2023.5.28
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=公人屋敷(旧:岡本邸)=
竣工 1864年(元治元年)
坂本は比叡山延暦寺への物資を供給する門前町として古くから栄えてきました。江戸時代になると、多くの里坊が坂本に作られるようになり、僧侶や日吉大社の神職者などと共に、大工や屋根職などの職人、延暦寺に物資を供給する商人など多様な人々が生活するようになります。その中で、延暦寺の僧侶でありながら妻帯と名字帯刀を認められた「公人(くにん)」と呼ばれる人がおり、公人は三塔十六谷からなる延暦寺の堂舎・僧坊に所属し、治安維持や年貢・諸役を収納する寺務を務めていました。
坂本は、徳川幕府から延暦寺に寺領として寄進されていたため、幕府や大名などの武家からの直接的な支配は受けませんでしたが、延暦寺の三執頭代、八学頭代、滋賀院留守居役が寺領を支配し、そのもとで坂本の行政全体を担う「大年寄」と言う役人が5人、さらに大年寄のもとに、町ごとに四至内年寄とも言われる年寄が置かれ、これらの役職を公人が務めました。
比叡山の延暦寺や里坊の経済を支えていたのは全国の大名から寄進された浄財であり寺領の村々からの年貢として納められた農作物でした。これらを取り仕切り、延暦寺の諸行事が滞りなく行われるよう、当時の社会制度の安定に大きな役割を果たしていたのが公人でした。
旧岡本邸は、公人が住んでいた住居の1つです。内部が原形をとどめないほど改装されている住居が多い中、岡本邸は全体に公人屋敷としての旧状をよくとどめた寺社関係大型民家の特徴を示す住宅として残されてきました。2001年(平成13年)に坂本地域の歴史的遺産の保存を目的として大津市に寄進されました。
岡本家は、明治維新後の神仏分離令で、延暦寺を離脱し、日吉大社の神職となったことから社家となって現在に至ります。
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⑥解体された渡り廊下
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⑧解体された離れ 明治時代以降は客人をもてなすために使われました。
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⑪主屋の中
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⑬台所
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㉑庭
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㉕シンプルな欄間ですね。
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㉟米蔵と馬屋 米蔵の屋根瓦には延暦寺の紋が施されているそうです。
=米蔵=
竣工 1794年(寛正6年)
屋敷内で最古の建物です。南側には尾岡本家の米蔵2棟が隣接されていましたが、昭和30年ごろに解体されました。
㊱米蔵は徴収した年貢米などを蓄えておく延暦寺専用の米蔵でした。
㊲馬屋 馬を飼育していたわけではなく、主に滋賀院等にあいさつのために坂本に訪れた上級武家の馬を預かるための施設でした。
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