2023.3.16 旧根岸競馬場一等馬見所

①私が近代建築に興味を持つきっかけになった建物、と言うよりは廃墟が好きだった時に知った建物です。その当時は近代建築の美しさと言うよりは、廃墟ということで興味を持っていた建物でしたが、20年の時を経て当時見た本の写真の建物と対面することになろうとは思っていませんでした。

=根岸競馬場一等馬見所=

竣工 1929年(昭和4年)

設計 J.H.モーガン

施工 大倉土木

横浜競馬場(通称:根岸競馬場)は、1866年(慶応2年)に日本初となる常設の様式競馬場として開設され、1937年(昭和12年)に日本競馬会横浜競馬場に改称、1943年(昭和18年)に閉場となりました。

コースの形態は右回りの芝コースで、1周距離は1,764m、幅員は28.8m。1937年(昭和12年)時点では1周距離1,632m、幅員は15mないし26.5mとされており、現在の中央競馬を開催する競馬場と比べても遜色のない大規模なものでした。

根岸競馬場が右回りとしたのは、東寺江戸幕府の財政がひっ迫していたため整地費用がかけられなかったと事に加えて、地形の関係で左回りにするとゴール前が上り坂となり、鍔迫り合いを演出することができなかったためとされています。

後に全国に作られた多くの競馬場が根岸競馬場に範をとって右回りのコースを採用したため、多くが左回りを採用している外国の競馬場とは異なる進化を遂げました。

1889年(明治22年)から使用されたメインスタンドは1911年(明治44年)に火災でその後大きく改修され木造3階建てのスタンドとなりましたが、1923年(大正12年)の関東大震災で半壊したため、新たなスタンドの建設が急務となりました。新スタンドの建設に当たって、根岸競馬場長のステーツ・アイザックは東京の丸の内ビルヂングを建設するために1920年(大正9年)に来日した米国フラー社の主任建築士だったJ.H.モーガンに新スタンドの設計を依頼しました。依頼内容としては、高い耐震性、格調の高い仕様、左右のコーナーを見やすいような機能的に優れた馬見所という条件を提示しました。

1929年(昭和4年)11月2日に8割完成した一等馬見所(収容人数4,500人)にて競馬を開催、1930年(昭和5年)には二等馬見所(収容人数6,000人)が竣工し、1932年(昭和7年)にはガラス張り天蓋庇を増設、1934年(昭和9年)には激増する入場者に対応するために二等馬見所が増設され、収容人数は2倍の12,000人になりました。一等馬見所からは港や富士山が見渡せる眺望の良さ、設備の豪華さから「東洋一」とも評され、後に全国に作られる競馬場のモデルとなりました。

戦時中は、1941年(昭和16年)に横浜競馬場クラブハウスは神奈川県警の手により敵国民間人収容所へ、1942年(昭和17年)に眺望の良い立地にある根岸競馬場は海軍省に接収され、横浜競馬の開催は中止に追い込まれました。1943年(昭和18年)6月10日に閉場となり、戦後はアメリカ陸軍に接収、接収の一部解除は1964年(昭和39年)で1969年(昭和44年)にその他の土地の大部分が日本政府に返還されました。1973年(昭和48年)に日本中央競馬会(現:JRA)に敷地の大部分が払い下げられたものの、米国に接収されている間に、周囲は住宅地となり、敷地の一部に米軍住宅が残されていたこと、さらに駅から離れた鉄道空白地帯であることを理由に、この地での競馬場の復活は困難となっていました。結局、競馬場として再開されることはなく、公園として整備されることとなり、1977年(昭和52年)には横浜市が大蔵省理財局から無償で借り受けて整備した「根岸森林公園」と「根岸競馬記念公苑」、「馬の博物館」が設けられました。

0088_20240319.pdf (yokohama.lg.jp)

④左側が一等馬見所、右側が二等馬見所で、現在は一等馬見所のみ残っています。

⑤一等馬見所

⑦一等観覧席貴賓室

⑧一等観覧席レストラン

⑪二等馬見所

=根岸競馬場二等馬見所=

竣工 1930年(昭和5年)

設計 J.H.モーガン

施工 大倉土木

解体 1988年(昭和63年)

⑫二等観覧席ホール