2023.2.17 総門

②庫裏 明応・文亀年間(1492年-1504年)の建立

③唐門

④舎利殿金閣 1955年(昭和30年)の再建

=北山鹿苑禅寺=

創建 1397年(応永4年)

開山 夢窓疎石

開基 足利義満

本尊 聖観音

宗派 臨済宗相国寺派

寺格 相国寺境外塔頭

札所 神仏霊場巡礼の道(93番・京都13番)

通称「金閣寺」で有名な、鹿苑寺の寺名は室町幕府第3代足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでおり、義満の北山山荘をその死後に寺としたものです。

鹿苑寺一帯は、鎌倉時代の元仁元年(1225年)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた場所でした。これ以降も公経の子孫である西園寺家が代々所有を続けていました。西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていましたが、鎌倉幕府の滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚し、これにより公宗は処刑され、西園寺家は膨大な所領と財産を没収され、寺としての西園寺は次第に修理されなくなっていきました。

1397年(応永4年)に金閣を建立した足利義満が河内国と交換に西園寺を譲り受け、これを改築と新築し北山山荘とし、これは当時「北山殿」「北山第」と呼ばれていました。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢のすべてが集約され、1394年(応永元年)に将軍職を子の義持に譲った義満は、実権は手放さずに北山殿にて政務を執っていました。

現在の金閣寺舎利殿は1399年(応永6年)に完成したと推定され、高さ約109mの相国寺の七重大塔も同年完成し、日本市場で最も高い仏塔だったと言われています。1403年(応永10年)に落雷により相国寺七重大塔が焼失すると、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建し、これは相国寺のものと同規模だったと推定されています。しかし、この塔も1416年(応永23年)の落雷で焼失してしまいました。

北山山荘は義満の妻日野康子の御所となっていましたが、1419年(応永26年)に死去すると舎利殿以外の寝殿等は解体されて、南禅寺や建仁寺に寄贈されました。そして、1420年(応永27年)に北山山荘は義満の遺言により禅寺となり、義満の法号である「鹿苑院殿」から「鹿苑寺」と名付けられました。金閣は応仁の乱でも焼失を免れ、1929年(昭和4年)には旧国宝に指定されましたが、1950年(昭和25年)7月2日未明に放火により舎利殿(金閣)と安置されていた仏像を焼失してしまいました。

これは、政府の補助や日本各地からの寄付により、1955年(昭和30年)に再建され、創建当時の姿に復元されました。

金閣寺 | 臨済宗相国寺派 (shokoku-ji.jp)

⑭方丈 1678年(延宝6年)の再建

⑳葦原島

㉑銀河泉 足利義満がお茶の水に使ったと伝わり、現在でも清水がわいています。

㉒巌下水 足利義満が手洗いに用いたと言われています。

㉓金閣寺垣と虎渓橋

㉕安民沢と白蛇の塚

㉖夕佳亭 1874年(明治7年)の再建

江戸時代に傾きかけた金閣を復興し、池泉庭を修復したのが鳳林承章でした。修学院を造営した後水尾上皇のために、承章が金森宗和に造らせたのが夕佳亭です。宗和が好んだ数奇屋造りの茶席で、「夕」日に映える金閣が特に「佳」いということからこの名が付けられました。南天の床柱と萩の違い棚で有名な3帖の茶室です。

㉘不動堂 天正年間(1573年-1593年)に宇喜多秀家により再建。本尊は不動明王で弘法大師の作と伝わります。

㉘抹茶ソフト