2023.2.18 一の鳥居 1921年(大正10年)の建立で、高さは11.4m。扁額は閑院宮載仁親王の筆によるもの。

④伴氏社 末社で祭神は菅原道真の母君。菅原道真の母親は大伴氏の出身であったことから伴氏社と称します。社の前の石鳥居は鎌倉時代の建立です。

⑧楼門 

⑨本殿(国宝) 1607年(慶長12年)の建立

=北野天満宮=

創建 947年(天暦元年)

祭神 菅原道真

社格 二十二社 官幣中社 別表神社

札所 菅公聖蹟二十五拝 洛陽天満宮二十五社順拝 神仏霊場巡拝の道(95番・京都15番)

現在、北野天満宮のある場所には天神地祇を祀る現・摂社の地主社と火雷神を祀る現・摂社の火之御子社の2つの社がありました。901年(昌泰4年)1月に右大臣菅原道真が左大臣藤原時平により大宰権帥に降格されて大宰府に左遷されるという昌泰の変が起き、903年(延喜3年)に大宰府で無念の死を遂げました。その後、909年(延喜9年)に藤原時平が亡くなり、さらに落雷などの災害が相次ぐと、これを道真の怨霊による祟りだとするうわさが広がったことから、朝廷は没後20年後の923年(延喜23年)4月20日に道真の左遷を撤回して、右大臣に官位を復し、正二位を贈りました。そんな中、930年(延長8年)6月26日に清涼殿に落雷が直撃し、大納言の藤原清貫と右中弁兼内蔵頭の平希世が死亡するという清涼殿落雷事件が発生しました。その3か月後に後醍醐天皇が崩御すると道真の怨霊に朝廷は恐れおののきました。

942年(天慶5年)に右京七条に住む多治比文子という少女が道真から北野に自分を祀る社を建てるようにとの託宣を受け、947年(天暦元年)に北野にあった朝日寺(現:東向観音寺)の最鎮らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺としました。そして、曼殊院門跡の是算国師が菅原家の出であったことから、初代北野別当職に任じられて以降は、曼殊院門跡が北野別当職を歴任することとなりました。この後、藤原時平の甥の藤原師輔によって壮大な社殿が造られました。

987年(永延元年)に一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られ、朝廷から篤い崇敬を受けました。

明治時代に入ると神仏分離令により、1868年(明治元年)に北野別当職を廃止し、曼殊院門跡と距離を置くようになりました。松梅院、徳勝院、妙蔵院の祠官三家も廃仏毀釈により廃寺とされ、北野天満宮にあるたくさんの仏堂も解体され、経王堂は大報恩寺に規模を縮小して移築され、多宝塔は扉の一部のみ地蔵院に、鐘楼は大雲院に移築されました。

1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名しました。これは「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要だったためです。戦後は、再び北野天満宮に改名して現在に至ります。

北野天満宮 (kitanotenmangu.or.jp)

⑩回廊(重要文化財)

⑫手水舎と花手水

⑰宝物殿 1928年(昭和3年)の建立。国宝の絵巻など重要な美術工芸品が展示されています。

⑱神楽殿

⑲社務所

⑳北野天満宮の境内には本殿を囲むように50社摂社と末社があります。

㉑文子天満宮 祭神は菅原道真。多治比文子が菅原道真を最初に祀った社で、かつては西ノ京にありましたが明治時代にこの地に遷座されました。

㉓地主社 祭神は天神地祇の神々。北野天満宮の創建以前からある境内で最も古い社です。

㉔老松社 祭神は島田忠臣

㉖老松社 祭神は島田忠臣 老松社は2社あるんですね。

㉗火之御子社 祭神は火雷神

㉘白太夫社 祭神は度会春彦

㉙福部社 祭神は十川能福

㉞三光門(中門)(重要文化財)