mixi歴番おぼえがき | 『今夜もおお腹いっぱい』

『今夜もおお腹いっぱい』

食べ歩き以外に堅い話も書くと思います。
来られた方はペタよろしく。

過去に書いたものをまとめて写しました。



043【2005年03月22日02:27】
その時、歴史が動いた

1297年:(日本)永仁の徳政令
  元寇以来続く鎌倉幕府と御家人との恩賞を巡る混乱は、この年徳政令の発布によって新局面に入った。徳政令の発布は、鎌倉幕府に恩賞給付能力がないことを自ら認めるとともに、日宋貿易による宋銭の流入で貨幣経済が日本においても揺ぎ無いものになったことを証す、日本経済の一大転換点と言えよう。



045【2005年03月24日03:04】
またも歴史が動いた

1378年:(西欧)教皇庁分裂
 1309年のアヴィニョン捕囚以来続く教皇庁の混乱は、ついにこの年、アヴィニョンとローマそれぞれに教皇が立ち自己の正統を主張する事態になった。1409年にはピサにも教皇が立って三分、1417年に統一されるまで、欧州の教権は混乱を極めた。日本の南北朝もそうだが、これにより教皇の権威は墜ち、宗教改革へとつながっていく。

047【2005年03月24日17:17】
またまた歴史は動いた

1397年:(日本)金閣建立
 今日では相国寺の山外塔頭の一つに過ぎず、正式名は「鹿苑寺」という金閣は、もともと足利義満が王権(*1)掌握後の宮廷として建設した広大な“北山御所”ともいうべき施設の中心であった。1層:寝殿造、2層:武家造、3層*唐様、で屋根には鳳凰という、日本史の暗記項目でおなじみの構造は、公家の上に武家、武家の上に(「日本国王」の任命権者の)中国、さらに義満自身の象徴である鳳凰がその上に立って天下を治めるという義満の意思を反映するとともに、朝廷を超えるために利用できる存在としてのみ中国(当時は明)を念頭に置いていたことが窺える。金閣建立後から義満は、朝廷の権威・権限の掌握に意を注ぎ、親王元服させた次男義嗣への皇位継承を考えたとされるが、1408年急死し「皇位簒奪」は実現しなかった。しかし死後「鹿苑院太上法皇」の尊号(*2)をおくられるなど奇怪な点は多い。一説には、平清盛の当時としての異例の出世が実は白川法皇の胤だったから(だという説)と同じく、義満と皇統とのつながりを指摘する説もあるが、当然立証はできない。鎌倉時代末期の持明院統・大覚寺統との皇位争いから南北朝の争いを通じて豊臣秀吉の登場までは、日本の歴史上皇統の危機であったが、特に金閣建立から義満の急死までは皇位・皇統最大の危機の時代であったことは、もっと重視されてもよい。

*1 「王権」という用語は、今谷明『室町の王権』(中公新書、1990年)以降、すっかり日本史学に定着した感がある。権威と権力が分離している日本において、日本の政治をコントロールする実権のこと。
*2 「太上天皇」「太上法皇」の尊号は、天皇経験者以外におくられる場合は「天皇の父」のみなので、当時の後宮事情も踏まえた色々な推測がなされている。



048【2005年03月24日18:04】
まったり歴史は動いた

1429年:(フランス)ジャンヌ・ダルク登場
  
  ジャンヌ・ダルクの登場により劣勢だったフランス軍の勢いが盛り返し、イングランド軍を負かしてフランス本土のほとんどから追い払った、が教科書的な歴史解釈ですね。それならここには載せません。ジャンヌは、ロレーヌ地方のドンレミの農家の出身だが、後に仏独両国が奪い合う「アルザス・ロレーヌ地方」のあのロレーヌ地方。当時はイングランド軍と同盟しているブルゴーニュ軍がしばしば侵入して村を恐怖に陥れていた。 この地域の人達は、異なる言語を話す隣人と暮らし、異なる言語を話す敵に襲われていた訳で、この地域の人達は「異邦人」という意識をより強く持つようになっていった。ジャンヌもこうした中で成長し、海の向こうのイングランド軍に対し純粋に「外国人」として敵視した最初のフランス人の一人だったことはもっと注目されて良い。当時は、下層の兵士は異なる言語を使用し言葉も通じなかったが、イングランドの支配階級は、フランス王・貴族と同じフランス語を常用していた。まして1420年のトロア条約によって、フランス王位はイングランド王ヘンリ六世に継承されることに決まっていた。「王冠が海の向こうに渡る」ことを阻止するため、と焚きつけられたジャンヌとその軍が純粋に「フランスを守るために」戦ったにしても、当時は現在と違って「国家」「国民」という概念はなく、あくまで、教皇・皇帝の下に王や公爵以下の貴族の「領邦」が存在しただけ。後の「朕は国家なり」というルイ十四世の言葉に典型的なように王・ 領主の身体が「国」であり、王・領主の死は国の滅亡を意味した。 ジャンヌの戦いを通じて「王≠国」としての、ルールとしての国境と臣民ではない国民を持つ「国民国家」の概念が育まれたことが、彼女の登場意義である。
 このことに最初に着目して彼女の存在意義を評価し、加えて自己の権力正当化に役立てようとしたのがナポレオンであった。もちろん、国民国家の概念が定着するのは18世紀を待たねばならないが、後のリシュリューが「地形国境説」を唱えてヨーロッパ各地に出兵したように、国民国家の概念の萌芽は、奇しくもジャンヌの登場が契機だと最近指摘されている。


1450:(ドイツ)グーテンベルク活版印刷発明

  ただ1450年というのはアヤシイけれど、キリ番に近いからこの年にしました。活版印刷の歴史的意義は強調してもし過ぎることはない。従来の反カトリック・教会反抗運動がなぜ潰され、プロテスタントの宗教改革がなぜ成功したかは、活版印刷により自分の主張を抑え込まれることなく広く伝播できたから。活字自体は既に11世紀頃の中国で活字(粘土に文字を彫って焼いたもの)が行われ、また13世紀の朝鮮で金属活字(銅)が作られたという。しかし、印刷技術と活字用の合金と印刷用のインクとを束ねて「活版印刷術」というシステムを整備したことにより、後の歴史を大きく動かしたことからも、このことは、過去2000年の人類史上上位5本の指に入る歴史的事件だった。

052【2005年03月26日01:52】
またまったり歴史が動いた
 1492年:(スペインほか)「レコンキスタ完遂」
         &「コロンブスアメリカ『発見』」

  西洋人の異邦人感覚に大きな影響を与えた事件が奇しくも同じ年に起き、以後の帝国主義時代への嚆矢となった。「レコンキスタ」とは7世紀以来イスラム勢力に奪われたヨーロッパの地をヨーロッパ人の手に取り戻す「国土回復運動」。現スペインのグラナダは、イスラム系後ウマイヤ朝の首都&最後の砦だったが、カスティリア・アラゴンの両王国(これが後のスペイン王国)の連合軍の攻撃でこの年陥落し、ヨーロッパの地からイスラム勢力が一掃された(東欧は別)。
  コロンブス(原語発音は「コロン」)のアメリカ「発見」は、その500周年の1992年にバルセロナ五輪の開催に際し、当時の帝国主義性をポストコロニアリズムの立場から糾弾する論調が沸騰し、記憶に新しい。
  両事件に共通するポイントは、ヨーロッパ人が肌の色も宗教・慣習も違う民族に接した時にどう振舞うか、だった。最初戸惑いながらも、旧約聖書に書かれた「神の命令による異民族皆殺し」を正当化の根拠として、以後白人の黒人・黄色人種の奴隷化・非人間的取扱が(敢えて書き添えれば、広島・長崎への原爆投下まで)500年続くことになる。
   「1492年」の歴史的意義は、こうした白人に倣おうとした日本人が過去を反省するためにも、マイナス面をもっと強調する必要がある。

 
1517:(ドイツ)ルターの九十五ヶ条論題掲示(宗教改革開始)

  ルターも決して「宗教改革」なんて考えておらず、単に贖宥状(免罪符)などでドイツからの収奪を強める教会当局(教皇庁)に抗議したかっただけだが、教皇庁反対派のドイツ諸侯に担ぎ上げられ、事態は誰も予期せぬ方向へと進んだ。もちろん、ルターの意見も生命ももみ消されずに公表・伝播されシンパが多く集まったのは、グーテンベルク活版印刷術発明による情報流布の成功によるが、異なる宗教間での争いは、肉食民族たる白人の本性を搾り出すように敵対派に対する残酷な処罰・取扱が続出、異端審問や魔女裁判まで発生。またこうした長い宗教紛争により殺し合いが続いたため、あたかも「核のボタンを押せば両陣営とも滅亡する」と相互抑止に働いた冷戦期のように、敵や意見の違う者の抹殺(その論拠は聖書)を差し控え平和共存「するしかない」という考え方「寛容」の精神が生まれ、言論の自由という意識が萌芽した。

056【2005年03月29日03:09】またまたまったり歴史が動いた

 1582年:(西洋)「グレゴリウス暦導入」
      &(日本)「本能寺の変」

  戦前「勤皇の大名」としてもてはやされた織田信長も豊臣秀吉も実は全く逆で、むしろ足利尊氏の方が「尊皇」だったんだよね、と「世間の常識」に反することをまた書いてしまう。「実力主義」の織田信長は、石山本願寺を開城させていよいよ「最も(武力という点では)無力な」朝廷に手をかけ始めた。この分野の研究は「三職推任」問題の論証などで最近急進歩した。朝廷の実権を掌握し天皇の上に立とうとした信長は、義満もしなかった「改暦」を朝廷に要求した。太陰暦は計算が複雑でしばしば不正確になるため、どの暦を使って翌年の暦をどうするか、は祭祀王たる天皇の専管事項で、これに口をはさんだのは信長が始めてだった。信長は尾張で使われている三島暦の使用を朝廷に要求、認めさせることで、天皇や朝廷よりもより優位に立とうと画策したが、これは、ローマ教皇グレゴリウス十三世によるグレゴリウス暦への改暦を宣教師たちから聞いた信長が、これに倣ったものと考えられている。古来から万国共通の概念として「暦を受け入れることは支配を受け入れること」なので、現行の暦であり優れた暦であるとはいえグレゴリウス暦を受け入れることはローマ教皇の支配を受け入れることを意味し、カトリック国フランスでさえすぐには採用しなかった。新教国イギリスの採用は18世紀、ロシアの採用は20世紀のロシア革命後、中国は新生・中華民国が清王朝打倒の政略上1912年元日から採用している(日本は1872年)。暦に口出ししたことで信長は朝廷や旧体制勢力を決定的に敵に回した。本能寺の変は、これらの勢力に唆された明智光秀による「改革潰し」だとの指摘が強い。

 
 1648:(ドイツ)ウェストファリア条約で三十年戦争終結

  17世紀なんて毎年毎番を歴番にしたいくらい。
  ボヘミアの農民一揆に端を発し、旧教皇帝・諸侯と新教諸侯が合従連衡を繰り返すさまはあたかも応仁の乱のよう、な三十年戦争は「神聖ローマ帝国の死亡証書」と言われたウエストファリア条約で終結した。この条約により各段階の領主が全て自治権をもち「領邦主」となった、なんていうのは教科書か『世界史用語集』の話。この戦争の意義は、ドイツ民族の三分の一が死んだといわれるこの悲惨な戦争の結果、「戦争を避ける」「平和主義」という概念が人類に生まれたこと。これまでの人類の歴史5500年(初代教会の説によると人類創造が紀元前6000年らしいから)においては、決闘や戦いを避け話し合いで紛争を解決することは「男らしくない」不名誉な行為とされ、正々堂々と戦って力で勝負をつけるのが美徳とされていた。しかし、あまりにも悲惨な三十年戦争の結果、厭戦気分が生まれ、「物事を話し合いで解決する」ことが重んじられるようになった。またこのため、相手を説得するための「雄弁術」が重視され学ばれるようになり、雄弁術や論理学の著作が乱発されたのもこの世紀である。さらに、話し合いで相手を圧倒するための知識や教養を磨くために、教育の意義が強調されるようになり教育論も乱発、またヨーロッパ中を歩き回って教育論を説く教育論者が各地でもてはやされるようになる。彼らは特に、市民としての自由や権利を皇帝・王や領主に求める新教地域で歓迎された。自由や権利を有するに値する市民を育てるための教育法を講義するよう求められたからで、現自由や権利を持つのが当然とされこれらを濫用するのが当たり前の現代とは異なり、17世紀の市民階級は、自由や人権を求める以上、自分たちがそれに値する市民になるよう努力し、その権利に対する責任感をもっていた。


 1687年:(日本)生類憐みの令開始

  これからガンガン出てきたお触れの総称である「生類憐みの令」の最初が出たのがこの年。それまでの日本は、戦国以来の殺伐とした気風が残っていた。まだ「斬り捨てご免」が実質まかり通っていたり、街で野犬を斬り殺して食べるなんて平気で行われていた。徳川綱吉の文治政策の一環として出された「生類憐みの令」は、条文だけ取り出して読むと極端なもので現代では笑いのネタだが、当時の社会情勢では、勅使や朝鮮通信使・オランダからの使者を迎える「政治首都」江戸が「文化立国」にふさわしい町に生まれ変わる必要に迫られていた。いかに現存史料と現代の視点だけで歴史を評価してはいけないか、の一例である。


 1702年:(日本)赤穂浪士の討ち入り

  なんでこれが「歴史を動かした」のか? それは『仮名手本忠臣蔵』などで“専門職”吉良上野介が悪者にされたために、それまではソフト・サービスの価値を認識し相応の投資をしていた日本人が、「空気と安全とサービスはタダ」「スマイル0円」というサモシイ民族になる契機となったから。このため、いったん判決が確定したこの問題を覆すように討ち入りが、当時あんなに艱難辛苦を舐めていたはず(あくまで「はず」。大石内蔵助は祇園で遊ぶ金をどこから賄っていたのか?)の赤穂浪士が資金難で討ち入り断念に追い込まれることもなく本懐を遂げられた資金源に、長崎出島経由でのフリーメーソンの暗躍が指摘されている(ん?)。
  話がそれたが、日本はかねてから芸能・礼儀作法などありとあらゆる分野に世襲の宗家・家元が存在し、彼らに金銭を上納することによって芸能・礼儀作法の伝授を受け、免許皆伝を認知されていた。宗家・家元が小出しにするソフトを門人が金銭で支えていたからこそ、流派や伝統芸は現代まで伝えられ、諸外国人もビックリの世界に冠たる日本文化を形成してきたのである。
  吉良は家格こそ高いが禄高は低く、上流階級の複雑なしきたりという「ソフト」を伝授して報酬を得る、徳川幕府のの家元なのだ。この吉良が勅使接待の段取りという「ソフト」を無料で教えられるわけがない。もちろん金銭の要求を吉良が相手にすることもない。それは幕府内で既に「常識」化されており、また相手との関係において料金が異なる「時価」だから、一見さんは高かったり、何度も組んで親しい大名ならちょっとサービス、という祇園のお茶屋と同じだが、それによって日本のソフト面の文化は支えられ生き残ってきたのである。そんな「幕府内の常識」も知らない「この田舎侍が!」と吉良は叫んだのだろう。
  もちろん、塩の販売を巡る三河吉良家と赤穂浅野家との確執もあったようで、もっと問題は複雑ではある。しかしこれ以降、日本人は「それっくらい、サービスして(=無料にして)よ」というセコい民族に堕ちていき、道徳面で白人達に徐々に追い抜かれていくことになる。かといって、レストランの「サービス料」は客を舐め腐った収奪システムであり、欧米式のチップにすべきだとは思っているが...


 1714年:(英国)ハノーヴァー朝開始

  現在の英国王室に直接つながるハノーヴァー朝は、この年にスチュアート朝のアン女王が亡くなったことで始まった。アン女王は子だくさんだったが全員母より先に死に、王位継承法の規定によってドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルグがロンドンに来てジョージ一世として即位した。ジョージ一世とその子二世は英語を解せず、政治は側近任せとなったため、後に「君臨すれども統治せず」と呼ばれる政治体制が確立した。日本の天皇とは違って、英国王は今なお強大な政治権限と財源を保持しているが、「もっていても使わない」という伝統が定着したのは、王の語学力と、次世紀に頻発する王室のスキャンダルのためであり、決して名誉革命と権利章典によって立憲君主制が一気に確立したわけではない。

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