
勿論嬉野町には整骨院はありませんでした。
最も近い整骨院でも嬉野町から1時間以上かかる所にしかありませんでした。
ところが、現在佐賀県には約220件の整骨院があり、嬉野市には3件お隣の鹿島市に7件武雄市に12件の整骨院があります。
私が開業した頃は70歳以上の人は医療費が無料でしたので毎日沢山の老人の人がこられておられました。
午前9時のオープンには毎日30名の患者さんが待っていました。
整骨院での主な治療は電気治療が中心で小さな治療室に沢山の電気治療器が並んでいました。
治療の手助けをしてくれる助手も三名いました。
その三名の助手が患者さんに電気をかけて、その後私が治療をしていました。
その当時整骨院が珍しくてしかも保険で治療ができますので毎日60名以上の患者さんがこられておられました。
昭和56年5月岸川鍼灸院の二代目院長が59歳で亡くなり私にとりまして大きな決断のしないといけなく成りました。
当時は鍼灸院と整骨院の治療を行う事が困難でどちらか一つにシボラナクテはなりませんでした。
鍼灸院は昭和元年初代院長(祖父)が嬉野町で開業して50年以上になり私が三代目院長になります。
私はこの歴史のある鍼灸院を残す決心し昭和56年にそれまで流行っていた岸川整骨院を廃業しました。
その後は、鍼灸院を佐賀県一の治療印にしたいと思いいろんなアイデアーを出して拡大してきました。
当時の嬉野温泉は好景気に支えられて全国から沢山のお客様で賑わっていました。
当時は嬉野温泉に約70件の旅館があり毎日沢山のお客様が泊まっていました。
旅館への出張マッサージの注文も多く最大30名のマッサージスタッフが当院で働いていました。
当時の私の仕事はいろんな所に行ってマッサージのスタッフをスカウトして来る事でした。
また、嬉野温泉の旅館に営業に行く事でした。
こんなのが私の主な仕事であまり治療はしていませんでした。
実は、そのころの私は治療をするよりも企業を大きくするほうが面白くできるだけ治療室には入りませんでした。
でも、時々人手がたらないときは鍼をしていました。
その後、鍼灸院の経営も軌道にのり私の出番はなくなりました。
昭和57年からは嬉野温泉でビジネスホテルの経営、アパートの経営など違う分野に燃えて行きました。
平成に入って本の出版、講演活動、作詞作曲、歌手活動、盲導犬の支援活動など本業の治療から遠ざかって行きました。
平成20年2月大腸ガンの摘出手術を行い、これを機会に岸川鍼灸院の経営を長男に譲り隠居生活に入りました。
その後は妻と二人で老人ホームへ歌と踊りで慰問に行ったり、毎月の様に旅行へ行っていました。
隠居生活はとても気楽で良いのですが毎日が日曜日でとても退屈でした。
いつも心の中はこのままで良いのか、何かする事はないかと自問自答していました。
そんなある日(平成26年12月)長男が私に鍼灸院の経営を変わってほしいとの要望があり平成27年1月より岸川鍼灸院の経営をする事になりました。
また、3月1日より30年以上休んでいました整骨院をオープンしました。
現在岸川鍼灸院には8名のマッサージスタッフがおりますが、今回は経営だけではなく、鍼灸整骨師として治療を行っております。
毎日、腰の痛い患者さん、肩の痛い患者さん、膝の痛い患者さんの治療行っております。
治療をしていて一番うれしいのが痛みがとれた、楽になったと言ってもらう事です。
長い間言われた事のない言葉でした。
私も今年で67歳になりました。
昨年まで、残りの人生やる事がなく、ただ、無意味に生きてゆくのかと思っていましたが、今、これからの人生新たな生きがいを見つけた様な気がして心も体もおおいに若返った様な気がしています。
今の私の目標は10年後の77歳まで現役で治療をして一人でも多くの人の健康づくりに役立ちたいと思っております。
勿論、77歳がゴールではありません。
命のある限り治療を行いたいと思っております。