淡路島で、泳げる海まで徒歩圏内、庭に畑がある、部屋数が多い、即入居可能の古民家、などの諸条件から、慶野松原の元民宿(旧名・長谷川荘)と出会った。約3か月間の家探し旅の初日に、すでに暫定候補に上がっていた物件で、その後これを超えるものは無かったわけだ。家探しとは、まさに自分たちのライフスタイルを再確認することであり、物件から逆におのれの生き方を迫られることでもある。

 移住によって劇的に変わる人生のステージ、新たな暮らしのありかた、還暦から再出発する未来への旅程、そのための「活動拠点」、「生活基地」として本当にふさわしい場所なのか。ここが人生の終の棲家になるという覚悟も含めて、迷い、悩み、考え、しかし決断までにさほど時間はかからなかった。

 過去の歴史的な「長谷川荘」に代わる、新しい名前を付けてあげなければならぬ。これもまあすんなり「風(しなど)庵」となった。様々な風に吹かれ生きてきて、今この地に吹き流されて漂着したという感覚。かつて乗っていたヨットの船名でもある。古い山人(サンカ)の言葉で風の神の意。これでいこう!





 慶野松原は淡路島屈指の長大な自然海岸である。そこから徒歩5分入った農村地帯、松帆慶野地区は114軒の結構大きな集落で、以前は民宿組合などもあったようだ。家々は隣接しているが、みんな敷地が大きいせいか圧迫感はない。家の外側に自然菜園、10台ほどの駐車スペース、壊れかけの農機具小屋兼ボートハウス(予定)。周囲が広々としていて開放感がある。海からの道の突き当りの家なのだが、門はぐるっとまわった東側にある。慶野の山から昇る朝日が当たる方角だ。

 そこから長屋門という独特の構造物をくぐり、家の内部へと入ってゆく。その入り口に表札を掲げた。2014年1月に死んだ父から先祖の名前を受け継いだのだ。戸籍名は一郎という平凡なもので、実際にそう呼ばれているのだが、父の遺言めいた勧めに従い「12代目有住佐兵衛一蔵」と名乗ることにした。妻は裕乃と書いて「ゆの」と読む。淡路島風庵で暮らして行く名前である。




 長屋門の建物は、母屋に比べれば古いが、それでもしっかりと立っている。門長屋と呼ばれる居住スペースがあり、民宿仕様の座敷が4室と、小部屋が2室、トイレと洗面設備が一応ある。冷暖房はないのだが、気候のよい時ならじゅうぶんに宿泊可能。普段は妻が機織りや布仕事の工房にも使う予定だと。

 淡路島で、この長屋門形式と出会って、すっかり気に入ってしまった。巨大な門でもあり、居住スペースでもある、という不思議な建造物だ。島の方には、何をいまさらのことではあろうが、都会者はびっくりだ。




 潜り門は常に開かれているが、それを通り抜けることにより、外と内の心理的な境界になっている。抜けたところが長屋門と母屋の間にある中庭。このスペースがあるおかげで、風庵の暮らしはかなりゆとりのあるものになる。決して閉じていない、外部に開放されているのに落ち着きが感じられる。プライベートのようであり、どこかパブリックさを残した味わい深いスペース。



 中庭の左側には、長屋門と母屋の間に小屋がある。小さな部屋が4室あるが居住性が良くないので、もっぱら大量の楽器倉庫、書庫、アトリエ代わりに使用している。まあ物置だ。ただこの小屋があるおかげで、南側に隣接する家との境界、目隠し効果があり、より落ちついた中庭になっている。さらに民宿時代の外の洗面場、風呂、シャワーなどもあるが、いまのところ活用する予定はない。海水浴客が多かった時には役に立ったのであろう。この庭を通り過ぎるといよいよ母屋の玄関になる。最近は薪などが積み上がり、ある種の作業スペースになってしまっている。物干し、堆肥の自然コンポスト、簡単な焼却炉、椎茸栽培実験なども雑多に置かれている。私には外の部屋、といった感覚の庭。



 そして風庵の母屋の玄関に到着する。いまのところ雑然とした雰囲気だ。まあ、あまり整理整頓されすぎた空間が好きではない、ということもあるが、もう少し玄関らしくしなさいという声もある。手書きの看板などを出しているので、ご近所からは「お店をやるんですか?」という声を戴くことが多い。「民宿を復活ですか?」とも言われる。最初のうちは営業することについて否定的なのだろうか?とも考えた。しかし慶野の方々にとっては、徒歩で行けて食事したり酒を飲んだりという地元の店を求めている、ということもあるのかも知れないなと気が付いてきた。かつてのホテル・レストラン業での経験を活かして営業すれば、この地区なら意外にうまくいくような気もする。しかし、どうも私の目指す方向は少し違うみたいなのだ。




 玄関の上に、あまり気が付く方もいないが、これも手造りの家紋を掲げてある。昔はそんな「家」のことなど関係ないと、ずっと無視してきた私だが、これも亡き父を記念してのこととご理解戴きたいと思う。

 父には「春で神戸の店を閉めるよ」と生前に伝えていた。それから後の人生ことは「桜の咲くころにゆっくり話そうや」と言っていたが、春を待たずにあわただしくこの世から旅立った。彼がもし生きていたら、淡路島の風庵に来てどんな感想を持っただろうか?ここでの滞在を楽しんでくれただろうか?と思う。

 一度は連れて来たかったなあと、そんな親不孝の思いも込めながらこの家紋を彫った。

 



 淡路島移住での家探し、その第2弾を書こうとして、なにやら変な方向になってしまった。

風庵は風に吹かれてどこに行くのだろうか?まずは私がここで暮らを楽しんでいる「生活基地」であること。人生のベースキャンプだ。そしてこれから私がやるであろう様々なことの「活動拠点」となるはずだ。

 その上で、この与えられた場所を、より開かれたスペースとして活用して行きたいとは思う。設備上、宿泊や飲食ができることはもちろんだが、あらかじめ一定の料金設定やメニューを決めたりする気があまりない。それよりも私が、これまで、これから、出会い知り合う人々のご縁を繋ぐ出会いの場所でありたい。

 そのことを貨幣経済に換算したり、売上高に計上したり、ということは、もうしなくてもよいのではないか。すべてはこれからの私が、何をやり、誰と出逢い、そこから生まれるコミュニティーを、風庵という器にどう盛り込むか、ということなのだろうと、いまはボチボチ考えている。逆に言えば、私と知り合えた方が「風庵を活用してこんなことがしてみたい」と言われる思いに、私が共感して動くということもあるのだろう。


 このへんの風庵のコンセプトについては、今日はここまで。また次回への宿題ってことで、失礼します。