はいもしもしー
えぇ、はい、はい、
ええちゃんとやってますよ、もう八割方は。
え?うしろが騒がしい?
そーゆーBGMなんですって。
あ、もう電池が切れます、わー

アマポンです。



とまぁ、茶飯事を語るのはこれくらいにして。



今遠くから汽笛の音が。


そんなに近くないのに、電車。


てゆーか、電車で汽笛?
時折、貨物列車が走ってるからそれかな。



擬音で表しにくいな、


フゥウォォォォーッ


そんな汽笛の声に、何故かしら胸が締め付けられる。


いや、私ゃ決して彼の声に郷愁を覚える年代ではないのだけれど。


人は時に、それ単体では意を成さない音色に対して、むしろ人語から受け取る思いを超えた感情を抱く。


それは果たして種としての記憶がそうさせるのか、単なる脳内の反射なのか。




でもね。




予期せぬ感情への来客は、面白い。


せいぜい私の心を死角から揺さ振ってくれたまえ。
黄昏に あおぐ雲間に 秋茜

へ~っくしょい!
あぁさむ、詩人気取りのアマポンヌでした。


私じゃない、あんたが変えてくんだよ(HP'sBlog)-201009171728000.jpg



しかし何だ、遠くの雲に見入ると吸い込まれるような錯覚に襲われる。


普段は使わない脳の部位が動いてるなこりゃ。
あっ!アマポン?
ええ、アマポンです。


ツイッターで少し触れたんですが現在、手塚治虫原作、浦沢直樹氏による漫画『プルートウ』を読んでいるところでして。


まだ途上故に、自分が物語の本質に迫れているか否かは心許ないのだけれど、ここは誤解を恐れず思うところを宣おう。


本作品は、限りなく人間に近付いて行くロボットの姿を通して、一体『いのち』とは何なんだ、生きてるとは何をもって容される言葉なんだ、そんなメッセージを発している。


本当に長い長い目で見れば、ロボットと人間のボーダーが迫り行き、この疑問を誰もが一度は考えることになる、そんな未来がやってくることは間違いないんだ。

そりゃロボットが人間と同じ容姿で同じように生活する世界になれば、湧いて出て当然の疑問だからね。



がしかし。



それを今考えることになる、考える機会を与えてくれると言ってもいい、それが小説や漫画と言ったお話のチカラ。

そんなことわざわざ考えないものね、今の生活の中では何か特殊な事情がない限り。



その機会を与えられた人間のひとりである私アマポンですが、本編でとあるシーンに遭遇した際、『いのち』に深く考え入ってしまいました。


それはチューリップが登場するくだり。


これから読まれる方がいるかもしれないので深くは描写しませんが、登場人物が、自分の育てるチューリップに名前をつけてやると発育がよい、的な発言をしたことに対して。


もちろん、花には生命が宿っている。
少なくとも我々にはその認識がある。


でも待てよ。チューリップは普通、話をすることもなければ、自律的な運動をするわけでもない。
その意味で、同じ生命であっても何かしら別種としての線引きが為されている現実があることは否めない。


それを証拠に物語ではあたかも、こちらの想いが通じることを以って「生命」と定義しているように見えるものね。


いや、それがダメとかそんな話ではなく。


と言うことは、だ。


こちらの意思が通じると言う前提があれば、それを「生命」と呼んで良い、そんな考え方もあるのかと。




私は度々、所有のポンコツ車(そうさせているのは自分だってことは置いといて、ね)に話し掛ける。

「ごくろうさん」

「今日はちょっとキバってもらうよー」

「おいおぃ、エアコン入れたくらいで坂道ヘバるなよなぁ」

ほら、こんなことはない?

寸でのところで事故を回避できたのが、乗り込む前にエンジンの掛かりが悪かったその一呼吸が故であったり。


そうなると私は、いや私ならずとも我々は、そこに意思のやりとりがあるように認識してしまう、そうなんだ。




『いのち』


と言う概念。


それすらが人間のエゴの上に成り立っているのかもしれない。
チューリップは私にそんなことを考えさせたのであった。