最近、『99.9%は仮説』という本を読んでいる。
科学は、常に反証できるものである。
科学はすべて近似にすぎない。
科学と真理は、
近づくことはできても
けっして重なることはできない。
科学とは?
法則とは?
真理とは?
そんなことが頭を巡った。
科学は、世界の仕組みを理解しようとする人間の営み。
法則は、その営みの中で見いだされた、現象に共通する規則性。
でも、
現象は、人間の理解とは関係なく起きている。
人間が知っていようが、知らなかろうが。
説明できようが、できなかろうが。
世界では、何かが起き続けている。
分かることは、目的なのだろうか
科学の始まりには、好奇心があったのかもしれない。
「なぜ、こうなるんだろう?」
「どうして、こんなことが起きるんだろう?」
分からないから、知りたい。
そんな純粋な好奇心から、
観察し、考え、実験し、
少しずつ世界を理解してきた。
そして、理解できることが増えるにつれて、
予測できることも、
コントロールできることも増えていった。
でも、いつの間にか、
「分かること」と「コントロールできること」を、
混同してしまったのかもしれない。
分かれば、何とかできる。
理解すれば、思いどおりにできる。
でも、本当にそうだろうか。
そもそも、
すべてを理解することなんてできるのだろうか。
分かった気になること
「分かること」と「分かった気になること」は違う。
分かった気になると、
そこで考えることをやめてしまう。
自分の知っていることが、
世界のすべてであるかのように。
でも、実際には知らないことがたくさんある。
そして、知らないことがあるからこそ、
新しい発見がある。
「分からない」と思っているうちは、
まだ知ろうとすることができる。
でも、だからといって、
すべてを知る必要があるわけではない。
分からないものは、分からないままでもいい。
分からないことを、無理に分かろうとしなくてもいい。
必要になったら、考えればいい。
知りたいと思ったら、学べばいい。
そして、分からなくても進んでいい。
すべてを分かる必要も、できる必要もない
自分が分からなくても、分かる人がいる。
自分にできなくても、できる人がいる。
だったら、
すべてを自分で理解する必要も、
できるようになる必要もない。
もちろん、知りたいと思えば学べばいい。
できるようになりたいと思えば、挑戦すればいい。
でも、それは自分が選べばいいこと。
できる、できない。
分かる、分からない。
どっちでもいい。
どちらかに価値があるわけでも、
どちらかを目指さなければいけないわけでもない。
感じたままに、動いていい
これまで私は、何かをするときに、
まず考え、理解しようとしていたのかもしれない。
どうすればできるだろう。
何が必要だろう。
失敗しないためには、どうすればいいだろう。
もちろん、考えることは大切。
でも、考えることも、理解することも、あくまで手段。
感じることと、動くことの間にある、
一つの過程でしかない。
必ず通らなければいけない道ではない。
感じて、考えて、動いてもいい。
感じたままに、動いてもいい。
そして、動いた先で、また何かを感じる。
その循環を回していけばいい。
分からない世界を、生きていく
私たちは、未来に何が起きるか分からない。
自分の選択が、どんな結果につながるかも分からない。
でも、分からないからといって、立ち止まる必要はない。
分かることを目指してもいい。
分からないままでもいい。
できるようになってもいい。
誰かにお願いしてもいい。
大切なのは、そこではない。
私は、どう感じているのか。
私は、どうしたいのか。
世界は、私が理解していようがいまいが、動き続けている。
そして、私もその世界の中で生きている。
分からないまま、進んでいい。