沖縄本島の南東約数キロメートルの所に小さな島「久高」はある。
最も高い場所でも海抜
20メートル足らずのこの島は、神の島と言われている。
久高島のある琉球は、薩摩の島津氏に攻められ統治される前までは、尚首里王府が独立国家として台湾、中国、フィリピン等東南アジア諸国との交流を盛んに行い、特に琉球列島で収穫される農、海産物を輸出していた。
稲作についても日本本土よりも早く琉球で行われたと言われている。

尚氏が多くの島がある列島を統治するためには、全てを首里から直接コントロールするには不経済で、実質的には困難なことからノロ(ヌル)の制度を確定し、尚氏の身代わりとして地域ごとにノロが配置されていた。ノロ制度の確立とともに久高島にもノロが出て島レベルの年中行事は、ノロを中心に外間殿を主祭場にして行われていた。

祭りの根本になる考え方は、「太陽の出ずる東方、海の彼方に究極の根(ニー)は収束される」であり、ニーは太陽の出発地という自然現象と重ねて考えることで、現世にある全ての物の始源発祥の地点という考え方に高められ、ニライカナイという究極のニーを設定した。具体的には五穀、子供は彼の地より授けられ、始源の親(神)の居た所ということになる。つまりニライカナは太陽が1日を周期にして循環しているように、全ての始源の地であると同時に、帰着の地でもあるという考え方である。

ニライカナの最大の行事が、久高島には「イザイホー」として引き継がれている。「イザイホー」は、久高島で生まれ育った女性は全員神職者になることになっており、ノロなどのクニガミ以外は70歳で引退する。その要員の新規採用のため12年に一度行われ、主婦が神となる儀式である。しかしながら今世紀最後の儀式が女性不足のため行われず、次の12年目にはどうなるか、つまり伝統が遺産として残るかどうかの瀬戸際に立たされているのは残念でならない。女性神職者不足は、過疎による人口減と、久高で生まれ育っても一度島外へ出て結婚した者は儀式に参加できないという強いしきたりを守っているからである。

イザイホー祭場
イザイホー祭場、中央の建物が外間殿

1989年の夏、神の島を訪れた。外間殿の置かれている場所と島周辺の音を調査するために。島民であるニシメノリオ氏の案内で小さな島を廻った。外間殿のある場所は、写真から想像していたより小さな広場であったが、何かしら神聖さを感じる場所で、広場周辺に住んでいる人達も、この広場を通る時、なにかしら静かに落ち着いた歩き方をしているように思えた。また子供達もこの場所ではあまり遊ばず、しゃべる声も大声を出さないようである。ニシメ氏も私への説明の時も低くゆっくりと声を発していた。

外間殿は前に広場、背後にうっそうと茂った樹林との境に置かれており、現世と他界(来世)との出入り口と言っても良いたたずまいである。

燦々と降り注ぐ太陽の下で、爽やかな風にこすれる樹木の音があるのみで、まさに「シーン」という感じであった(LAeq3841dB)。

久高島は珊瑚礁が隆起してできた島であり、東側海岸は、珊瑚礁の岩場の面影が残っている。波が寄せては返すと、波音とは違う奇妙な「コロ、コロ、コロ」と打楽器のような音が聞こえる。波が返すとき、海水中を良く見ると珊瑚の岩に大小の窪みがあり、その中に丸くなった石がある。波が寄せたり返したりする時、その石が波により動かされ、岩の窪み中で回転するような形で岩に衝突するために発生していた音である。また加えて岩の間を返す波のかすかな「サラ、サラ」という音が加わり、いつまで聴いていてもあきない波と音であった(LAeq60dB)。

島の西北西側は、東側海辺とは全く異なり、珊瑚の砕けた小さな真白い砂浜となっており、そこへやさしい波がまるで深呼吸をするようにゆっくりと寄せては返し、人もほとんどいない天然の海水浴場と言える風景である(LAeq56dB)。まるで我々人間の心の中に休息のための一服を与えてくれているとも思える。

海辺から直線で200メートルと離れていない場所に島の集落がある。集落と言っても珊瑚の岩と福木と言われる濃い緑の常緑樹で囲われた中に点在する程度であり、すでに廃家となったり、空き地となった場所に黒ずんだ珊瑚の岩で築かれた「ひんぷん」が主のいない家、屋敷の正面にしっかりとすわっているという風景である。村の中心を通っている道路は立派にコンクリートが張られているものの、日中まるで人影を見ることができない。ちょうどその時、年老いた久高ノロが絣か芭蕉布の着物をまとい、荷物を運ぶための乳母車を腰を曲げて押し、はるか遠くの路地を横切ったのが印象的であった。

集落
さんごの岩で組まれた垣根と「ひんぷん」の残る集落


(一社)日本環境測定分析協会「環境と測定技術」P82-85 環境背景音考(3Vol.25 No.10 1998 の一部