考えない理由 | 採用支援総合サービス・アークパワー社長池邉のブログ「どうとくか」

考えない理由

時として、、、

 

人は、なぜ?

 

考えることを止めるのだろう?!

 

これまでも、本ブログを通じて

 

再三、人間は考えること、それこそが、

人間の英知であり、特権であると、

喧伝(ケンデン)するかの如く書いてきた。

 

だけど、その張本人である自分ですら

 

その権利を、よく忘れてしまう。

 

なぜだろう?

 

ずっと、不思議に思っていた。

 

そんな不完全燃焼極まりない感覚に

一筋の光明(コウミョウ)が差し込む、

明解な答えをくれる一文に出会った。

 

なになに、心とは、、、

 

『まわりの環境と自分の「思うこと」が

一致していれば、「心」を意識することは

ない。外側と内面のズレが「心」をつくり

だす。』1

 

なるほどね・・・

 

人は、集団の中で生きていかなければ

ならない。

 

現代のような分業化社会では、誰も

1人では、生きてゆけない。

 

ならば、

できるだけ気の合う人と過ごしたい。

それは人間の性(サガ)だろう。

 

そして、

いつしか、人は気の合う人と出会う。

 

つまるところ、、、

同質性を追求することが、結果として

考えることを排除する構造を含む。。。

 

要するに、気の合う仲間とばかり一緒に

いると、考えが同じだから、敢えて自らが

考えなくても、みんなと分かり合える。

 

その結果、

知らず知らずのうちに考えなくなる。。。

 

加えて、

同質性が強くなれば強くなるほど、

異質なものは、強烈に弾き飛ばされる。

 

要するに、

受験とか、採用試験とかの選考において

かなりの純度で、人物要件を特定して行けば

その純度が高まるほどに、わずかな「差異」

が大きな「差異」となり、浮き彫りとなる。

 

その結果、同質性の高い集団で、わずかな

ことで、いじめにまで発展する。


だから、余計に同質性を意識し、過度に

同質性を追求する。


一度、高まった同質性は、その度合いを

強めることはあっても、弱まることはない。


その結果、同質性は必然となる。

 

ならば、意図的に、他者との不協和音を

求めて、自ら、他者との差異を持ち続け、

「心」を保てと言うのか?

 

それは、難しいことだろう。

 

集団行動が必要な社会で生きるには、

自己中心的な態度は、致命的となる。

 

ならば、如何(イカ)にして、

「考える我」を保てば良いのか。

 

う~ん・・・

 

人が考えなくなる構造は、

何となく見えてきた気はするが、

それを防ぐ策は、思いつかないな。。。

 

とりあえず、このお題の答えとして、

ポン知恵程度の結論で結ぶなら、

 

その答えは、乱読(ランドク)にあるかな。

 

だってさ、

自らの規範に異物を取り入れるにおいて、

もっとも安全な方法だから。

 

う~ん。

 

だんだん、また分からなくなってきたぞ。

 

ディープな話題、月曜日の悪い癖だわ(><)

 

【光明】(コウミョウ)

明るく輝く光。

比喩的に、苦しい状況での、将来への明るい

見通し。

仏・菩薩の心身から放つ光。知恵や慈悲を象徴する。

(引用 広辞苑第5版 岩波書店)

 

【乱読】(ランドク)
何の方針も立てず、手当たり次第に書物を

読むこと。
(引用 広辞苑第5版 岩波書店)

 

(※1参考:森田雄三『間の取れる人間抜けな人』祥伝社2007)