1年ぶりに宝塚観劇@東京 | 『今夜もおお腹いっぱい』

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食べ歩き以外に堅い話も書くと思います。
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 mixiボイス段階で誤解した人もおられますが、兵庫県宝塚市へ行ったわけではありません。宝塚スターを友人に持つマイミクさんの仲介で券を入手し、昨年誕生日以来2度目の宝塚歌劇を観劇しに、今度は東京宝塚劇場に行きました。

 主題の「ジプシー男爵」は第1部で完結、休憩明けの第2部は「ラプソディー・ムーン」というレビュー。前回は劇の後に30分ほどのレビューが付いたからまだ良かったけど、今回はレビューだけで1時間。さすがに【女に興味ない】σ(^^)は、ストーリーの無いレビューだけでは飽きます。劇では眠らなかったけどレビューでは何度も意識を失いましたよ。でも、一糸乱れぬ整然とした踊りは、好きですよ、正直。 なんせ「秩序とは序列であり、一糸乱れぬ不自然さこそ理想的秩序」だと確信しているσ(^^)だけに、男役トップを筆頭に、娘役トップをナンバー2として、あとの登場人物もまるで「存在の連鎖」(Chain of Being) のように、全員がタテの序列関係に所を得て機械のように乱れぬ動き。見ていてまるで「将軍様」の気分。あとは、何でも中庸が大切であるように、レビュー1時間は長い(ファンじゃないし)ので、30分程度で見せてくれれば、観劇に集中できたでしょう。
 さて主題の「ジプシー男爵」はワルツ王ヨハン・シュトラウス二世が手がけた喜歌劇で、1885年ウィーンで初演。
 劇の背景となるマリア・テレジアの時代に最後の栄華を誇ったハプスブルク家は、その後ナポレオンの進出とともに、形骸化した「神聖ローマ皇帝」位による前近代的家領支配体制を葬り去られ、「オーストリア皇帝」位による「オーストリア=ハンガリー二重帝国」という形で再編、近代国家組織を構築していきます。しかしその頃すでに、プロイセン王をドイツ皇帝とした近代ドイツ国家の下風に立つ存在になり下がっていました。この劇が初演された頃のウイーンは、ヨーロッパのトップだった往時を懐かしむとともに、この時代のオーストリアの「帝国」としての指針を示す必要に迫られていました。当時のオペラや劇が多分に国策洗脳装置だったように、この劇もさりげなく、単一民族国家ではない多民族国家、それもハンガリーとの二重帝国という特殊な擬制近代国家オーストリアのあるべき姿を「帝国臣民」に提示しています。
 中世以来長らく「蛮夷」ヨーロッパに対して先進文明地域だったオスマン・トルコの財宝目当てという伏線を敷きながらも、ハンガリー人とジプシーとの対立をかかえるオーストリア帝国。国同士が疑心暗鬼のまま共存していたこの時代に、ヨーロッパ中を放浪するジプシーは、他国のスパイの可能性もあり、欧州各地で差別され迫害されたことは、単なる偏見だけでは説明できない国防上の必要でもありました。被差別民ジプシーに「たまたま」理解を示す主人公バリンカイは、この地の領主の正統な後継者ながら新参の孤児という難解な位置づけ。先住のハンガリー人との間に当然起こる反目と対立は、外敵との戦争(史実ではスペイン継承戦争だから、決してオーストリアが侵略されたわけではない)という国難に押し流されます。
 「たまたま」戦争が勝利に終わり出征した登場人物たちが無事に帰るところから、ハンガリー人とジプシーとの対立も霧散し、マリア・テレジアの計らいでジプシー達は「戦功への褒美として」定住の自由を得ます。奇しくも、豚飼い商人ジュパーンが繰り返し口にしているように、複数民族を包括する「帝国」にとって重要なのは、血の繋がりよりも「祖国への忠誠の義務を果たす」こと。たとえ娘役たちが「男は友情や義務にしばられるバカ。わが身が一番大事」と歌うとしても、その直前にやたらと募兵への協力と「祖国への義務」が強調される点に、胡散臭さを覚えずにはいられません。まして宝塚歌劇こそ、これまでも支配層の意を体するような演目で観客の思想的誘導に資してきたとなれば尚更、今の時期のこの演目の選択には、色々な憶測が想起されましょう。