2023.4.1

=上山城(別名:月岡城)=

藩名 上山藩

築城 1535年(天文4年)

築城主 武衛義忠

主な改修者 松平重忠

藤井松平氏石高 3万石

天守 模擬天守

南北朝時代に天童頼直(最上氏の祖斯波兼頼の孫)の子の上山満長が上山に配され、上山市松山の虚空蔵山に高楯城を築き居城としました。この高楯城は歴史的に最上家・伊達家・上杉家の領地との境目に位置していたことから、領地を巡る攻防が度々繰り返され、1514年(永正11年)、城主里見(上山)義房の時代に伊達稙宗がこの城を攻め落とし、伊達家の重将であった小梁川親朝に高楯城や長谷堂城を管理させましたが、翌年に最上義定と伊達稙宗が和睦したことから、最上家に高楯城を返還しました。

1520年(永正17年)に最上義定が継嗣のないまま亡くなると、伊達氏は最上氏に養子を出して最上氏を傀儡にしようとしましたが、村山地方の国人は伊達氏に反発し抵抗しだしたことから、その混乱に乗じて上山義房は挙兵しました。上山氏方には寒河江城主寒河江孝広、天童城主天童頼長、成沢氏などの有力国人が加担しましたが、伊達稙宗の勢いを止めることができず、義房は討ち死にしてしまいました。伊達氏は、この結果、最上氏や村山地方の国人を伊達氏の影響下に置きましたが、依然として伊達氏に対する反発は強かったことから、最上氏に伊達家の養子を出すことをあきらめ、最上氏一門の中野氏の最上義守に家督を継がせ、1535年(天文4年)に上山義房の子の武衛義忠が高楯城を奪回し、新たに現在地に上山城(月岡城)を築城しました。

その後城主は、武衛義節、そしてその子の上山満兼と続きます。満兼は最上義守の妹を娶って最上氏と縁戚を結びつつ、本家の天童氏とも連絡を取る一方で、敵対する伊達氏との関係改善も努めましたが、天正最上の乱で最終的に最上義光を裏切り、伊達氏側につくと、最上義光と対立するようになります。1580年(天正8年)に最上義光が里見民部を寝返らせて上山城を攻め、城主満兼は討ち死にし、代わって里見民部が城主となりました。

1622年(元和8年)に最上氏が最上騒動と呼ばれるお家騒動により改易された後は、能見松平氏の松平重忠が4万石で入封し、上山藩を立藩しました。重忠は城下町や交通路の整備を行い藩政の基礎を固めようとしましたが、4年後の1626年(寛永3年)に摂津三田藩へ移封となり、その後、蒲生氏、土岐氏、金森氏と目まぐるしく藩主が代わります。金森氏時代には城が破却されましたが、破却以前には本丸に三重の天守や各所に櫓門のある近世城郭で、その壮麗な城郭は「羽州の名城」と広く知れ渡っていました。

1697年(元禄10年)に備中庭瀬藩より松平信通が3万石で入封すると、ようやく藩主は安定します。しかし、小藩であり財政難であったことから、百姓一揆が頻発しました。松平氏時代には天守は再建されず、二の丸に居館を設けた程度でした。

1809年(文化6年)に藩校の天輔館(後の明新館)が設立されました。1868年(慶応4年)に始まる戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に参加しますが、米沢藩が新政府に恭順を示すと、背後からの攻撃を恐れて降伏し、版籍奉還を迎えました。最後の上山藩主は第10代松平信安で、1869年(明治2年)6月の版籍奉還では上山藩知事となり、1871年(明治4年)7月の廃藩置県後は藩知事を免官され東京に移りました。1884年(明治17年)には子爵に列しました。

上山城は、廃城令により取り壊しや払い下げられ、城跡は月岡公園および月岡神社の境内となり、1982年(昭和57年)に3層の模擬天守が建立されました。

=上山藩主の動向=

1622年(元和8年) 松平重忠(4万石で上山藩立藩)

1626年(寛永3年) 松平重忠(摂津三田藩へ)→蒲生忠知(4万石)

1627年(寛永4年) 蒲生忠知(伊予松山藩へ・24万石)→土岐頼行(2万5000石・次男土岐頼殷の時に3万5000石へ加増)

1692年(元禄5年) 土岐頼殷(越前野岡藩へ)→金森頼旹(飛騨高山藩より・3万8700石)

1697年(元禄10年) 金森頼旹(美濃郡上藩へ)→松平信通(備中庭瀬藩より・3万石)

羽州の名城 上山城 ホーム (kaminoyama-castle.info)

⑤七層塔(高さ約3m) 東京の虎ノ門に土岐氏の江戸上屋敷があり、そこにあった石灯篭6基と七層塔1基を土岐家から寄贈されました。上山城本丸庭園に2基、土岐家ゆかりの春雨庵、宮脇八幡神社、称念寺、十日町愛宕神社にそれぞれ1基の石灯篭が設置されています。

⑩西内堀跡 江戸時代前期の土岐氏の時代に上山城下は最も整備され、上山城の周りには二重の堀がめぐらされていましたが、1692年(元禄5年)に土岐氏の転封とともに幕府の命令によって上山城は石垣も含めて取り壊されました。明治時代の初期には堀の大部分が埋められてしまったことから、ここが唯一残された堀跡となっています。